天下界の無信仰者(イレギュラー)

奏せいや

この思いに、嘘は吐けない。

「……すまない」

 ここでなにを言っても彼女を納得させることはできない。分かっている。だからルシフェルは謝った。すまないと。

 ウリエルとてこの決定が政治的なものだと理解していた。彼がそう決めたのならそうなのだろう。

 だけど、だとしても、友人の死が報われないという現実に、彼女は再び俯いた。

「う、うう」

 止まっていた涙が流れ出す。それはさきほどよりも大きく、彼女は思いを爆発させた。

「うわあああああ!」

 大声が洞窟を震わせた。叫ぶような泣き声が響く。悲しみが止まらない。悔しくて仕方がない。愛していた人間に裏切られ、それに対しなにもできない。

 ウリエルの泣き声を聞いてルシフェルも顔を下げた。

 自分の決定で誰かを悲しませている。これほど彼女は泣いているというのに、自分はなにもできない。自分のせいで彼女を苦しめているのも同然だ。

 ルシフェルは目を瞑った。強く、噛みしめるように目をつぶる。彼女の泣き叫ぶ声と悲しみが自分の心を殴りつけてくる。

 胸が痛い。胸が痛い。胸が痛い。

 胸が、ただただ痛かった。

 その後ルシフェルは立ち上がり、遠見の池を後にした。




 演説前、ルシフェルとミカエルは会議室で待機していた。ルシフェルは席に座ったまま両肘を机に立て顔は俯いている。意気消沈というべきか、今の彼にはいつもの覇気がない。

 ルシフェルの様子をミカエルは背後から見つめる。その瞳が憂いに細められた。なんという弱々しい背中だろう。

 普段の彼は自信と快活さに溢れ、星のように輝いていたというのに。目の前にいる彼の背中は翼をもがれた鳥のように、行方を失い途方に暮れているみたいだ。

 ミカエルの目線が寂しそうに下がる。

「ミカエル」

「はい」

 ルシフェルから名前を呼ばれすぐに返事をする。緩んでいた背筋を整えた。

「君は、どう思う?」

「私ですか?」

 背中越しに聞かれる。どう思うとは、人間による天羽殺害事件のことだ。それについてミカエルの意見が聞かれている。

「私が意見するなど」

「いや、いい。聞いてみたいんだ」

 本来補佐官が口出すことではない。これは四大天羽によって決められる最重要問題だ。ミカエルは口を濁すがルシフェルは改めて聞いてきた。

 声は疲れの色が滲んでいた。

「私は……」

 天羽長からの質問にどう答えたものか。ミカエルは思案する。軽々しく言えることではない。とても複雑な問題だ。

 天羽たちの心情をくみ取らなければならないが、人間たちとの関係を悪化させることもできない。判断が天秤のごとく揺れ動き思考を鈍らせる。

「よく、分かりません。ただ」

「ただ?」

 複雑な問題だ。絶対に正しいと言い切れる答えなど導けない。いや、そんなものははじめから存在しないのかもしれない。

 思考はきしみを上げる。

 けれど、思いならば一つだ。現実の問題とは反対に自分の心は一つのことだけを訴える。

 思いとは、時に現実よりも純粋だ。

「一人の悪行で、人類すべてを憎むことは誤りです。そうならないか、それが心配です」

 それが答え。具体的な方法など分からない。どうすればいいのかもてんで思い浮かばない。

 それはそれで無責任な発言だと叱責されるものかもしれない。けれど思いは本物だ、こう思うことに嘘も偽りもない。

 人類の平和。それを願っている。

 この思いに、嘘は吐けない。

「そうだな……」

 ミカエルの答えにルシフェルは小さく呟いた。具体性に欠ける役に立ちそうにもない意見だ、聞き流しているだろう。ミカエルはそう思った。

 すると、ルシフェルは俯かせていた顔を持ち上げた。どうしたのかと疑問が過ぎる。

 ミカエルが見つめる先。そこにある背中が、さきほどよりも大きく見えた。

「私たちと人類の交渉はまだ始まったばかりだ。困難の一つや二つ、あって当然だ。試練はその者の本質を暴く。重要なのは、なにを選択するかだ」

 声は、以前より力強くなっていた。
 
「この問題を解決するには、どちらか一方だけを見ていてはだめだ。どちらにも気を配り判断しなくては」

 事後法という厄介な問題。これを無視すれば人類は不信感を抱くだろう。しかし飲んだとしても天羽の怒りは収まらない。

 どちらを選んでも悪化する。あちらが立てばこちらが立たずだ。考え出せば迷宮のように答えが見つからない。雁字搦めのパズルだ。

 けれど一つの指針が道を示してくれた。それは荒れ狂う大海での羅針盤か、見失いかけていたものを教えてくれた。

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