偏食な子犬拾いました
咲さんの思い出の味③
その日から先輩と咲さんの共同生活は始まった。
あくまで先輩には摂食障害の治療の一環としてという事は話さずにいた。
ただ『取立て屋』が大人しくなるのをここで様子をみよう、ということにして。
「おはよう、咲さん」
「おはようございます、坊ちゃん。お友達は庭にいますよ」
「庭?」
「私の代わりに洗濯干してくださってるんですよ」
窓から外を見ると、先輩が大きなシーツに悪戦苦闘しながら物干し竿に掛けている。
「食事とかどう? あれから吐いたりしてる?」
あまり俺が泊まり込んでしまうと余計に気を遣うだろうと、ここへの泊りは極限避けている。
それでも様子は気になるから、サボるサボらない関係なく時々こうやって先輩を見に来ていた。
「あまり吐かなくなりましたよ。それでもやっぱり完全にはね」
そりゃそうだ。
時間をかけて治療するものを、医者の手助けもなくシロウトの俺や咲さんの聞きかじり療法でやっているのだから。
「あとは先輩の中にある母親への概念っていうのかな? あれが少し治まればもっと良くなるとは思うんだけど」
俺の知っている先輩は、もっと明るくて快活で、後輩の面倒見のいい人だった。
部屋の隅っこで何かに怯えて、食事も摂れなくなるような人ではなかった筈なんだ。
俺が先輩の姿を最後に見たのは先輩の中学の卒業式。
俺はまだ中一で、入学式の後で行われた生徒会主催の新入生歓迎会でその姿を初めて見た。
先輩は副会長で、司会進行をしていたのを憶えている。
各部活紹介では、部長の話のところどころで合いの手を入れ生徒の笑いを取ったりもしていた。
学内でも先輩の人気は一目瞭然だった。
声を掛けられても、頼まれごとをしても嫌な顔一つせずに応えていた先輩は、本当に楽しそうに見えた。
それが俺の知らない二年の間に何が起こったのか?
聞くに聞けない。今の状態の先輩には聞くのは酷すぎる。
原因と思われる事柄が判明したのは、先輩とアパートを片付けにいった日だった。
咲さんと暮らし始めて半年を過ぎた頃、先輩の状態もだいぶ落ち着いてきたので私物をここに運び本格的にここで生活しようかという話になっていた。
あのアパートにいたところでまた取立てが来るだろうし、母親と暮らしていた場所に戻ってはまた病状が悪化するんじゃないのか? という判断からだ。
咲さんも一人でこの家にいるよりは先輩と住んでいた方が寂しくないし、何より先輩が心配だからこのまま一緒に住んで欲しいと切望していた。
久し振りに訪れたアパートはあの日のまま、というよりさらに荒んでいた。
また取立てでも来ていたのだろう。
「先輩、ガラス割れてるのが結構落ちてるから土足であがりますよ」
「ああ、怪我しないようにな」
最近では話しかければちゃんと返事をしてくれるようになった。
前よりも笑うようになってきて、このままいけば元の先輩に戻るのも近いなと思っていた。
持ってきたゴミ袋に新聞を敷き詰め、ちりとりで集めたガラス片や割れた食器を手あたり次第入れていく。
ある程度集め終わりスペースが出来たら、倒れた食器棚やタンスを起こしてとりあえず邪魔にならない場所へと設置する。
倒れていたものを起こしてしまうと、先輩の住んでいたアパートに殆ど物がないという事実が浮かび上がる。
勉強机も本棚も、よくよく見たら冷蔵庫すらない。
「……先輩、よくこんなところで生活してたなぁ」
ここに戻してはいけないという俺の判断は間違っていなかった、と思った。
戻したら間違いなく先輩は死んでしまう。
こんな場所には一秒足りとて長いはさせたくない。
きっと長く居れば先輩はまたあれこれと思い出すだろうし。
「先輩、持っていく私物どれですか?」
俺が先輩に聞いたその時だった。
誰も来るはずがないと思っていたアパートのドアが勢いよく開いた。
「やっと見つけた! どこ行ってたんだよ!」
ドアの音に驚いて振り返ると、そこに派手な服装の化粧の濃い女が立っていた。
女は不機嫌丸出しな顔をしながら赤いパンプスを履いたまま部屋に上がる。
「この半年、客が取れなくて酷い目に遭ってたんだよ! どうしてくれるんだ!」
女は先輩の前まで来ると、力いっぱい先輩の顔を平手打ちした。
バシン、と大きな音と共に先輩が膝から崩れ落ちていく。
「か、かあ……さん」
俺が女に誰だと尋ねる前に身元は判明した。
アレが先輩をボロボロにした元凶の母親らしい。
容貌の派手さは俺の母親に負けないものはあるが、まだ俺の母親の方が品がある。
一言でいって『けばけばしい』。先輩には悪いが夜の商売女丸出しの風貌だ。
「何なんですか? いきなり入ってきて平手打ちとかって」
先輩の母親だとは分かっているが、先輩をボロボロの状態にして置き去りにして今さら何しに来た、という意味を込めて女に声をかけた。
「自分の子供に何しようが勝手だろう。私の物なんだし」
「自分の子供だからって物扱いはおかしいんじゃないですか!?」
いきなりの『物』発言に少し強く言ってしまったが、女は俺を気にすることなくまた先輩に向き直った。
「ほら、丁度上客から連絡きてたんだよ。さっさと立ちな」
女は先輩の腕を掴むと無理矢理立たせようとしていた。
この半年で体重も力も少し回復していた先輩を、女は容易に起こせないでいる。
「客って何なんですか。まさか先輩にヤバい仕事させようとかしてませんよね!?」
「あんたに関係ないだろう。客は客だよ。こいつはいい身体してるから高く買ってもらえるんだよ」
意味合いからして女は先輩に売春させよとしている。
口ぶりからすると一回や二回どころのものではないっぽい。
「あなたは自分の子供を使って売春させているんですか!? 未成年ですよ!? 保護者としておかしいと思わないんですか!?」
「さっきから煩いね。自分の子供をどうしようが私の勝手だろう! 親が金に困ってるんだから助けるのが子供の役目だ!」
この女には親としての自覚もなければ常識もない。自分が良ければそれでいいとしか思っていないように感じる。
「……じゃあ、俺が先輩を買います。今日だけでなく永遠に」
何言っても通じないなら、同じ言語で話すしかない。
汚い世界だと嫌っていても、先輩を救い出すのにそれしかないなら俺はそれに従うまでだ。
「こんなガキに幾ら払えるってんだ。今日の客なんか一日貸し切りで十万くれるって言ってるんだ」
「へぇ、それだけ。一括で三千万。それで先輩を買い取ります」
女は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに歪んだ馬鹿にしたような顔に戻った。
「どこにそんな金があるんだい。ガキがそんな金用意出来るわけないだろう。馬鹿にしてるのかい!」
「普通のガキならば、ですよね。俺、普通じゃないんで」
侮蔑を込めて女に言い渡し、鼻で笑ってやった。
こんなので母親と名乗って欲しくない。
先輩にこんな女の子供でいて欲しくない。
「なら金持ってきな。本当に持ってきたらこいつを譲ってやるよ」
「現金で持ってきてもいいですが、一切警護もなにもしませんよ。あと、ただ渡すと『そんな約束してない』と先輩を連れ戻す可能性もあるので、誓約書作らせてもらいます」
「警護なんていらないわよ、銀行なんてとっくに使えなくなってるんだから! 誓約書でも何でもいいから、さっさと持ってきな!」
切羽詰まっているのか、かなり早急に現金が欲しそうな様子だ。
しかし現金で三千万を持って歩こうなんて正気の沙汰ではない。
本当にどうなっても俺は知らない。
「じゃあ明日、ここに現金を持ってくる。時間は今日と同じくらいに」
女は俺が言い終わらないうちに、外の話声を聞きつけると逃げるように出ていった。
「誓約書の内容も聞かないで行っちゃったよ。ま、その方が都合がいいんだけどさ」
先輩の方を向くと、まだ先輩は蹲ったままだった。
よく見ると震えている。
「先輩、こんな負の環境から抜け出させてあげますよ」
**********
翌日、昨日よりも少し遅い時間に女は現れた。
先輩は女に会わせたくなくて家に置いてきた。
昨日のやり取りを途中から聞こえていなかったみたいで、俺がアパートに行くと言ったら不思議がっていた。
わざと『あからさまに現金です』的なアタッシュケースに入れた金は、咲さんに見せると余計な心配をかけるので家には持ち込まなかった。
勿論俺は自衛のために自宅の運転手に車で送迎して貰っている。
両親への口止めもしっかりとしておいた。
「金が欲しい割には遅かったですね。さっさと契約してしまいましょう」
かなり酒臭い。
遅れたのもそのせいだろう。
服装も昨日と同じものだし、化粧はそのままかちょっと直した程度なのか崩れたままだ。
「何でもいいから早くお金ちょうだいよ!」
「じゃあここにサインと拇印を」
女は内容も確認しないで俺からボールペンを取り上げるとサインし、朱肉を付けた親指を乱暴に誓約書へ押し付けた。
「これで契約成立です。お金はこちらに。あと、これが誓約書の写しになります。よく読んでおいた方がいいですよ、後で後悔してももう遅いですけどね」
そう言ってアタッシュケースと誓約書の写しを女に渡した。
誓約書の内容を読ませようとわざとあんな言い方をいたからか、女は俺から奪うように写しを受け取って目を通した。
「何よこれ!」
「だから昨日も誓約書の内容を言おうと思ってたのに、さっさと帰るから。契約は成立、書かれているよう
今さら取り消しはなしです」
女はギャーギャー喚き出したが無視した。
あとはタレコミした取立て屋と鉢合わせないうちにここを離れるだけだ。
女がどの項目に喚いたのかは知らないが、多分『今後一切、俺と先輩に近づかないこと。近づいたことが判明した場合、渡した金は全額返金すること』か『金に困ろうが病気になろうが一切連絡するな。破った場合は全額返金』だろう。
子供を金づるとしか思っていない女なんて、自分に都合が悪くなると何だかんだ言ってすり寄ってくるのは目に見えている。
だから敢えて返金不可能な金額を渡してやった。
咲さんの家に帰ると、先輩と咲さんが仲良くぬか床を面倒みていた。
混ぜているのは咲さんで、先輩はその様子を興味深そうに眺めていた。
「ただいま」
「あらお帰りなさい、ぼっちゃん。今、お友達と何の野菜を入れようかって話してたんですよ」
「へぇ、俺はやっぱり人参がいいな。先輩、人参洗って入れてくださいね」
「分かってるよ。お前、いつも真っ先に人参食べてるからな」
俯いたままだったが、先輩は返事をしてくれた。
しかも、いつの間にか俺のぬか漬けの好みまで把握してくれていた。
これは感動というか感激でしかない。
「先輩、もしかして俺のこと好き?」
「ちげーよ。俺の食べる分の人参までなくなるから覚えてただけだ」
そう言うが、ちゃんと他の人の分は残して食べている。
照れ隠しなんだろうが、見ていてくれたというだけで舞い上がってしまう。
「漬かるのが楽しみですねぇ」
そんな咲さんの言葉が叶わなくなるなんて、その時俺も先輩も思いもしなかった。
**********
その日は雨だった。
朝寝坊をしてしまい、咲さんの家に寄ることもしないまま学校へ行った。
いつものように学校帰りに咲さんの家へと向かうと、家の前がやたら騒がしい。
「またどっかの車が事故ったのか?」
迷惑だな、と思いながら近づくと事故どころの問題ではなかった。
何故か家の周辺には『立ち入り禁止』のテープと警察。ただ事ではない。
「ちょ……!? すいません! この家の親戚の者ですが、何があったんですか!?」
野次馬の壁を掻きわけて先頭まで進むと、近くにいた警察を捕まえて尋ねた。
「親戚? この家には身寄りのない年寄りが独りで住んでいると聞いたが?」
「正確にいえば親戚というより、ここの人が勤めていた家の者です。嘘だと思うなら家に電話してもらってもいい!」
制服の内ポケットから生徒手帳を取り出し、警察の前にかざした。
こんなことをしたって繋がりが分かる訳ではなのだが、俺の苗字で『誰か』ということを悟ったらしくこの警察はテープの内側に俺を入れてくれた。
「殺されたんだよ、家の人が」
「え!? 咲さんと先輩が!?」
目の前が真っ暗になるというのを初めて体験した。
それまでどんなショックなことに出会おうと、ここまでの衝撃を受けることはなかった。
唯一心を許したというか、本当の家族として過ごしてきた咲さんが殺されたという事実。
『死』ということがまるで飲み込めない。
「先輩というのが誰か分からないが、殺されたのはここの住人の女性だけだ。犯人は二人組らしいが逃走中だ」
辛うじて聞き取れた単語で、先輩が無事だというのは分かったが警察はその姿を見ていない。
二人組ということから、間違っても先輩が犯人ということではなさそうだ。
「身寄りがないと聞いているので、そちらへ連絡がいくかもしれないのでご両親にも話しておいてください」
呆然とする俺の背中を押して現場から帰らせる警察は、そう言い残していった。
帰って両親にそのことを伝えなくてはいけないと思いつつも、足は自宅とは違う方向へ向かっていた。
「先輩、いるんでしょ。出てきてよ」
向った先はあのアパート、先輩の元住んでいた場所だ。
咲さんの家にいなかったとすれば、先輩はここにいると俺は疑わなかった。
俺の声に反応するように、閉められた押し入れからガタと物音がした。
しかし出てくる気配は一向にない。
「出てこないなら、俺から行きますよ」
もうガラス片はないが塵や埃は積もっていたので土足で中へと進む。
躊躇うことなく襖を大きく開け、薄暗い押し入れの奥に縮こまる先輩の腕を掴んで力任せに引っ張り出した。
「誰が、咲さんを……!?」
「……」
「……答えてよ先輩、見てたんでしょ!? 見たからここに逃げたんでしょ!?」
俺にも怯えているのか、先輩は震えながら大きな身体を小さく丸め込んだ。
俺が急に怒鳴ったのもいけなかった。
俺も動揺しているが、先輩はそれ以上に動揺している筈なのに。
大きく深呼吸を繰り返し、無理矢理冷静さを取り戻す。
「先輩、俺です。大丈夫、ゆっくり何が起こったか教えてください」
表面だけの冷静さを保ちながら先輩にゆっくりと語り掛ける。
何回も『大丈夫』と繰り返し、頭を撫でていくうちにポツリと単語を話すようになった。
「かぁさんと……、おとこが……」
「かあさん? おとこ?」
その二つで何となく顛末が分かった気がした。
どうやって知ったかは不明がだ、あの女は咲さんの家に先輩がいると知って性懲りもなく連れ戻しにきたのだろう。
しかも自分の男を使って。
「分かったよ、先輩。ありがとう。もうこれ以上先輩に怖い思いはさせないから」
泣くことが出来るくらいまで落ち着いた先輩に、自分が着ていた薄手のコートをそっと掛けてそのままアパートから出ていった。
「……こんなに怒ったのは初めてかもしれない。あいつらは絶対に許さない」
社会的にも人間的にも抹殺してやろう、と。
**********
『住宅地での老女殺人事件 犯人の男逮捕』
そう新聞に小さく記事が載ったのは数か月後だった。
すっかり辺りは寒くなり、冬景色へと変わっていた。
先輩はあれ以来アパートへ籠ってしまった。
食事は辛うじて摂ってはくれるものの、俺が何か話しかけてもあまり反応はしなくなった。
「先輩、咲さんを殺した犯人も捕まった。もう元の生活に戻りましょう」
「……それでも母さんはまた来る。今度こそ俺を逃がさない」
いくら大丈夫だと言っても、先輩は学校へ行くことも外へ出ることすらも拒んだ。
「何に怯えてるんですか!? 俺が言ってることも信じられないんですか!?」
「どこに母さんが来ないって保証があるんだよ!?」
言い切らないうちに、俺は先輩の頬を引っ叩いていた。
「甘えるのもいい加減にしろ」
引っ叩かれた先輩は驚いた顔で俺を見ていたが、何か言い出す前に反対側の頬も引っ叩いた。
「もうあの女は来ない。なぜなら俺があの女から先輩を買い取ったから」
俺は先輩の胸倉を掴み、睨みつけて続けた。
「買い取ったのは随分前だ。その時の契約違反を犯して先輩に会いに来て、結果咲さんを殺した。だからそれなりの仕打ちをしてやった。二度と俺達の前には現れることはないだろう」
「な、何を言って……」
言っている意味が分からないのか、先輩は怯え始めた。
俺の中で何かが壊れたのだろう、そんな先輩を見ても続けるのを止めようと思わなかった。
「買われた先輩は俺の奴隷なんですよ。殺そうが、何しようが俺の勝手」
掴んだ胸倉を引き寄せ、強引にキスをした。
先輩は嫌がって逃げようとしたが、そのまま押し倒し大人しくなるまでキスを止めなかった。
「……このまま犯したっていいんだ」
そう言って唇を離し先輩の顔をみると、何故か悲しそうにしていた。
「何でそんなこと言うんだよ」
何故か先輩は涙を流していた。
悲しそうにしていただけでなく、泣いていたんだ。
「じゃあ何でそんな苦しそうな顔すんだよ。犯すなら言わないで犯せばいいだろう。奴隷だっていうなら、そんな辛そうに俺にキスするなよ」
俺が苦しそう? 辛そう?
そんな言葉は初めて聞いた。嘘くさい笑顔だとか、何考えてるか分からないとはよく言われたが。
いや、初めてではない。何年か前にも言われている。
『坊ちゃんは辛そうですね』
誰にでも差し障りなく笑顔で応えていたなか、咲さんだけがそう言っていた。
その時だってそんな顔はしていなかった筈だった。
なのに咲さんだけが、俺の表面だけの表情を見ずにそう言っていた。
今の先輩もそうなのか?
キスに表情なんて現れるものなのか?
疑問を考える間もなく、二本の腕が俺を抱きしめ思考を停止させた。
「何でそこまで我慢してるんだよ。俺がこんなだからか?」
「ちが……」
「じゃあもう我慢するなよ。俺が守るから」
先輩の口から意外な言葉が出された。
俺が守る?
「俺を奴隷だと思うならそれでもいい。俺はお前の奴隷としてお前を守る。ただ、もう少しだけ時間が欲しい。まだ母さんの影から、咲さんの死から立ち直れない……」
「先輩……」
何だろう、目頭が熱い。視界が歪む。
さっきまで先輩を『甘えるな』と言っていた立場が逆転している気もする。
「俺の前だけでいいから、素の自分を出してくれよな」
**********
その日を境に先輩は外に出る練習を始めた。
一人では不安だというので俺がいる時間だけアパートの周りを歩いたり、夜中にコンビニへ行ったりと徐々に範囲を広げた。
春になる頃には一人で昼間に買い物に出れるまでに回復した。
「もう大丈夫ですね。復学できそう?」
「高校だけは卒業しておきたいから。留年してしまったが、四月から学校へ戻るよ」
本当は外に出れるようになったら学校は辞めて働きに出るつもりだったそうだ。
でもいつの間にそんな手続きをしたのか、咲さんが自分の財産を先輩へと遺す手続きをしていた。
住んでいた家も、貯金も、何もかも。
最初は断った先輩だったが、俺や手続きに関わった弁護士からの勧めで財産を受け取り、それで学校へ通うという次第になった。
「家はどうするんですか? あんな事があった家じゃ住みにくいとは思うけど……」
「あそこは道路になるらしいよ。元々狭い道だから広げるんだって。ここもその対象になってる」
先輩は笑顔でそう言ったが、本心はそうでもなかっただろう。
咲さんの家にしても今住んでいる家にしても、それなりに思い出があった筈だ。
「ここ引き払ったらどこに住むんですか?」
「どっか適当に安いアパートでも見つけるよ。一人だし」
「それなら俺と住みませんか? あ、俺の自宅じゃなくて」
元々自宅は出る予定だったし、それが少し早くなっただけの事。
「俺、自分のマンション買うんで、そこに先輩一緒に来てください。家賃はいらないんで、食事さえ作ってくれれば」
「……お前何者なの?」
「そのうち話しますよ。いいですよね? 俺の『奴隷』なんですから」
いまさらこんな言い方するのも変だけど、咲さんの遺産を貰った現在は先輩は経済的にそんなに困っていない。
ならばこういう言い方でもしなければ生活費を払うと言い出すだろうし、一緒に住んでくれるとも言ってはえなさそうだ。
「分かった。こっちも条件だしていいか? 『奴隷』ならば敬語も『先輩』もなしにしよう。OKならば同居する」
ニヤリと笑った先輩は、俺がNOと言わないのを確信している。
「分かりました。苗字でいいですか?」
「ダメに決まってるだろう。二人の時は特にな」
**********
「え? え? だから香西さんは『奴隷』って僕に言ったんですか?」
「そうだが? 恋人でもあるって言ってただろう?」
「でも今の話だと、大樹さんが告白したとしか聞いてませんが?」
「恋人に至るまでの濃厚な話が聞きたいなら別だが?」
そう言ってやるとポチは全力でブンブンと首を横に振って否定した。
「それで、この話の何が予備知識なんですか?」
「今、咲さんの話をしただろう。それが香西にとって未だに深く傷になって残ってるということだ」
傷といっていいのか、俺が傷つける原因を作ったといっていいのか。
「あの日以来、香西は咲さんの命日になると機能が停止する。まさに『壊れた』といった表現がふさわしい」
「壊れた……」
「ああ。動かない、喋らない、食べない、眠らない。唯一しているのは息とたまに排泄だ」
あの時をなかった事にしたいのか、自分の時を止めてしまう。
俺が触れようが何しようが、まったく反応を見せない。
「だから、その日が来てもポチも慌てることなく、普通に過ごしてくれ」
「普通って」
「普通だ。通常運転。起きて、飯食って、仕事して。いいな」
腑に落ちないようだったが、ポチはコクンと頷くとそのまま黙り込んでしまった。
「香西には咲さんのこと聞いたというのは黙ってろよ」
返事はなかったが、俺はこれ以上話すこともなかったので寝室を後にし、そっと香西の眠る部屋へと戻っていった。
あくまで先輩には摂食障害の治療の一環としてという事は話さずにいた。
ただ『取立て屋』が大人しくなるのをここで様子をみよう、ということにして。
「おはよう、咲さん」
「おはようございます、坊ちゃん。お友達は庭にいますよ」
「庭?」
「私の代わりに洗濯干してくださってるんですよ」
窓から外を見ると、先輩が大きなシーツに悪戦苦闘しながら物干し竿に掛けている。
「食事とかどう? あれから吐いたりしてる?」
あまり俺が泊まり込んでしまうと余計に気を遣うだろうと、ここへの泊りは極限避けている。
それでも様子は気になるから、サボるサボらない関係なく時々こうやって先輩を見に来ていた。
「あまり吐かなくなりましたよ。それでもやっぱり完全にはね」
そりゃそうだ。
時間をかけて治療するものを、医者の手助けもなくシロウトの俺や咲さんの聞きかじり療法でやっているのだから。
「あとは先輩の中にある母親への概念っていうのかな? あれが少し治まればもっと良くなるとは思うんだけど」
俺の知っている先輩は、もっと明るくて快活で、後輩の面倒見のいい人だった。
部屋の隅っこで何かに怯えて、食事も摂れなくなるような人ではなかった筈なんだ。
俺が先輩の姿を最後に見たのは先輩の中学の卒業式。
俺はまだ中一で、入学式の後で行われた生徒会主催の新入生歓迎会でその姿を初めて見た。
先輩は副会長で、司会進行をしていたのを憶えている。
各部活紹介では、部長の話のところどころで合いの手を入れ生徒の笑いを取ったりもしていた。
学内でも先輩の人気は一目瞭然だった。
声を掛けられても、頼まれごとをしても嫌な顔一つせずに応えていた先輩は、本当に楽しそうに見えた。
それが俺の知らない二年の間に何が起こったのか?
聞くに聞けない。今の状態の先輩には聞くのは酷すぎる。
原因と思われる事柄が判明したのは、先輩とアパートを片付けにいった日だった。
咲さんと暮らし始めて半年を過ぎた頃、先輩の状態もだいぶ落ち着いてきたので私物をここに運び本格的にここで生活しようかという話になっていた。
あのアパートにいたところでまた取立てが来るだろうし、母親と暮らしていた場所に戻ってはまた病状が悪化するんじゃないのか? という判断からだ。
咲さんも一人でこの家にいるよりは先輩と住んでいた方が寂しくないし、何より先輩が心配だからこのまま一緒に住んで欲しいと切望していた。
久し振りに訪れたアパートはあの日のまま、というよりさらに荒んでいた。
また取立てでも来ていたのだろう。
「先輩、ガラス割れてるのが結構落ちてるから土足であがりますよ」
「ああ、怪我しないようにな」
最近では話しかければちゃんと返事をしてくれるようになった。
前よりも笑うようになってきて、このままいけば元の先輩に戻るのも近いなと思っていた。
持ってきたゴミ袋に新聞を敷き詰め、ちりとりで集めたガラス片や割れた食器を手あたり次第入れていく。
ある程度集め終わりスペースが出来たら、倒れた食器棚やタンスを起こしてとりあえず邪魔にならない場所へと設置する。
倒れていたものを起こしてしまうと、先輩の住んでいたアパートに殆ど物がないという事実が浮かび上がる。
勉強机も本棚も、よくよく見たら冷蔵庫すらない。
「……先輩、よくこんなところで生活してたなぁ」
ここに戻してはいけないという俺の判断は間違っていなかった、と思った。
戻したら間違いなく先輩は死んでしまう。
こんな場所には一秒足りとて長いはさせたくない。
きっと長く居れば先輩はまたあれこれと思い出すだろうし。
「先輩、持っていく私物どれですか?」
俺が先輩に聞いたその時だった。
誰も来るはずがないと思っていたアパートのドアが勢いよく開いた。
「やっと見つけた! どこ行ってたんだよ!」
ドアの音に驚いて振り返ると、そこに派手な服装の化粧の濃い女が立っていた。
女は不機嫌丸出しな顔をしながら赤いパンプスを履いたまま部屋に上がる。
「この半年、客が取れなくて酷い目に遭ってたんだよ! どうしてくれるんだ!」
女は先輩の前まで来ると、力いっぱい先輩の顔を平手打ちした。
バシン、と大きな音と共に先輩が膝から崩れ落ちていく。
「か、かあ……さん」
俺が女に誰だと尋ねる前に身元は判明した。
アレが先輩をボロボロにした元凶の母親らしい。
容貌の派手さは俺の母親に負けないものはあるが、まだ俺の母親の方が品がある。
一言でいって『けばけばしい』。先輩には悪いが夜の商売女丸出しの風貌だ。
「何なんですか? いきなり入ってきて平手打ちとかって」
先輩の母親だとは分かっているが、先輩をボロボロの状態にして置き去りにして今さら何しに来た、という意味を込めて女に声をかけた。
「自分の子供に何しようが勝手だろう。私の物なんだし」
「自分の子供だからって物扱いはおかしいんじゃないですか!?」
いきなりの『物』発言に少し強く言ってしまったが、女は俺を気にすることなくまた先輩に向き直った。
「ほら、丁度上客から連絡きてたんだよ。さっさと立ちな」
女は先輩の腕を掴むと無理矢理立たせようとしていた。
この半年で体重も力も少し回復していた先輩を、女は容易に起こせないでいる。
「客って何なんですか。まさか先輩にヤバい仕事させようとかしてませんよね!?」
「あんたに関係ないだろう。客は客だよ。こいつはいい身体してるから高く買ってもらえるんだよ」
意味合いからして女は先輩に売春させよとしている。
口ぶりからすると一回や二回どころのものではないっぽい。
「あなたは自分の子供を使って売春させているんですか!? 未成年ですよ!? 保護者としておかしいと思わないんですか!?」
「さっきから煩いね。自分の子供をどうしようが私の勝手だろう! 親が金に困ってるんだから助けるのが子供の役目だ!」
この女には親としての自覚もなければ常識もない。自分が良ければそれでいいとしか思っていないように感じる。
「……じゃあ、俺が先輩を買います。今日だけでなく永遠に」
何言っても通じないなら、同じ言語で話すしかない。
汚い世界だと嫌っていても、先輩を救い出すのにそれしかないなら俺はそれに従うまでだ。
「こんなガキに幾ら払えるってんだ。今日の客なんか一日貸し切りで十万くれるって言ってるんだ」
「へぇ、それだけ。一括で三千万。それで先輩を買い取ります」
女は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに歪んだ馬鹿にしたような顔に戻った。
「どこにそんな金があるんだい。ガキがそんな金用意出来るわけないだろう。馬鹿にしてるのかい!」
「普通のガキならば、ですよね。俺、普通じゃないんで」
侮蔑を込めて女に言い渡し、鼻で笑ってやった。
こんなので母親と名乗って欲しくない。
先輩にこんな女の子供でいて欲しくない。
「なら金持ってきな。本当に持ってきたらこいつを譲ってやるよ」
「現金で持ってきてもいいですが、一切警護もなにもしませんよ。あと、ただ渡すと『そんな約束してない』と先輩を連れ戻す可能性もあるので、誓約書作らせてもらいます」
「警護なんていらないわよ、銀行なんてとっくに使えなくなってるんだから! 誓約書でも何でもいいから、さっさと持ってきな!」
切羽詰まっているのか、かなり早急に現金が欲しそうな様子だ。
しかし現金で三千万を持って歩こうなんて正気の沙汰ではない。
本当にどうなっても俺は知らない。
「じゃあ明日、ここに現金を持ってくる。時間は今日と同じくらいに」
女は俺が言い終わらないうちに、外の話声を聞きつけると逃げるように出ていった。
「誓約書の内容も聞かないで行っちゃったよ。ま、その方が都合がいいんだけどさ」
先輩の方を向くと、まだ先輩は蹲ったままだった。
よく見ると震えている。
「先輩、こんな負の環境から抜け出させてあげますよ」
**********
翌日、昨日よりも少し遅い時間に女は現れた。
先輩は女に会わせたくなくて家に置いてきた。
昨日のやり取りを途中から聞こえていなかったみたいで、俺がアパートに行くと言ったら不思議がっていた。
わざと『あからさまに現金です』的なアタッシュケースに入れた金は、咲さんに見せると余計な心配をかけるので家には持ち込まなかった。
勿論俺は自衛のために自宅の運転手に車で送迎して貰っている。
両親への口止めもしっかりとしておいた。
「金が欲しい割には遅かったですね。さっさと契約してしまいましょう」
かなり酒臭い。
遅れたのもそのせいだろう。
服装も昨日と同じものだし、化粧はそのままかちょっと直した程度なのか崩れたままだ。
「何でもいいから早くお金ちょうだいよ!」
「じゃあここにサインと拇印を」
女は内容も確認しないで俺からボールペンを取り上げるとサインし、朱肉を付けた親指を乱暴に誓約書へ押し付けた。
「これで契約成立です。お金はこちらに。あと、これが誓約書の写しになります。よく読んでおいた方がいいですよ、後で後悔してももう遅いですけどね」
そう言ってアタッシュケースと誓約書の写しを女に渡した。
誓約書の内容を読ませようとわざとあんな言い方をいたからか、女は俺から奪うように写しを受け取って目を通した。
「何よこれ!」
「だから昨日も誓約書の内容を言おうと思ってたのに、さっさと帰るから。契約は成立、書かれているよう
今さら取り消しはなしです」
女はギャーギャー喚き出したが無視した。
あとはタレコミした取立て屋と鉢合わせないうちにここを離れるだけだ。
女がどの項目に喚いたのかは知らないが、多分『今後一切、俺と先輩に近づかないこと。近づいたことが判明した場合、渡した金は全額返金すること』か『金に困ろうが病気になろうが一切連絡するな。破った場合は全額返金』だろう。
子供を金づるとしか思っていない女なんて、自分に都合が悪くなると何だかんだ言ってすり寄ってくるのは目に見えている。
だから敢えて返金不可能な金額を渡してやった。
咲さんの家に帰ると、先輩と咲さんが仲良くぬか床を面倒みていた。
混ぜているのは咲さんで、先輩はその様子を興味深そうに眺めていた。
「ただいま」
「あらお帰りなさい、ぼっちゃん。今、お友達と何の野菜を入れようかって話してたんですよ」
「へぇ、俺はやっぱり人参がいいな。先輩、人参洗って入れてくださいね」
「分かってるよ。お前、いつも真っ先に人参食べてるからな」
俯いたままだったが、先輩は返事をしてくれた。
しかも、いつの間にか俺のぬか漬けの好みまで把握してくれていた。
これは感動というか感激でしかない。
「先輩、もしかして俺のこと好き?」
「ちげーよ。俺の食べる分の人参までなくなるから覚えてただけだ」
そう言うが、ちゃんと他の人の分は残して食べている。
照れ隠しなんだろうが、見ていてくれたというだけで舞い上がってしまう。
「漬かるのが楽しみですねぇ」
そんな咲さんの言葉が叶わなくなるなんて、その時俺も先輩も思いもしなかった。
**********
その日は雨だった。
朝寝坊をしてしまい、咲さんの家に寄ることもしないまま学校へ行った。
いつものように学校帰りに咲さんの家へと向かうと、家の前がやたら騒がしい。
「またどっかの車が事故ったのか?」
迷惑だな、と思いながら近づくと事故どころの問題ではなかった。
何故か家の周辺には『立ち入り禁止』のテープと警察。ただ事ではない。
「ちょ……!? すいません! この家の親戚の者ですが、何があったんですか!?」
野次馬の壁を掻きわけて先頭まで進むと、近くにいた警察を捕まえて尋ねた。
「親戚? この家には身寄りのない年寄りが独りで住んでいると聞いたが?」
「正確にいえば親戚というより、ここの人が勤めていた家の者です。嘘だと思うなら家に電話してもらってもいい!」
制服の内ポケットから生徒手帳を取り出し、警察の前にかざした。
こんなことをしたって繋がりが分かる訳ではなのだが、俺の苗字で『誰か』ということを悟ったらしくこの警察はテープの内側に俺を入れてくれた。
「殺されたんだよ、家の人が」
「え!? 咲さんと先輩が!?」
目の前が真っ暗になるというのを初めて体験した。
それまでどんなショックなことに出会おうと、ここまでの衝撃を受けることはなかった。
唯一心を許したというか、本当の家族として過ごしてきた咲さんが殺されたという事実。
『死』ということがまるで飲み込めない。
「先輩というのが誰か分からないが、殺されたのはここの住人の女性だけだ。犯人は二人組らしいが逃走中だ」
辛うじて聞き取れた単語で、先輩が無事だというのは分かったが警察はその姿を見ていない。
二人組ということから、間違っても先輩が犯人ということではなさそうだ。
「身寄りがないと聞いているので、そちらへ連絡がいくかもしれないのでご両親にも話しておいてください」
呆然とする俺の背中を押して現場から帰らせる警察は、そう言い残していった。
帰って両親にそのことを伝えなくてはいけないと思いつつも、足は自宅とは違う方向へ向かっていた。
「先輩、いるんでしょ。出てきてよ」
向った先はあのアパート、先輩の元住んでいた場所だ。
咲さんの家にいなかったとすれば、先輩はここにいると俺は疑わなかった。
俺の声に反応するように、閉められた押し入れからガタと物音がした。
しかし出てくる気配は一向にない。
「出てこないなら、俺から行きますよ」
もうガラス片はないが塵や埃は積もっていたので土足で中へと進む。
躊躇うことなく襖を大きく開け、薄暗い押し入れの奥に縮こまる先輩の腕を掴んで力任せに引っ張り出した。
「誰が、咲さんを……!?」
「……」
「……答えてよ先輩、見てたんでしょ!? 見たからここに逃げたんでしょ!?」
俺にも怯えているのか、先輩は震えながら大きな身体を小さく丸め込んだ。
俺が急に怒鳴ったのもいけなかった。
俺も動揺しているが、先輩はそれ以上に動揺している筈なのに。
大きく深呼吸を繰り返し、無理矢理冷静さを取り戻す。
「先輩、俺です。大丈夫、ゆっくり何が起こったか教えてください」
表面だけの冷静さを保ちながら先輩にゆっくりと語り掛ける。
何回も『大丈夫』と繰り返し、頭を撫でていくうちにポツリと単語を話すようになった。
「かぁさんと……、おとこが……」
「かあさん? おとこ?」
その二つで何となく顛末が分かった気がした。
どうやって知ったかは不明がだ、あの女は咲さんの家に先輩がいると知って性懲りもなく連れ戻しにきたのだろう。
しかも自分の男を使って。
「分かったよ、先輩。ありがとう。もうこれ以上先輩に怖い思いはさせないから」
泣くことが出来るくらいまで落ち着いた先輩に、自分が着ていた薄手のコートをそっと掛けてそのままアパートから出ていった。
「……こんなに怒ったのは初めてかもしれない。あいつらは絶対に許さない」
社会的にも人間的にも抹殺してやろう、と。
**********
『住宅地での老女殺人事件 犯人の男逮捕』
そう新聞に小さく記事が載ったのは数か月後だった。
すっかり辺りは寒くなり、冬景色へと変わっていた。
先輩はあれ以来アパートへ籠ってしまった。
食事は辛うじて摂ってはくれるものの、俺が何か話しかけてもあまり反応はしなくなった。
「先輩、咲さんを殺した犯人も捕まった。もう元の生活に戻りましょう」
「……それでも母さんはまた来る。今度こそ俺を逃がさない」
いくら大丈夫だと言っても、先輩は学校へ行くことも外へ出ることすらも拒んだ。
「何に怯えてるんですか!? 俺が言ってることも信じられないんですか!?」
「どこに母さんが来ないって保証があるんだよ!?」
言い切らないうちに、俺は先輩の頬を引っ叩いていた。
「甘えるのもいい加減にしろ」
引っ叩かれた先輩は驚いた顔で俺を見ていたが、何か言い出す前に反対側の頬も引っ叩いた。
「もうあの女は来ない。なぜなら俺があの女から先輩を買い取ったから」
俺は先輩の胸倉を掴み、睨みつけて続けた。
「買い取ったのは随分前だ。その時の契約違反を犯して先輩に会いに来て、結果咲さんを殺した。だからそれなりの仕打ちをしてやった。二度と俺達の前には現れることはないだろう」
「な、何を言って……」
言っている意味が分からないのか、先輩は怯え始めた。
俺の中で何かが壊れたのだろう、そんな先輩を見ても続けるのを止めようと思わなかった。
「買われた先輩は俺の奴隷なんですよ。殺そうが、何しようが俺の勝手」
掴んだ胸倉を引き寄せ、強引にキスをした。
先輩は嫌がって逃げようとしたが、そのまま押し倒し大人しくなるまでキスを止めなかった。
「……このまま犯したっていいんだ」
そう言って唇を離し先輩の顔をみると、何故か悲しそうにしていた。
「何でそんなこと言うんだよ」
何故か先輩は涙を流していた。
悲しそうにしていただけでなく、泣いていたんだ。
「じゃあ何でそんな苦しそうな顔すんだよ。犯すなら言わないで犯せばいいだろう。奴隷だっていうなら、そんな辛そうに俺にキスするなよ」
俺が苦しそう? 辛そう?
そんな言葉は初めて聞いた。嘘くさい笑顔だとか、何考えてるか分からないとはよく言われたが。
いや、初めてではない。何年か前にも言われている。
『坊ちゃんは辛そうですね』
誰にでも差し障りなく笑顔で応えていたなか、咲さんだけがそう言っていた。
その時だってそんな顔はしていなかった筈だった。
なのに咲さんだけが、俺の表面だけの表情を見ずにそう言っていた。
今の先輩もそうなのか?
キスに表情なんて現れるものなのか?
疑問を考える間もなく、二本の腕が俺を抱きしめ思考を停止させた。
「何でそこまで我慢してるんだよ。俺がこんなだからか?」
「ちが……」
「じゃあもう我慢するなよ。俺が守るから」
先輩の口から意外な言葉が出された。
俺が守る?
「俺を奴隷だと思うならそれでもいい。俺はお前の奴隷としてお前を守る。ただ、もう少しだけ時間が欲しい。まだ母さんの影から、咲さんの死から立ち直れない……」
「先輩……」
何だろう、目頭が熱い。視界が歪む。
さっきまで先輩を『甘えるな』と言っていた立場が逆転している気もする。
「俺の前だけでいいから、素の自分を出してくれよな」
**********
その日を境に先輩は外に出る練習を始めた。
一人では不安だというので俺がいる時間だけアパートの周りを歩いたり、夜中にコンビニへ行ったりと徐々に範囲を広げた。
春になる頃には一人で昼間に買い物に出れるまでに回復した。
「もう大丈夫ですね。復学できそう?」
「高校だけは卒業しておきたいから。留年してしまったが、四月から学校へ戻るよ」
本当は外に出れるようになったら学校は辞めて働きに出るつもりだったそうだ。
でもいつの間にそんな手続きをしたのか、咲さんが自分の財産を先輩へと遺す手続きをしていた。
住んでいた家も、貯金も、何もかも。
最初は断った先輩だったが、俺や手続きに関わった弁護士からの勧めで財産を受け取り、それで学校へ通うという次第になった。
「家はどうするんですか? あんな事があった家じゃ住みにくいとは思うけど……」
「あそこは道路になるらしいよ。元々狭い道だから広げるんだって。ここもその対象になってる」
先輩は笑顔でそう言ったが、本心はそうでもなかっただろう。
咲さんの家にしても今住んでいる家にしても、それなりに思い出があった筈だ。
「ここ引き払ったらどこに住むんですか?」
「どっか適当に安いアパートでも見つけるよ。一人だし」
「それなら俺と住みませんか? あ、俺の自宅じゃなくて」
元々自宅は出る予定だったし、それが少し早くなっただけの事。
「俺、自分のマンション買うんで、そこに先輩一緒に来てください。家賃はいらないんで、食事さえ作ってくれれば」
「……お前何者なの?」
「そのうち話しますよ。いいですよね? 俺の『奴隷』なんですから」
いまさらこんな言い方するのも変だけど、咲さんの遺産を貰った現在は先輩は経済的にそんなに困っていない。
ならばこういう言い方でもしなければ生活費を払うと言い出すだろうし、一緒に住んでくれるとも言ってはえなさそうだ。
「分かった。こっちも条件だしていいか? 『奴隷』ならば敬語も『先輩』もなしにしよう。OKならば同居する」
ニヤリと笑った先輩は、俺がNOと言わないのを確信している。
「分かりました。苗字でいいですか?」
「ダメに決まってるだろう。二人の時は特にな」
**********
「え? え? だから香西さんは『奴隷』って僕に言ったんですか?」
「そうだが? 恋人でもあるって言ってただろう?」
「でも今の話だと、大樹さんが告白したとしか聞いてませんが?」
「恋人に至るまでの濃厚な話が聞きたいなら別だが?」
そう言ってやるとポチは全力でブンブンと首を横に振って否定した。
「それで、この話の何が予備知識なんですか?」
「今、咲さんの話をしただろう。それが香西にとって未だに深く傷になって残ってるということだ」
傷といっていいのか、俺が傷つける原因を作ったといっていいのか。
「あの日以来、香西は咲さんの命日になると機能が停止する。まさに『壊れた』といった表現がふさわしい」
「壊れた……」
「ああ。動かない、喋らない、食べない、眠らない。唯一しているのは息とたまに排泄だ」
あの時をなかった事にしたいのか、自分の時を止めてしまう。
俺が触れようが何しようが、まったく反応を見せない。
「だから、その日が来てもポチも慌てることなく、普通に過ごしてくれ」
「普通って」
「普通だ。通常運転。起きて、飯食って、仕事して。いいな」
腑に落ちないようだったが、ポチはコクンと頷くとそのまま黙り込んでしまった。
「香西には咲さんのこと聞いたというのは黙ってろよ」
返事はなかったが、俺はこれ以上話すこともなかったので寝室を後にし、そっと香西の眠る部屋へと戻っていった。
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