天下界の無信仰者(イレギュラー)

奏せいや

心が、静止した

(負ける……?)

 それはあってはならないことだ。この時のためにいったいどれだけの犠牲と時間をかけた。

「負ける!?」

 呆然としていた意識が覚醒する。負ける。その可能性に胸が掻きむしられた。

「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 負けたくない! 負けたくない! なんで? 嫌だ嫌だ、なんで負けなくちゃならない嫌だ嫌だ嫌だ! 負けるなんて嫌だあり得ない! 負けるなんてそんなことあるか!」

 混乱する。今まで信じてきた勝利が、信仰が、神が、崩れ落ちようとしている。

 ミカエルは暴れた。それから落ち着きを取り戻し、呆然と現実に取り残された。

「そんな…………」

 否定できない現実に。

 気が遠くなるほどの雌伏の時を経て、ようやく巡った最後の機会。これで決めなくてはならない、絶対に。もし、ここで負けるようなことがあれば。

「私は、なんのために……」

 つぶやきが零れた。費やした努力を思う。それは無駄にするためにはあまりにも大きすぎるものだ。二度とないチャンスを失うわけにはいかない。

 勝利以外、認められない。

 だが気概だけでは無理だ。それだけで勝てる勝負ではない。精神論で勝てる相手ならミカエルの情熱は誰にだって負けない。それだけでは駄目なのだ。

 どうすればいい?

 どうすればいい?

 理想を目前に現れた強敵に対して、どう切り抜ける? どう凌ぐ? どうやってこの困難を突破すればいい?

 この、不可能とも思える試練を前にして。セフィラーも通じない、無数の星すら破壊してくる強敵を前にして。どう倒す? どう防ぐ? どう立ち回ればいい? 

 ミカエルは考える。あらゆる手段、あらゆる可能性から勝利を模索する。

 しかし、

「…………」 

 答えが、出てこない。

 駄目だ、強すぎる。いくら考えても出てこない。

 困難の突破。それは到達不可能な、遙か彼方にある理想という名の幻なのかもしれない。どれだけあがいてもたどり着けない夢。

 ミカエルでは、神愛に勝てない。

 ミカエルは、ほとんど無意識に手を伸ばしていた。動かすだけでやっとの怪我で、それでも前に出す。

 一人では勝てない現実へ。

 こんな時。どれほどの困難で、それがどれだけ過酷な道であろうとも。

 一人ではなく、隣に彼がいれば進める気がするのに。

 誰よりも信頼していた、彼がいれば。

 そう、思ったのだ。

「もう諦めるのか、ミカエル」

 その時だった。隣から声をかけられたのだ。

(え)

 ミカエルは驚きながら振り返った。そして、再び驚いた。

「――――」

 絆はなくならない。約束が消えないように。永遠なんてない。でも、終わらない友情はある。

 裏切られ、戦って、傷ついても。切れることのない絆が、いつまでも二人を結びつけるから。

 ミカエルが振り返ったその先。

 そこにいたのは、ルシフェルだった。

 心が、静止した。

 ルシフェルがいるのだ、自分の隣に。見間違いなんかじゃない。自信のある温かい笑みは彼のものだ。ロングコートの白衣は天羽長時の服装で、黒く美しい長髪を宇宙に流し、ルシフェルがそばにいた。

 変わらない。二千年前のあの頃が蘇ったようだ。ともに同じ目標を持ち、同じ道を歩いていたあの時と。

 こんなことがあるだろうか。奇跡のようなこんな出来事が。

 ミカエルは唖然とした。あまりの衝撃に言葉が出ない。本当に。なにも浮かばないのだ。この一瞬でぼけたのかと言いたくなるくらい。衝撃に、感情すら追いつかない。

 そんなミカエルに言うのだ。

 まるで、二千年前のように。

「いくぞ。勝負はこれからだ」

 ルシフェルは剣を引き抜いた。翼を広げ前に進んでいく。戦うつもりだ。彼も一緒に戦ってくれるのだ。

 胸が震えた。喜びが溢れ、力が沸く。

 彼がいる。それだけで、燃え尽きそうだった小さな火が復活する。喜びとともに燃え盛る。

 不思議な感覚だった。彼がいるだけで、どんな絶望だって怖くない。自信が漲るのだから。

 ミカエルは彼の背中を追いかけるように慌てて手を伸ばした。

 そこには、誰もいなかった。

「…………」

 この広い宇宙で、自分は一人きり。ここには誰もいない。誰もいない。静かな暗闇と沈黙する星たちが目に映るだけ。

 ルシフェルの姿は、幻覚だった。

「…………」

 ここには自分一人だけ。仲間はいない。誰一人。

「……う、うっ、」 

 その時になって、ようやく感情が追いついた。瞳に涙が溜まり、それは目じりから零れ、宇宙の闇へと消えていった。

 胸が、苦しい。

「なぜ、なぜだ……」

 つぶやきは掠れ、暗黒へと霧消する。復活した情熱とともに。

 同時に思ってしまう。こんな時になっても思ってしまうのだ。

 もし、天界紛争が起きず、今も二人は変わらずにいられたのなら。

 あの頃のように。

 ずっと一緒なら。

「なぜ私を裏切った……」

 ミカエルは、どんな困難にも向かえたのに。

 仲間に見限られ、二千年堪え忍び、神愛というイレギュラーに阻まれても、なお。

 彼となら、どこまでも飛べたのに。

「ルシフェルゥウ!」

 宇宙の彼方。そこに彼の姿を探した。いつも見てきた彼の横顔を。

 幻想の中。そこに彼の姿を思い浮かべる。いつも見てきた彼の笑顔を。彼は自分を見つめ、そして前に向く。自分も同じ場所を目指す。

 彼と自分。互いに手を取り合い、同じ場所を目指し、同じ道を歩んでいたのなら。

 不可能なんてきっとない。どんな困難にだって臨んでいける。

 だけど。

 彼は、もういない。

「ミカエルゥ!」

 代わりに迫る黄金の拳が、ミカエルの腹部をとらえた!

「があああああああ!」

 走る激痛、激痛、激痛! 理想を砕く拳が、二人の戦いを終わらせる。

 夢。理想。一人で足掻いてきた約束。

 すべて、そう、そのすべて。

 この一撃で、幕が下ろされた。

 終わったのだ、二千年の旅が。

 神愛に殴られた刹那の間、ミカエルは自分の理想が砕け散った音を聞き、静かに目を閉じた。

 そのまま衝撃の波に身を任せ、宇宙の暗闇へと消えていく。

 それは静かに。彼の退場は、とても静かなものだった。

 ここにいるのはデュエットモードの神愛ただ一人。敵を倒し約束を守った。静かな舞台で勝者は一人、暗闇に黄金の輝きを発していた。


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