白昼夢の終演、僕が見たエトセトラ

些稚絃羽

2.海辺の街

 初めて降り立つ駅のホームには早速、潮の香りがした。
 自動改札機に切符を通すと、今時珍しく竹ぼうきでの掃除に勤しんでいた人当たりの良さそうな初老の駅員が「よい旅を」と声をかけてくる。他人からは旅を楽しもうとしている青年に見えるのだろうかと考えて、どの客にも言っているのだろうと結論づけた。生憎同じ駅で降りた人は居らず、確認することはできなかったが。

 新幹線と電車を乗り継ぎ、時刻はもう十二時を回った。まさにお昼時で、昨日の夕方にコーヒーを飲んでから何も入れていない胃は確実に空っぽだったけれど、空腹を感じる余裕はなかった。幾らかの神経を置いて来たと思うほどすべての動作や感覚が鈍かった。
 ここに来るまでの間、流れていく車窓を見るとはなしに見ていた以外に何をしていただろうか。記憶らしいものは少しもなかった。でも、その内の数分は高橋さんのことを考えていたような気がする。それから今までの依頼人のことも。あとは多分、ずっと母さんのことを考えていたのだと思う。どんな姿をして、どんな生活をしてきたのか。僕の知らない時間を夢想していたのだと思う。でなければ、こんなに辟易とはしていないはずだ。

 僕の高校卒業までを見届けて、母さんは家を出て行った。あれからもう十年が経とうとしている。
 その長さを思うと憂鬱になる。もっと早く探し出せた筈で、僕は本気で探そうとしていなかったのではないかと考えてしまう。

――母さんは約束を覚えていた。いつまで経っても会いに来ない僕をどう思っているんだろう。

 直接会うのは明日だというのに、今からこうでは心が持たない。対面した時の母さんがどんな反応をするか怖くはあるが、思い悩んでも仕方のないことだ。
 今日は今日で予定がある。先方は到着を待っているかもしれない。待ち合わせ場所に急がなくては。

 ふらふらと歩いていた道を戻り、駅の入口でまだ掃除をしているあの駅員に声をかける。

「すみません、この辺りに黄色い看板が目印のファミレスがあるって聞いたんですが」
「あぁ、それでしたら駅の裏側なんですよ。あのバスロータリーの脇の歩道を行っていただいたら正面にすぐ見えますよ」
「ありがとうございます」

 礼を言って去ろうとしたけれど、どうしても聞いてみたいことがあり悩んだ末にこう尋ねた。

「あの不躾な質問なんですが、病気を抱えている人にとって、この街は住みやすいですか?」

 突然の問いに駅員はわずかに不思議そうな顔をしたものの、すぐに初めと変わらない物腰の柔らかな笑みを浮かべて答えてくれた。

「そうですね、誰にとってもここは住みよいと思いますよ。
 自然は多いし、かと言って不便な田舎というのでもない。病院や、最近だとホスピタルとか言うんですかね、そういう施設も他と比べると充実しているようですから」
「終の住処にしたいって話題になっているのもそういう理由でしょうか?」
「でしょうねぇ。この街で生まれ育った者としては、ここの景色を好いてくれる方々が居られるというのは嬉しい限りですよ」

 お客さんは観光で?
 ふいに質問を返されて、母親が住んでいるらしくて、と馬鹿正直に答えていた。この底抜けに優しそうな駅員が何かを勘繰ることはなさそうだが、ひとり居た堪れない気分になった。

「そうでしたか。この街の瑞々しい景色は誰に対しても優しいものですよ」

 もう一度、よい旅を、と告げて駅員は帽子を持ち上げた。ドラマのワンシーンみたいだ、僕より余程演技が上手いと見える。緊張に強張る心を解してくれた駅員への敬意をこめて、僕からは深く礼を返した。


**********


 指定されたファミレスは、駅員に聞いた通りとても分かりやすい場所にあった。中に入ると大学生のアルバイトだろうか、ラグビーでもやっていそうな体格の男が、意外な声の小ささで何名様ですかと訪ねてきた、バイト数日目でまだ緊張していますといった風で、忘れられていた出迎えの言葉は店の奥から聞こえてきた。
 待ち合わせをしているから、と入口から見やすい席に通してもらった。禁煙席だが恐らく問題ないだろう。
 店内は半分ほど埋まっていてその大半は若者だった。卒業後の友人との時間を楽しんでいる真っ最中なのだろう。少々騒がしい感じはしたが、そうした時期を思うと見逃してやるべきかもしれない。

 コートとマフラーを傍らに置いて、運ばれてきたお冷やを傾けながら待つ。声をかけられるまでだ。
 こちらは相手の顔を知らない。相手も僕のことをちゃんと知っている訳ではないはずだが、会えば分かると思うと断言されてしまえば、まだ見ぬ相手に強く出ることはできなかった。が、今の客層を見ると安心できる。ひとりで席についている二十代の男は僕しかいないのだから。下手に奇抜な色味の格好にしなくて良かったと思う。


「君が、歩くんかな?」

 そう声をかけられたのは、お冷やが三分の一ほどになった頃だった。
 顔を上げると返事をする間もなく、その人は確信したようにひとつ頷いて前の席に座る。動きに合わせて整髪料を使っていない白髪混じりの髪がさわさわと揺れ、脱いだパーカーからは古い紙の匂いがした。

「はじめましてと言った方がいいかな、私が奥野です」
「……神咲歩かんざきあゆむです。お手紙、ありがとうございました」

 彼が奥野敏之、手紙をくれたその人だ。そして母さんの同居人である。

「いや、何度も申し訳なかったね。気持ちばかりが急いてしまって。他人である私が口を挟んでも仕方ないことだとは分かっていたんだが」

 話ばかりでは息が詰まるだろう、と彼はメニューをこちらに向けて広げた。正直まだお腹はすいていなかったけれど、ファミレスでお冷やばかり飲んでいては白い目で見られて話どころではなくなってしまう。ざっと目を通して、一番胃に優しそうな雑炊を選んだ。その選択に奥野さんは、まだ若いのにといった視線を向けていたけれど、すぐに察したようだった。

 調子外れなベルの音が店内に響いて、中年の女性店員が慣れた様子でやって来る。奥野さんは僕の分の雑炊と和食の御膳、それからドリンクバーをふたつと店員に告げた。流れるように注文を繰り返し、店員は去って行く。他の席では相変わらず賑やかな笑い声が続いているし、レジ前ではあのアルバイト店員が直立不動で店長らしき人物に小声で叱られている。

 店内に流れる空気は自然で淀みなく、ここにあるのはとても当たり前の光景で、僕だけがそこに馴染めていない。初めて赴く地だとか初めて入る店だとか、そんなことは関係なく、きっと今の僕はどこに居てもそうなのだと思う。
 僕と世界の間に三分ほどのずれが生じているみたいに。こんなに人やその声に囲まれているのに、僕だけが寂しくて、僕だけが蚊帳の外で。そんな思考、悲劇のヒロインみたいに女々しくて。馬鹿げていて。突然声を上げて泣いてしまいたいような気分だ。


「すまなかった」

 脈絡なく投げかけられた謝罪で、意識は目の前の男性へと戻った。
 僕に何を謝ることがあると言うのだろう。僕が感謝することはあっても、謝ってもらうようなことは何ひとつない筈だが。
 何が、と口を開けない僕の代わりに奥野さんは答えてくれた。

「栞理さん――お母さんの居場所を伝えることで君を困らせることになるとは、考えもしなかったんだ」
「困っているなんて、そんな……」

 言いかけて、自身の左手が右腕を強く掴んでいるのに気が付いた。まるで対峙するものを拒絶しているようだ。慌てて解いたけれど、右腕はなおもそこに指先を残しているようにじんじんと痛んだ。
 無意識に取ってしまった行動はもう覆せない。それなら本当に感謝していることを言葉で伝えておかなくてはいけないだろう。

「謝らないでください。僕、最初に言ったじゃないですか、お手紙ありがとうございましたって」
「でも」

 彼の否定の言葉を遮るように、料理が運ばれてきた。注文が逆に置かれたのをそそくさと入れ替える一幕があり、彼はそのままドリンクバーへと向かっていった。目上の人に飲み物を取りに行かせる僕は何様だ、と思いながら浮かせた腰を下ろして残りのお冷やを呷った。

 これから沢山の話をするかもしれないし、当たり障りのないやりとりで別れるのかもしれない。でもその中で、奥野敏之という人について少しでも多く知りたい。母さんに面と向かって聞けないかもしれないことを聞いておきたい気持ちもある。
 初めから彼はそうしたことを想定してここで会うことを提案してきたのではないだろうか。元々、今日は母さんの都合が悪いと聞かされていたが、宿泊場所を用意してまで今日呼びつけたのはそれ以外に考えにくかった。
 やはり悪い人ではないだろう。ただ息子という立場を盾にした発言を許されるなら、母さんと一緒に居ていい男かどうかは別問題だ。その息子が距離を置かれたことは棚に上げて。
 弱っている場合じゃない、打ちひしがれている場合じゃない。幼い故に知り得なかったことを知り、納得するために僕はここにきたのだから。


「最初にお手紙をいただいた時、実を言うと少しショックだったんです」

 丸一日、食事らしい食事をしていない身体に雑炊は予想以上に優しかった。数口運んでほっとしたのか、思いはするりと零れ出た。

「こんなに呆気なく見つかるんだ、って。
 僕のやり方は本職の人からすれば怠惰で不格好だっただろうけど、僕は僕なりに真剣に探してきたつもりでした。でもそれじゃ全然足りなかったんですよね。すぐ傍で失くした物を見つけるより、日本のどこかにいるひとりを見つける方が遥かに難しいなんて分かっていた筈なのに。
 これまで通りではあと何年かかってもきっと見つけられなかったと思うんです。だからこうして知らせてもらえて本当に良かったです」

 あの手紙がなければ、僕は母さんが生きている間にもう一度会うことは叶わなかったかもしれない。だって重い病気を抱えているなんて想像もしていなかったから。ある日ようやく足取りを掴んで、そっと遠くからその姿を確認して、それから道端で声をかけるような。そんな日を想像していたから今まで見つけることができなかったのではないかと今なら思える。こんな話をしたら、もっと必死に探しなさいよ、と怒られてしまいそうだ。
 奥野さんはしばらく何かを考えているようだったけれど、僕を見てにこりと笑った。

「やっぱり栞理さんの子どもなんだね。よく似ている」
「童顔なのは母親譲りなんです」
「ははは。見た目もそうだけどね、良いことも悪いこともみんな正直に話してしまうところがよく似ていると思って」

 彼は僕の言葉を真剣な表情で聞いてくれた。だから繕うことなく正直な気持ちを言えたのだと思う。僕と母さんが似ているというよりはむしろ、彼を前にするとそうなってしまうという方が正しい気がした。

 僕は幼い頃から口下手だと自負している。寡黙ではなく口下手。それは言葉を知らないという類のものではなく、言いたいことは出かかっているのに、言った後のことを考え過ぎてどれも言えなくなってしまうということ。要は臆病なんだ。
 母さんはどうだったろう。僕の知る限りでは、僕とは違って言葉をよく選びながらもちゃんと伝えてくれる人だったと思う。時に冗談を交えたり、無遠慮にからかって息子を泣かせることもあったけれど、基本的には誠実な人だった。

 そうしたところが母さんに似れば、もっと上手く他人とコミュニケーションを取れたかもしれない。こんな風に家族がバラバラになることもなかったのかもしれない。かもしれない、なんて不確かなこと取り上げてとやかく言っても今更どうしようもないけれど、そんな幸せそうな未来を想像してしまう。
 どうして悲しみの日々を思い返すと、これまでの幸せが薄らいで見えるのだろう。与えられてきたものを見るのも忘れて、もう得られないと分かっているものばかり欲しくなってしまう。それが人で、それが大人という生き物なら、苦しくても子どものままで居たかった。……矛盾していることは分かっているけれど。
 自分が父親に似ているとも思いたくないけれど、と言い訳のように無理やり考えて、奥野さんに向き直った。

  

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