白昼夢の終演、僕が見たエトセトラ

些稚絃羽

4.炎は天に、薔薇が散る

 朝から曇りが続いていた。午後には晴れるらしかったけれど、十一時現在、その兆しは一向に見えない。
 十二時に彼等の家を訪ねることになっている。昼食を家で一緒に、というのが奥野さんの計画だった。迎えに来ようかという申し出を断って、僕はひとり明灯ホテルからの道を歩いている。

 昨日の夕方、ベッドで寝始めてから朝まで一度も起きなかった。お蔭で睡眠不足はすっかり解消したし、ホテルの美味しい朝ご飯でお腹も喜んでいる。
 服装は固すぎず緩すぎないものを選んでいた。母親と会うだけとはいえ、僕だってもうアラサーと呼ばれる歳だ。十年振りの再会というシチュエーションと、大人としての適切な振る舞いを考えれば、まぁ当然のこと。仕事道具を持って出たのは若干邪魔だったかもしれないが。

 準備万端整えた中、手土産のひとつも持っていないのは前もって断られたからだ。
 ふたりの生活は自然と寄り添ったものなんだ、と奥野さんは言っていた。主に奥野さんが育てている野菜を食べ、米や肉、果物は知り合いの農家から送ってもらっているのだそう。食事に大きな制限がある訳ではなく、できるだけ農薬などを使ったりしない自然のままのもので質素に生きよう、というのがふたりの共通の意見だったようだ。
 だから市販の菓子や酒なんかも、持って来てもらっても全部君のものになってしまうよと言われれば、手ぶらで行く方がいいだろう。変に気を遣わせたくはないから。


 教えられていた目印の郵便局を過ぎて次の十字路を右に曲がると、長く続いていそうな趣のある花屋を見つけた。
 一度通り過ぎて、やっぱり寄って行くことにする。花くらいなら持って行っても問題ないだろう。

 様々な種類の花のバケツが並ぶ、開放された入口から中に入る。客は僕ひとりらしかった。真新しくて若い女性がいっぱいの店なら恐らく入れなかった。店の外観と妙にマッチする女店主がいらっしゃいと告げるのにお辞儀で応えて思う。
 こういう時は小ぶりな花束だろうか。辺りを見回しても花の知識もセンスもない僕では決めかねる。店主は穏やかな雰囲気だしおまかせで作ってもらおうか。
 そう考えて奥に進んだ時、見つけたのは薔薇の花だった。深紅の、花びらをぴんと張った、綺麗な薔薇だ。

「何かお包みしましょうか」
「この薔薇を幾つか、あ、いや……一輪だけ、お願いします」

 しみの浮かんだ手が一際存在感を放つ一輪を選び取る。レジの横で手際よく装いを整えられていく薔薇を見ながら、もしかしたらこれを選ぶために花屋に入ったのかもしれないと思った。潜在意識の中で初めから決めていたのかもしれなかった。

 ある母の日、僕は九歳だった。母の日には花を送るのがいいと担任の女の先生が言っていた。花の名前はカーネーションだと聞いていた筈なのに、初めての花屋に緊張してど忘れしてしまった。必死になって思い出せたのは、花びらが何枚も重なった花で、赤が定番だと言っていたこと。それで最初に目に飛び込んできた赤い花を買って、母さんにプレゼントをしたんだ。
 それが赤い薔薇だった。今見ているものよりも少しだけ静かな色合いの。母さんは瞬時に僕が間違えて買ってきたことを見抜いて、早とちりねと笑った。それから、お小遣いはもっと大切に使いなさいと諭された。喜んでほしくてしたプレゼントは思ったような反応にはならなくて、その後のありがとうはとても軽く聞こえた。恥ずかしさと寂しさから、隠れて流した涙をよく覚えている。

 ある意味で思い出深い花なんだ、赤い薔薇は。あの日の二の舞にならなければいいけど、なんて思わず苦笑いが零れた。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございました」
「お兄ちゃん、ちょっと待ってちょうだい」

 呼び止められて、代金が足らなかったのかと振り返る。すると店主はその手に小ぶりの白い薔薇を一輪持っていた。長かった茎を指の長さほどに短く切って棘も切り取ると、赤いラッピングペーパーを巻いて僕のコートの胸ポケットに差し込んだ。

「これは?」
「おまけですよ。花言葉は、“約束を守る”」
「え、どうして……」
「誰かに何かしら思いを伝える時は、みんな約束を持っているものですよ。それは相手とだろうと、自分自身とだろうと、たとえ未来との約束であっても、この白い薔薇が約束を果たす証人になってくれます」

 何も知らないはずの花屋の店主が、見透かしたように言った。これまでの経験からの行動に過ぎないとしても、僕にとってそれは重要な意味を持つ。「約束」、そうだ僕は約束を守るためにここに来たんだ。

「ありがとうございます。ちゃんと約束を守ってきます」
「前を向きさえしていれば、何事も上手くいきますよ」

 頷くと、店主は可愛らしい笑みを浮かべてゆるゆると手を振り、送り出してくれた。


*********


 残像が瞼の裏に焼き付くほど靴の先を見つめていたことにふと気が付いて、花屋の女店主の言葉を思い出した。前を向いていなくては。顔を上げると何にも遮られない白んだ空に晴れ間が覗いていた。強まってきた風が押し流しているのだろう。
 僕の立つ背後には、山の名残の見える自然なままの坂が上へと伸びている。既にくねくねと曲がった道をずっと上がってきた。山の上の家というのは車がなければ不便だ、しかし周囲との関わりが少ないのは生きやすい気がしないでもない。

 予定よりも大分早く着いてしまったため、訪ねるタイミングを図っていた。奥野さんに電話をかけるのも邪魔になりそうでできていない。手の中の薔薇が所在なげに縮こまって見える。花屋ではあんなに凛として見えたのに、持ち主の感情を反映してしまうのだろうか。花相手に何だか申し訳なくなった。
 悩みすぎるのが僕の悪い癖だ。誰に似たのかな。綿密に計画を立ててくれた奥野さんのことだから、いつでも迎え入れられるように用意をしてくれているような気がする。早く訪ねても嫌な顔はしない筈だ。

 長く長く息を吐き出して、坂を上り始める。
 踏み締める度にわずかに湿り気を含んだ土がじゃりじゃりと音を立てた。左右に生い茂る木々からは青臭さが立ち上ぼり、どこかから焼けた臭いも漂ってくる。事務所のある街も都会とは言えない自然の多い地域だけれど、それとは違う空気が漂っていると思う。どこか懐かしさを感じる空気だ。

 心臓が大きな音で胸を叩く。大丈夫だ、大丈夫。根拠のない言葉で自身を励ましながら、足を進めていく。
 焚き火でもしているのだろうか、風に焦げくさい臭いが混ざってきた。割りと近い。こんなに木の多い山の中で焚き火なんて危なくないのだろうか。
 坂に終わりが見えてきた。木々が手を取り合うようにしてできた自然のアーチを抜ける。くすんだ白い壁が見えて、真新しい木目の引き戸があって、家が燃えていた。家が、燃えている。


 夢を見ているような気がした。けれどもしそうだとすれば、夢喰いの獏でさえ憐れみの視線を返すような、とんでもない悪夢だ。


 黒煙を噴き上げながら轟々と立ち上る炎は血飛沫のようで、引き寄せられるように一輪だけ買った深紅の薔薇のようでもあった。

 薄いフィルムを通して指先に棘が刺さる。痛みはない、あるのは空っぽのという抜け殻だけだ。
 視界は煙に似た濁りが直視を阻んで、熱も風もすべてが遠い。微睡みながら無声映画を観ているようで。今ならあの炎に巻き込まれても、むしろ安堵しながら眠れそうだ、と頭の片隅でぼく・・が笑った。

 内側も外側も僕は僕としてここに居るのに、そのどれもどこにも居ないような、そんな感覚。僕は初めから居なかったのかもしれない。ぼくは誰かの幻想の中に生まれた何かの影なのかもしれない。

 そんなことある筈がないのに、何も考えられない僕の脳は、そんな馬鹿げたことをさも真実のようにちらつかせる。いっそ、本当に何も、考えられなくなればいいのに……。


 どん、と鈍い物音がした。
 燃えているのは離れで、音がした母屋にはまだ火の手が回っていないことに、たった今気が付いた。目が、醒めた。
 踏み出した足元で、ぐしゃりと何かが潰れる音がする。その音は何よりも現実だった。

「母さん!」

 玄関の鍵は開いていた。勢いよく戸を開けて土足のまま家へ上がる。玄関は家の中央にあり、奥と左右に部屋が続いていた。

 火元の離れに近い左手に進むと、電動ベッドが背を起こした状態で鎮座していた。傍らには雑誌と空のコップが置かれた丸テーブルがあるだけだ。押し入れと床の間があり、元は和室だったのだろう。ここは行き止まり、他に見るべき場所はなさそうだ。

 二人の人が居る筈の家。それなのにどうしてこんなにも静かなんだ。家の中では火事の様子は分からないが、それにしても誰も居ないみたいに思える。何が起こっているんだ。

 戻って玄関右手の部屋へと真っ直ぐ走る。そこはダイニングキッチンだった。テーブルの上にラップの掛けられたお皿が幾つも並んでいる。ラップに浮かんだ水滴が温もりを感じさせた。用意されてさほど時間は経っていないようだ。

「母さん! 奥野さん、居ないのか!?」

 呼び掛けるも応える声はない。
 ここも駄目かと思ったが、部屋の奥にドアがあるのが見えた。駆け寄り開けると、短い廊下の先にまたドア。その前にはスリッパがあるため、恐らくトイレだろう。その隣は風呂。廊下はダイニングキッチンを取り囲むように続いていた。突き当たりを曲がる。
 更に先があるということは玄関を入った時に見た、正面の部屋に繋がっているのかもしれない。となるとこれで家を一周することになる。これで見つからなければ事態は深刻かもしれない。あの離れの中に……いや、まだそうと決まった訳ではないんだ。

 部屋がある。元はドアが付いていたのだろうが、代わりに四角く部屋の一部が切り取られていた。そこに車輪が映りこむ。横倒しになった車椅子。止まりそうになる足と急ぐ心臓に身体が散り散りになりそうで。喘ぐような短い息を繰り返しながら部屋に飛び込んだ。

「母さんっ!!」

 車椅子の傍らに蹲る小さな女性の背中。細い手が投げ出した右足をそろそろと擦っている。僕の声が届いたのかゆっくり振り返ったその人は、かなり痩けてはいたが確かに母さんだった。

「歩、なの?」
「母さん!」
「どうしてここに」
「今はそんなことを話してる場合じゃないんだ! 離れが燃えてる、今すぐここを出ないと!」
「離れが?」

 本当に気が付いていなかったようで呆けている母さんを横目に車椅子を起こすと、母さんを正面から抱えた。予想以上の軽さに目の奥がちりちりと痛んだけれど、ぐっと押し殺す。車椅子に座らせ、もうひとつの出入り口へ進むと、やはり玄関へと出た。段差の半分は板が掛けられスロープ状になっており、駆けるスピードで家を出た。

 離れはなおも凄まじい勢いで燃えている。止まっている暇はなく横目で確認しただけだったが、母さんは坂を下り始めるまで僕の後ろを振り返って炎を見つめていた。その瞳に炎は思いの外鮮明に映っていて、僕は唇を噛み締めた。
 一輪の深紅の薔薇が、無惨に花びらを散らして転がっていた。


 

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