天下界の無信仰者(イレギュラー)

奏せいや

我々がそれを願ったか

 もう、昔のようには戻れない。

 無邪気に笑い、笑顔で夢を語り、共に笑い合うことは。

 もう、後戻りは出来ない。

 ゴルゴダ共和国の内戦、多くの犠牲。

 たとえこの身が引き裂かれ、心が砕けることになろうとも。

 この身は元より、天羽なのだから。



 教皇の自室。そこではエノクとミカエルが対峙していた。さきほどまでいたペテロとガブリエルの姿はない。

 エノクは精悍な表情を保ち、ミカエルは不敵な微笑を浮かべる。この場の空気は緊迫し戦いは無言のうちに始まりそうだった。

「教皇エノク。かつての聖騎士第一位にして魔王戦争の英雄。神託物メタトロンは第二世代にも関わらず七大天羽に認定。君は非の打ち所がない。まさにゴルゴダ、慈愛連立の信仰者のシンボルだ」

 張りつめた空気の中、しかしミカエルは話し出した。今まさに戦わんとしているエノクを誉めだす。

「だが」

 しかし目を見れば分かる。この男が本気で賞賛などしていないことを。

「君には人間の限界というのが見えていない。人類では平和の実現など不可能だ。自由という名の免罪符を振りかざし、君たちは発展と、それにともなう争いを行っている。誰かが自分の幸福を望めば、それは他人からの搾取に他ならない。人類に必要なのは平和ではなく秩序だと思わないかい?」

 秩序。聞こえはいい。人間には欲望がある。あれが欲しい、これが欲しい。自由も平和も幸福も欲しい。

 無闇に欲する心は統制を失い結果争いになる。そうだと分かっていても誰しもが欲望を抑えられない。であれば、望むべきは平和ではなく秩序なのかもしれない。

 しかし、それは詭弁だ。要は言っているのだ、秩序という耳に心地いい言葉を使って。

 必要なのは、管理だと。

 秩序を維持するには、それを管理する者が必要だ。それを担う者こそが天羽だとミカエルは言っていた。

 それを聞いてなんと答えるか。エノクの表情は依然と威厳と貫禄を併せ持ち、ミカエルの言葉を聞いていた。

 ミカエルの言葉に、エノクは答えた。

「すべては救えなくても、救えた者の中に意味はある。すべてを救うためでも、すべてを犠牲にしては意味がない」

「ほう」

 エノクの言葉にミカエルが唸る。ミカエル自身自分がなかなかの詭弁家だと自負していたが、この言葉には舌を巻いた。

「これはこれは。言うじゃないか。今は君が上回っていたってことでいいよ?」

 うざい。

 ミカエルはこれ見よがしに言った後、またしてもこれ見よがしに額に手を当て顔を振った。

「だけどねえ、それが人類の限界なのさ。犠牲が伴う発展、弱者が切り捨てられる平和。そんなものは偽りだ。悲しすぎる。君も辛いだろう? 誰かが導いてやれねばならない」

 ミカエルは額に当てていた手を外しエノクを見る。

「人間以外の誰かが」

 その目は鋭い眼光を宿していた。

 刺し貫くほどの視線。飄々としていた態度からすさまじい気迫を放つ。

 油断してはならない。この男こそ、無数に存在すると言われる天羽の長なのだから。

「我々がそれを願ったか?」

 ミカエルの視線をまっすぐに受け止めて、なおエノクは厳格な態度を崩さない。

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