鮫島くんのおっぱい
雨の町④
梨太はしばらく一人、部屋で悶々としていた。
卑猥な期待はすでに失せ、後悔と素直な反省だけが胸を占める。
やがて、上着を羽織ってパブへと降りた。鮫島に謝り、ともに晩酌するつもりだった。
もう深夜といっていい時刻だが、店はこれからいよいよにぎわう頃である。階段を下りきると、ドッとにぎやか歓声が梨太を迎えた。
「あれ?」
そこに、不思議な光景があった。五十人ほどのキャパシティのパブ、その壁沿いに人が輪になって観覧している。先程の声は観客のヤジである。
中央テーブルにいるのは、二人の男。ひとりはしなやかな肢体の、中性的な美丈夫だ。
「鮫島くん?」
梨太の声は、群衆の歓声に埋もれて消えていく。鮫島が向かい合っているのは大柄な男だった。たくましい腕に禿頭と見まがうほどに短く刈り込んだ髪、名前はたしか、鈴虫という――
「……何だ、結局、あんたらどっちがどっちなんだ?」
あれからずっと飲んでいたのだろうか、かなり酔いのまわった声で、男が問う。鮫島は丸テーブルに腰掛けたまま、腕を組んで言い捨てた。
「どっちだっていいだろう。いずれにせよお前の出る幕はないんだ」
「いいや、もしあんたのほうが雌体なら、話は大きく変わってくる」
男は胸を張り、断言した。
「あんたの夫になるくらいなら、俺の妻になったほうがいい!」
ほう、と鮫島。
「俺よりも自分が上だというのか、御仁。ならそれを証明してみるか。もしも俺を倒せたら、好きなだけリタを口説いていい」
「オイ」
梨太はうめいたが、やはりあちらには届かない。鈴虫はさらに胸を張る。
「いいや、あんたと喧嘩して勝てる気がしない。顔を知ってるぜ、あんたオーリオウルの英雄だろう。なるほど大したいい男だ……だがそれゆえに、リタには釣りあわない」
「別に、俺は多くを求めない。俺以上の男になれとリタの尻を叩くつもりは」
「不足があるのはあんたの方だ。あんたは男としては最高だが、女としては悲惨すぎる!」
「う」
直球の攻撃に、鮫島が思わず言葉を詰まらせる。男はさらに言葉を重ねた。
「肉がなさすぎる。背が高すぎる。肩幅が広すぎる。可愛げがなさすぎる。公私のすべてを軍にささげた騎士団長、お前は戦う以外になにができるんだ? 家事は? 子供うめるのか? 育てられるのか? つかそもそもなんであんたが妻役なんだ、どう考えても雌雄担当が逆だぜ」
「……。そ、それは。だって……。リタが雌体化できないから……。結婚するには、俺が女にならないと」
「それであの子がシアワセになれると思うのか」
「……でも。リタがいいって……」
「本当に好きなら、そこで身を引くのが本当のいい男だったんじゃねえのかい、英雄さんよ」
鈴虫に突きつけられて、鮫島はいよいよ言葉をなくして立ち尽くした。俯いて小刻みに震えている。やがて、ひどく小さな声で吐き出した。
「そんなことはわかってる……でもリタが……触りたいって、言ってくれたから……だから」
梨太は嘆息し、目の前にある背中をひっぱたいて避けさせた。人混みをかき分けズンズン進む。輪の中、向かい合っている二人のラトキア人の真ん中へ飛び込み、梨太は声を張り上げた。
「なにやってんだよもう! 鮫島くん、感情論のいちゃもん付け相手にまともに議論しようとすんなよ、そういうのクッソ弱いんだから」
「リタ……」
「おっさんも女の子いじめんな。今はともあれこの人は僕の妻だし、僕はその夫だ。僕たちのことで何か文句があるなら僕に言って」
鈴虫は一瞬きょとんとし、そして飲み込んで理解した。
「おもしろい夫婦だな。いや、悪かったよ。あんたのことは諦めるし、よその夫婦に口出しする権利があるわけでなし」
「まったくだ」
味方を得て強気になる鮫島。リタは深々と嘆息し、騒動を取り囲む観客と、おなじくすっかり観客になっていた店主をぐるりと見渡して、
「見せ物じゃないぞ! 嗤うならこの人より美人を連れてきてからにしろ。宇宙の果てから天体望遠鏡で探しても、そんなの一人も見つからなかった」
それはそれで観客を楽しませたらしい、おおーと無責任な歓声が上がり、あちこちから拍手が飛んできた。
「マスター、今夜の主役ふたりに、夫婦円満になる飲み物を。道化のおごりだ」
店主に向けて、鈴虫。またか、と梨太は思ったが、どうやらそれはラトキアでの風習らしい。受けるのが礼儀なのだろう。
「かしこまりました。鈴虫さま、今日はもうお帰りで?」
「ああ。夜食にいつものを包んでくれ。代金は全部まとめてうちの屋敷にな」
それだけ言って、偉丈夫はパブを立ち去った。店主はほくほく顔でカウンターへ引っ込むと、さっそく飲み物を勝手にこしらえ、でこぼこ夫婦の前に置いた。二つのグラス、中身の色が全く違う。中身は何だと尋ねると、店主はにやりと笑みを浮かべた。
「こっちのカクテル、奥さんのほうはよりいい女になれるものですよ」
「……具体的には?」
「ザクロリキュールの豆乳割り。おっぱいが大きくなるそうで」
鮫島は無言で受け取り、無表情で飲み干した。そんなんで劇的に変わったら苦労しないよ、という思考はおくびにも出さず、梨太もグラスを受け取り、飲み込む。ほんの少しだけ舌を刺す刺激。やけに甘い薬湯のようだが、飲みにくいほどではない。
杯を空けてから中身を聞いてみる。店主は再び、ニヤリと笑った。先ほどよりもなお、ゲスに。
「旦那さんが、よりいい男になれるクスリだよ」
「勘弁してくれよおおおっ」
梨太の泣き声が、部屋につもった埃をふるわせる。狭いベッドの上、シーツにくるまって、梨太は体を縮めて身悶えしていた。床の寝袋から、鮫島が心配して声をかける。
「どうしたリタ? おなかが痛いのか」
「いいい痛くはない、痛いのはもうちょっと下。ちょっとだけ痛い」
「なに? どこ? 大丈夫なのか」
「大丈夫、ただの皮不足だから。あああいかん見るな触るなこっちくんな」
「……あ。えっと。……ああ、うん」
「ああああもうくっそ、ラトキア人め。文化レベル高いくせに、根っこはどうもマッチョというかなんというか、性倫理が原始人なんだなもう!」
叫ぶ。今夜のことで、梨太はそれがよくわかった。
やはり、ラトキアは原始的、男根支配社会なのだ。
男尊女卑しかり、父権制度しかり。高度な科学技術はつい三百年ほど前、異星人からの侵略によってもたらされたオーバーテクノロジーであり、彼らの手には余っている。それは文化もまた同じだった。
教養の高い騎士から、民間人、下町、王都の外へと下がるほどに、文化レベルが下がってくる。よく言えば素朴、悪く言えば民度が低いのである。すなわち、性に奔放。
「夫婦だからって、いつでもセックスできるわけじゃねーんだぞこんにゃろう。奥さんに拒否られたところに、無駄な闘魂注入されたら大迷惑だよ。あのくそ薄毛ぇ」
妻に背を向け、ぶるぶる震える。鮫島はしばらく身の置きように困っていた。ベッドのそばで黙り込んでいたが、ふいに体を屈める。
スプリングに膝を埋め、上半身をこちらへ近づける。背を向けた梨太の耳元で、湿った女の声がささやいた。
「……俺は服を着たままでいい、なら……」
全身に巻いたシーツの隙間に、しなやかな手が滑り込む。梨太は息をのみ、硬直した。身じろぎ一つできない体を、後ろからぬくもりが包み込む。鮫島の爪が産毛に触れた、それだけで嬌声を上げそうになるのを、奥歯をかんでこらえた。
「……えーっと」
後ろからのぞき込み、眉をしかめて呟く鮫島。
「……どうだっけ。たしか……まず、根元をつかんで思いっきり、引」
秋雨に濡れる夜の宿。青年の絶叫が響きわたり、豪雨に飲まれて消えていった。
卑猥な期待はすでに失せ、後悔と素直な反省だけが胸を占める。
やがて、上着を羽織ってパブへと降りた。鮫島に謝り、ともに晩酌するつもりだった。
もう深夜といっていい時刻だが、店はこれからいよいよにぎわう頃である。階段を下りきると、ドッとにぎやか歓声が梨太を迎えた。
「あれ?」
そこに、不思議な光景があった。五十人ほどのキャパシティのパブ、その壁沿いに人が輪になって観覧している。先程の声は観客のヤジである。
中央テーブルにいるのは、二人の男。ひとりはしなやかな肢体の、中性的な美丈夫だ。
「鮫島くん?」
梨太の声は、群衆の歓声に埋もれて消えていく。鮫島が向かい合っているのは大柄な男だった。たくましい腕に禿頭と見まがうほどに短く刈り込んだ髪、名前はたしか、鈴虫という――
「……何だ、結局、あんたらどっちがどっちなんだ?」
あれからずっと飲んでいたのだろうか、かなり酔いのまわった声で、男が問う。鮫島は丸テーブルに腰掛けたまま、腕を組んで言い捨てた。
「どっちだっていいだろう。いずれにせよお前の出る幕はないんだ」
「いいや、もしあんたのほうが雌体なら、話は大きく変わってくる」
男は胸を張り、断言した。
「あんたの夫になるくらいなら、俺の妻になったほうがいい!」
ほう、と鮫島。
「俺よりも自分が上だというのか、御仁。ならそれを証明してみるか。もしも俺を倒せたら、好きなだけリタを口説いていい」
「オイ」
梨太はうめいたが、やはりあちらには届かない。鈴虫はさらに胸を張る。
「いいや、あんたと喧嘩して勝てる気がしない。顔を知ってるぜ、あんたオーリオウルの英雄だろう。なるほど大したいい男だ……だがそれゆえに、リタには釣りあわない」
「別に、俺は多くを求めない。俺以上の男になれとリタの尻を叩くつもりは」
「不足があるのはあんたの方だ。あんたは男としては最高だが、女としては悲惨すぎる!」
「う」
直球の攻撃に、鮫島が思わず言葉を詰まらせる。男はさらに言葉を重ねた。
「肉がなさすぎる。背が高すぎる。肩幅が広すぎる。可愛げがなさすぎる。公私のすべてを軍にささげた騎士団長、お前は戦う以外になにができるんだ? 家事は? 子供うめるのか? 育てられるのか? つかそもそもなんであんたが妻役なんだ、どう考えても雌雄担当が逆だぜ」
「……。そ、それは。だって……。リタが雌体化できないから……。結婚するには、俺が女にならないと」
「それであの子がシアワセになれると思うのか」
「……でも。リタがいいって……」
「本当に好きなら、そこで身を引くのが本当のいい男だったんじゃねえのかい、英雄さんよ」
鈴虫に突きつけられて、鮫島はいよいよ言葉をなくして立ち尽くした。俯いて小刻みに震えている。やがて、ひどく小さな声で吐き出した。
「そんなことはわかってる……でもリタが……触りたいって、言ってくれたから……だから」
梨太は嘆息し、目の前にある背中をひっぱたいて避けさせた。人混みをかき分けズンズン進む。輪の中、向かい合っている二人のラトキア人の真ん中へ飛び込み、梨太は声を張り上げた。
「なにやってんだよもう! 鮫島くん、感情論のいちゃもん付け相手にまともに議論しようとすんなよ、そういうのクッソ弱いんだから」
「リタ……」
「おっさんも女の子いじめんな。今はともあれこの人は僕の妻だし、僕はその夫だ。僕たちのことで何か文句があるなら僕に言って」
鈴虫は一瞬きょとんとし、そして飲み込んで理解した。
「おもしろい夫婦だな。いや、悪かったよ。あんたのことは諦めるし、よその夫婦に口出しする権利があるわけでなし」
「まったくだ」
味方を得て強気になる鮫島。リタは深々と嘆息し、騒動を取り囲む観客と、おなじくすっかり観客になっていた店主をぐるりと見渡して、
「見せ物じゃないぞ! 嗤うならこの人より美人を連れてきてからにしろ。宇宙の果てから天体望遠鏡で探しても、そんなの一人も見つからなかった」
それはそれで観客を楽しませたらしい、おおーと無責任な歓声が上がり、あちこちから拍手が飛んできた。
「マスター、今夜の主役ふたりに、夫婦円満になる飲み物を。道化のおごりだ」
店主に向けて、鈴虫。またか、と梨太は思ったが、どうやらそれはラトキアでの風習らしい。受けるのが礼儀なのだろう。
「かしこまりました。鈴虫さま、今日はもうお帰りで?」
「ああ。夜食にいつものを包んでくれ。代金は全部まとめてうちの屋敷にな」
それだけ言って、偉丈夫はパブを立ち去った。店主はほくほく顔でカウンターへ引っ込むと、さっそく飲み物を勝手にこしらえ、でこぼこ夫婦の前に置いた。二つのグラス、中身の色が全く違う。中身は何だと尋ねると、店主はにやりと笑みを浮かべた。
「こっちのカクテル、奥さんのほうはよりいい女になれるものですよ」
「……具体的には?」
「ザクロリキュールの豆乳割り。おっぱいが大きくなるそうで」
鮫島は無言で受け取り、無表情で飲み干した。そんなんで劇的に変わったら苦労しないよ、という思考はおくびにも出さず、梨太もグラスを受け取り、飲み込む。ほんの少しだけ舌を刺す刺激。やけに甘い薬湯のようだが、飲みにくいほどではない。
杯を空けてから中身を聞いてみる。店主は再び、ニヤリと笑った。先ほどよりもなお、ゲスに。
「旦那さんが、よりいい男になれるクスリだよ」
「勘弁してくれよおおおっ」
梨太の泣き声が、部屋につもった埃をふるわせる。狭いベッドの上、シーツにくるまって、梨太は体を縮めて身悶えしていた。床の寝袋から、鮫島が心配して声をかける。
「どうしたリタ? おなかが痛いのか」
「いいい痛くはない、痛いのはもうちょっと下。ちょっとだけ痛い」
「なに? どこ? 大丈夫なのか」
「大丈夫、ただの皮不足だから。あああいかん見るな触るなこっちくんな」
「……あ。えっと。……ああ、うん」
「ああああもうくっそ、ラトキア人め。文化レベル高いくせに、根っこはどうもマッチョというかなんというか、性倫理が原始人なんだなもう!」
叫ぶ。今夜のことで、梨太はそれがよくわかった。
やはり、ラトキアは原始的、男根支配社会なのだ。
男尊女卑しかり、父権制度しかり。高度な科学技術はつい三百年ほど前、異星人からの侵略によってもたらされたオーバーテクノロジーであり、彼らの手には余っている。それは文化もまた同じだった。
教養の高い騎士から、民間人、下町、王都の外へと下がるほどに、文化レベルが下がってくる。よく言えば素朴、悪く言えば民度が低いのである。すなわち、性に奔放。
「夫婦だからって、いつでもセックスできるわけじゃねーんだぞこんにゃろう。奥さんに拒否られたところに、無駄な闘魂注入されたら大迷惑だよ。あのくそ薄毛ぇ」
妻に背を向け、ぶるぶる震える。鮫島はしばらく身の置きように困っていた。ベッドのそばで黙り込んでいたが、ふいに体を屈める。
スプリングに膝を埋め、上半身をこちらへ近づける。背を向けた梨太の耳元で、湿った女の声がささやいた。
「……俺は服を着たままでいい、なら……」
全身に巻いたシーツの隙間に、しなやかな手が滑り込む。梨太は息をのみ、硬直した。身じろぎ一つできない体を、後ろからぬくもりが包み込む。鮫島の爪が産毛に触れた、それだけで嬌声を上げそうになるのを、奥歯をかんでこらえた。
「……えーっと」
後ろからのぞき込み、眉をしかめて呟く鮫島。
「……どうだっけ。たしか……まず、根元をつかんで思いっきり、引」
秋雨に濡れる夜の宿。青年の絶叫が響きわたり、豪雨に飲まれて消えていった。
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