幸福論

tazukuriosamudayo

#5 最終話












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あの日は、雲はあったが空気は暖かく海も穏やかだった。




「ねぇ、いつから釣りを?」


女は釣竿を垂らす男の後ろに立って聞いた。

男は3度風が通り過ぎる音を聞いてからそっと口を開いた。

「運命って、海にあると思わないですか?」

「運命?」

「ええ、ヒトがいつ生まれ、いつ死ぬのか。地球は殆どが海ですから。」

「わからないわ。地球が海に覆われていることと、運命の繋がりって、なんなのかしら。」

「僕は、大きな海や、水平線を見ると、足がすくむんですよ。海の広さや、深さは全てを飲み込む。あゝ、運命には逆らえないんだと感じるんです。」

「なるほど。わからなくもないわ、海の前には皆無力ね。でも、だからって釣りを始める理由に?」


「僕は友人を亡くしました。見殺しにしたとも言えます。どちらにしろ、彼の死は私に警告したんです。僕は人生をうまく歩んで来すぎてしまいましたから。幸福は他人と比較して自覚するべきものではなかった。でも僕は、比較しないと幸福がなんなのかわからないんです。 」

女は長い髪を耳の後ろにかけて風に飛ばされないように帽子を抑えて聞いていた。


「僕は海へ行きました。彼の死は運命だったと思いたかった。そうだ、この海が彼を飲み込んだ。なにも、僕が彼の死を心待ちにしていたわけじゃない。そしたら、向こう側で釣りをしている人を見かけました。ほら、ちょうど僕たちがいる場所から50メートルくらい離れたところに同じような釣り場があるでしょう。あそこでした。その人は次から次へと大きな海から魚を釣り上げるんです。  僕は思いました。魚は海にいる時点でいつか人間に釣られて命を失う運命なんだって。  そしたら僕の心は少し軽くなりました。それからです。釣りをするようになったのは。」



女は黙ってただ、男の背中を見つめていた。


「あ、ごめんなさい、こんな話。でも僕は、こういう人間です。本当の幸福もわからないままですし、わかる資格なんてありません。」


男は振り返って女の顔を見てから視線をまた海に戻した。


「それは、どうかしら。」

「え?」

「私は、あなたといる時に幸福を感じるわ。いえ、幸福というよりも、もっとこう…わかる?幸福とか不幸とか、そんな二択ではないわ。私にもわからないのよ。この気持ちがなんなのか。でも私は確信してるわ。あなたと話しているこの時間が、何年も後に、幸せな時となって記憶に残るのよ。そういう運命なの。私にとっては、あなたの暗い過去を聞いているこの時でさえ幸福になるのよ、それって自分勝手なことかしら?ダメなことかしら?」


その時、男は定食屋で感じた、ありもしなかった日差しを思い出した。


女はそっと男の隣に座った。
潮の香りとともに、髪から石鹸の匂いがした。

「あなたって優しい人なのね。」


「どうして、そんなこと思うんです?」

男は驚いて女の顔を見た。

「あなたは幸福な理由がいつも純粋でなければいけないと思っているみたいだから。それに、自分だけが幸福であるなんてことに耐えられないんでしょう。あなたは愛されるべき人間なのに、そのことを自分で許さないんですもの。」



男は泣かずにはいられなかった。


「僕は、どうすればよかったんでしょう。どうすれば幸せになれるんですか。」



女はそっと男の手を握って言った。


「あなたは私に運命をもたらしてくれたわ。それがどんな運命でも、私は幸せよ。ずっと、あなたがいてくれれば。ねえ、私はあなたの運命には沿えないかしら。」


男は鼓動とともに
波の音が近づいている気がした。




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アクセルを踏み込む足に力を入れる。




早く、死ななければ。


朝が来れば死ぬことに躊躇いがでるだろう。


運命の波に飲み込まれるならば今なのだ。


カーブを切る。



男は泣いていた。



何故だろう。




何故、死ぬことができないのだろう。



この手を止めればいいだけのことなのだが
男の手は道に沿ってカーブを切り、アクセルを踏み込む足は震えている。





涙は止まらない。


男は幸福であった。

草野が死んでからも尚、
男は幸福だったのだ。


草野が死に、妻に出会い、男の運命は全て幸福のためにあったのだ。



草野は幸福だったのだろうか。
どのような顔で、草野は死んだのだろう。




その時、波の音とともに男の脳裏で草野が弱々しく痩けた頬で笑っていた。

全身に力が入った。



ーー『草野、』















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次の瞬間、男の中から波の音は消えた。











男は人生に満足した。
運命を全うしたのだ。





この瞬間に最高の幸福とは何なのか男は知ったのだった。























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