鮫島くんのおっぱい
二十四歳、十六歳。①
不合格。
それを聞かされたとき、さすがの梨太も肩を落とした。
目標のため、努力を重ねたこの五年間。それがすべて無駄に終わったのだ。ダメージはとてつもなく大きかった。
「電話があったんだよ、さっきね」
口ひげを撫でながら、壮年の男はモゴモゴとつぶやくようにそう話す。
無言のままの梨太に、返事を待つこともなく続けた。
「……残念ながら落選だと。いや、ほんとに残念だよ。だけど仕方がない。宇宙飛行士候補生は、優秀であればなれるわけではないからね。君は秀才であるが天才ではない。上には上がいる。世界のライバルたちに、君は負けた、ただそれだけの話――」
男の長台詞を、梨太は遮った。
「通知は合否に関わらず封書で来るはずですが?」
男は言葉を飲みこんだ。館長――芝港海洋生物研究所の施設責任者であり、梨太の母校大学の教授でもある。彼はしばらく身を震わせて、そしてまた、モソモソと聞き取りにくい声音で続けた。
「……その、落選通知を先に電話で伝えて、それから封書を出すと言うことだ。エアメールだから、そうだな、数日はかかるだろう。それまでに、応募者に気を持たせるのは残酷だからという配慮だろうな」
「……なるほど」
「封書が届いたら君の部屋に届けよう。気を落とすことはないよ栗林博士。君は天才ではない――だが、間違いなく優秀だ。世界に名をとどろかす、とはいかないだろうが、私の助教授くらいならじきに掛け合ってやる。君ならばもっと上にも行ける。ああ、高給取りになりたいなら一般企業のほうがいいかもしれないな」
続く、館長の言葉を無視して、梨太はポケットから携帯電話を取り出した。館長の方へ向け、操作する。
スピーカーから会話が放たれる。英語であるが、一人は梨太の声だった。
「――先にメールで、二十二日中に書留が届くと伺いましたが、今日にもまだ届いていません。なにか手違いはありませんか?」
「クリバヤシさん? いいえ、確かに送っておりますよ。芝港海洋研究所水族館館長、イシハラ様に宛てて、受け取りサインも頂戴しています。間違いありません」
「そうですか……では、こっちで伝達ミスがあったようです。お手数おかけしました。――あの、合否を、この電話で聞くことは可能ですか?」
「本人確認がとれれば大丈夫です。応募シートのナンバーをどうぞ」
再生された会話はすこし間を空けて、やがて、女性の声が端的に続けた。
「クリバヤシ・リタさん、書類審査は合格です。おめでとう。以降、二次審査について詳しいことは封書の方に案内がありますので――」
梨太は再生を停止した。
館長は、なにか憑き物が落ちたような顔をしていた。梨太は静かに追及した。
「……出張中の僕に代わって、通知の受け取りをしてやろうと言ってくれたのはあなたでしたね。どうしてこんなことを? あなたは僕の夢を応援してくれていると思ってた」
館長は答えない。梨太は質問を変えた。
「封書は?」
「……燃やした。不合格通知なら私のタブレットにある。書き掛けだがね」
梨太は嘆息した。
「わかりました。機関には事情を話して、自宅のほうへ再送してもらうようにかけあってみます。お世話になりました」
一礼して背を向ける。館長がはじかれたように叫んだ。
「待ちなさい!」
「あなたを尊敬していました」
「待てというに、いけない、君はその合格通知を受け取ってはいけないんだ!」
梨太は足を止めた。
「……なんですって?」
「書類審査を通っても、どうせこの先で君は夢に破れる。無駄に期待するだけ哀れだ。君が哀れだ。あまりにも……!」
「なんですか? やってみないとわからないでしょう? 僕は飛びぬけて優秀じゃないけど、特別見劣りするわけじゃない――」
「君には無理だ、栗林博士」
館長は強く断言した。思わず息をのむ梨太。
続く、館長の言葉はそれよりもずっと小さな声だった。
「栗林梨太ならば、最終選考にまでいける可能性はあるだろう。だけど君はそうじゃない。そうじゃないだろう? ――北見信吾くん」
目を見開き、全身を硬直させる。下半身の力が抜けた。よろめいて、壁に手を突いてこらえる。
うつむいたまま、梨太は乾いた笑いをこぼした。
「……また、その名前か……」
「最終選考は、能力だけで審査されるのではない。職場の評価、人柄、性質、経歴――そういった本質的なものも審査の対象となる。両親が凶悪犯罪者。本人もその共犯、あるいは主犯の容疑がかかったこともある。その機に一時失踪をして、補導歴もあるな」
「冤罪です。実際すぐに解放された」
「だが日本国民はそれを信じていない」
「…………」
「……研究職ならば、よかったんだ。結果が出てから、名前が知られる。たとえ名前が大々的に報じられるような結果を出しても、実績は嘘をつかない。だが、宇宙飛行士までは、だめだ。かかる経費が莫大で、何人もの命を預かることになる。危険因子はなるべく排除されるだろう。君のその疵は致命的だ」
「……でも……二次審査までは、僕の実力をちゃんと見てくれる。そうすれば、伝わるはずだ」
館長は首を振った。
「君は優秀だよ、栗林博士。だが世界一ではない。私が審査員ならば、疵の付いた玉よりも、完璧な石を選ぶだろう。ほかに完璧な玉があればなおのこと」
梨太はのどを鳴らして歯噛みした。
館長は背を向けた。彼の口調にもまた、苦いものが混じる。
「宇宙飛行士は、だめだよ栗林博士。華々しすぎる……君が北見信吾であることはすぐ、世に知れる。また石を投げられる暮らしに戻りたいのか?」
梨太は壁に、拳を打ち付けた。ドスンと音を立て、部屋全体が振動する。奥歯がきしむほどに噛みしめる。そうして、梨太は低い声で吐き出した。
「構うもんか!」
どんっ――さらに強く、壁が揺れる。
「どうでもいいよ。僕のことを、そうか犯罪者だったのかと思うやつなんかどうでもいい。本当に大事な人たちには、僕を信じてもらえるように生きてきた。僕はもう逃げない。そのための、努力は十分にやってきたはずだっ――!」
「……そういう問題じゃないんだよ、栗林博士」
館長は言った。
「事故は起こる。それこそ誰のせいでもない事故だ。しかしもしそこに、疑わしい人物がいれば、そいつのせいではないかと疑われる。そしてそれを招き入れた人間が、有事には責任を追及されるだろう」
歯噛みする梨太に、館長は背を向けた。大学時代から、ずっと慕ってきた教授である。彼にしても、梨太は可愛い教え子であった。
死の宣告は、気持ちが悪いほど優しい声だった。
「……夢は諦めなさい。私は君を信用している。一介の研究者として生きるなら、娘を嫁にやってもいいくらいにね」
「要りませんよ」
即答する。館長は苦笑して見せた。
「ものの例えだよ。君に想い人がいるのは、日々の言動でみんなわかっている。……婚約もしているんだろう? なら、その人を大事にしなさい。それが君の幸福のはずだ」
梨太はいよいよ、館長を強く睨みつけた。これまでで一番低い声で吐き捨てる。
「……必要なんだ。宇宙船が。この人に会うためには、必要不可欠だった」
梨太は一礼し、無言のまま館長室をでていった。
真冬の海辺。
凍りつくほど冷たい潮風が、梨太の前髪をなぶって過ぎていく。しばみなと水族館と併設された研究所は、いつも潮のにおいで満ちている。嗅ぎ慣れた空気を目いっぱい吸い込み、すべて吐き出し、また吸い込んで――
そして、梨太は走り出した。
スニーカーでしっかりと地面を蹴っていく。それでも体幹がぶれることはない。
二十四歳。もう、少年ではなくなった。
外見としては、それほど変わったわけではない。
平均並の背丈に、骨が細く細身のシルエット。クセのある栗色の髪、丸みのある琥珀色の瞳。
ほんの少し上を向いた小さな鼻に、ぷくんと丸い唇。
そんな幼さの残る面差しでも、走る背中はしっかりと逞しい。
どこに向かうわけではなかった。五年間、一日も欠かさず続けたロードワークである。
梨太はもともと運動が好きではない。五年前までは、スポーツ観戦すらろくにしていなかったのだ。それでも目的があったから続けられた。
しかしすべてが無駄になったのだと理解したとき――彼は、その足を止めた。
私立霞ヶ丘高校。そんな名前の男子校に、梨太が入学したのが九年前。
卒業し、この町からも離れたのが六年前。
彼に出会ったのは、ちょうどその真ん中くらいのことだった。
高校二年生、十六歳の秋――。
その出会いよりも少し前に、梨太は彼の名を知っていた。五月に入ってすぐの頃。転校生の紹介として、校内テレビ放送が行われたのだ。私立高校に転校生とは珍しい。
「鮫島くん。――ということで、えー、全校生徒のみなさんに向けて自己紹介をお願いしますっ」
安っぽいサウンド。バラエティー番組を気取っているらしい。梨太は教室で、友人と弁当を食べていた。梨太はただ音を聞き流していただけだったが、友人が声を上げた。
「うわ。すっげ美形」
梨太は顔を上げた。
それを聞かされたとき、さすがの梨太も肩を落とした。
目標のため、努力を重ねたこの五年間。それがすべて無駄に終わったのだ。ダメージはとてつもなく大きかった。
「電話があったんだよ、さっきね」
口ひげを撫でながら、壮年の男はモゴモゴとつぶやくようにそう話す。
無言のままの梨太に、返事を待つこともなく続けた。
「……残念ながら落選だと。いや、ほんとに残念だよ。だけど仕方がない。宇宙飛行士候補生は、優秀であればなれるわけではないからね。君は秀才であるが天才ではない。上には上がいる。世界のライバルたちに、君は負けた、ただそれだけの話――」
男の長台詞を、梨太は遮った。
「通知は合否に関わらず封書で来るはずですが?」
男は言葉を飲みこんだ。館長――芝港海洋生物研究所の施設責任者であり、梨太の母校大学の教授でもある。彼はしばらく身を震わせて、そしてまた、モソモソと聞き取りにくい声音で続けた。
「……その、落選通知を先に電話で伝えて、それから封書を出すと言うことだ。エアメールだから、そうだな、数日はかかるだろう。それまでに、応募者に気を持たせるのは残酷だからという配慮だろうな」
「……なるほど」
「封書が届いたら君の部屋に届けよう。気を落とすことはないよ栗林博士。君は天才ではない――だが、間違いなく優秀だ。世界に名をとどろかす、とはいかないだろうが、私の助教授くらいならじきに掛け合ってやる。君ならばもっと上にも行ける。ああ、高給取りになりたいなら一般企業のほうがいいかもしれないな」
続く、館長の言葉を無視して、梨太はポケットから携帯電話を取り出した。館長の方へ向け、操作する。
スピーカーから会話が放たれる。英語であるが、一人は梨太の声だった。
「――先にメールで、二十二日中に書留が届くと伺いましたが、今日にもまだ届いていません。なにか手違いはありませんか?」
「クリバヤシさん? いいえ、確かに送っておりますよ。芝港海洋研究所水族館館長、イシハラ様に宛てて、受け取りサインも頂戴しています。間違いありません」
「そうですか……では、こっちで伝達ミスがあったようです。お手数おかけしました。――あの、合否を、この電話で聞くことは可能ですか?」
「本人確認がとれれば大丈夫です。応募シートのナンバーをどうぞ」
再生された会話はすこし間を空けて、やがて、女性の声が端的に続けた。
「クリバヤシ・リタさん、書類審査は合格です。おめでとう。以降、二次審査について詳しいことは封書の方に案内がありますので――」
梨太は再生を停止した。
館長は、なにか憑き物が落ちたような顔をしていた。梨太は静かに追及した。
「……出張中の僕に代わって、通知の受け取りをしてやろうと言ってくれたのはあなたでしたね。どうしてこんなことを? あなたは僕の夢を応援してくれていると思ってた」
館長は答えない。梨太は質問を変えた。
「封書は?」
「……燃やした。不合格通知なら私のタブレットにある。書き掛けだがね」
梨太は嘆息した。
「わかりました。機関には事情を話して、自宅のほうへ再送してもらうようにかけあってみます。お世話になりました」
一礼して背を向ける。館長がはじかれたように叫んだ。
「待ちなさい!」
「あなたを尊敬していました」
「待てというに、いけない、君はその合格通知を受け取ってはいけないんだ!」
梨太は足を止めた。
「……なんですって?」
「書類審査を通っても、どうせこの先で君は夢に破れる。無駄に期待するだけ哀れだ。君が哀れだ。あまりにも……!」
「なんですか? やってみないとわからないでしょう? 僕は飛びぬけて優秀じゃないけど、特別見劣りするわけじゃない――」
「君には無理だ、栗林博士」
館長は強く断言した。思わず息をのむ梨太。
続く、館長の言葉はそれよりもずっと小さな声だった。
「栗林梨太ならば、最終選考にまでいける可能性はあるだろう。だけど君はそうじゃない。そうじゃないだろう? ――北見信吾くん」
目を見開き、全身を硬直させる。下半身の力が抜けた。よろめいて、壁に手を突いてこらえる。
うつむいたまま、梨太は乾いた笑いをこぼした。
「……また、その名前か……」
「最終選考は、能力だけで審査されるのではない。職場の評価、人柄、性質、経歴――そういった本質的なものも審査の対象となる。両親が凶悪犯罪者。本人もその共犯、あるいは主犯の容疑がかかったこともある。その機に一時失踪をして、補導歴もあるな」
「冤罪です。実際すぐに解放された」
「だが日本国民はそれを信じていない」
「…………」
「……研究職ならば、よかったんだ。結果が出てから、名前が知られる。たとえ名前が大々的に報じられるような結果を出しても、実績は嘘をつかない。だが、宇宙飛行士までは、だめだ。かかる経費が莫大で、何人もの命を預かることになる。危険因子はなるべく排除されるだろう。君のその疵は致命的だ」
「……でも……二次審査までは、僕の実力をちゃんと見てくれる。そうすれば、伝わるはずだ」
館長は首を振った。
「君は優秀だよ、栗林博士。だが世界一ではない。私が審査員ならば、疵の付いた玉よりも、完璧な石を選ぶだろう。ほかに完璧な玉があればなおのこと」
梨太はのどを鳴らして歯噛みした。
館長は背を向けた。彼の口調にもまた、苦いものが混じる。
「宇宙飛行士は、だめだよ栗林博士。華々しすぎる……君が北見信吾であることはすぐ、世に知れる。また石を投げられる暮らしに戻りたいのか?」
梨太は壁に、拳を打ち付けた。ドスンと音を立て、部屋全体が振動する。奥歯がきしむほどに噛みしめる。そうして、梨太は低い声で吐き出した。
「構うもんか!」
どんっ――さらに強く、壁が揺れる。
「どうでもいいよ。僕のことを、そうか犯罪者だったのかと思うやつなんかどうでもいい。本当に大事な人たちには、僕を信じてもらえるように生きてきた。僕はもう逃げない。そのための、努力は十分にやってきたはずだっ――!」
「……そういう問題じゃないんだよ、栗林博士」
館長は言った。
「事故は起こる。それこそ誰のせいでもない事故だ。しかしもしそこに、疑わしい人物がいれば、そいつのせいではないかと疑われる。そしてそれを招き入れた人間が、有事には責任を追及されるだろう」
歯噛みする梨太に、館長は背を向けた。大学時代から、ずっと慕ってきた教授である。彼にしても、梨太は可愛い教え子であった。
死の宣告は、気持ちが悪いほど優しい声だった。
「……夢は諦めなさい。私は君を信用している。一介の研究者として生きるなら、娘を嫁にやってもいいくらいにね」
「要りませんよ」
即答する。館長は苦笑して見せた。
「ものの例えだよ。君に想い人がいるのは、日々の言動でみんなわかっている。……婚約もしているんだろう? なら、その人を大事にしなさい。それが君の幸福のはずだ」
梨太はいよいよ、館長を強く睨みつけた。これまでで一番低い声で吐き捨てる。
「……必要なんだ。宇宙船が。この人に会うためには、必要不可欠だった」
梨太は一礼し、無言のまま館長室をでていった。
真冬の海辺。
凍りつくほど冷たい潮風が、梨太の前髪をなぶって過ぎていく。しばみなと水族館と併設された研究所は、いつも潮のにおいで満ちている。嗅ぎ慣れた空気を目いっぱい吸い込み、すべて吐き出し、また吸い込んで――
そして、梨太は走り出した。
スニーカーでしっかりと地面を蹴っていく。それでも体幹がぶれることはない。
二十四歳。もう、少年ではなくなった。
外見としては、それほど変わったわけではない。
平均並の背丈に、骨が細く細身のシルエット。クセのある栗色の髪、丸みのある琥珀色の瞳。
ほんの少し上を向いた小さな鼻に、ぷくんと丸い唇。
そんな幼さの残る面差しでも、走る背中はしっかりと逞しい。
どこに向かうわけではなかった。五年間、一日も欠かさず続けたロードワークである。
梨太はもともと運動が好きではない。五年前までは、スポーツ観戦すらろくにしていなかったのだ。それでも目的があったから続けられた。
しかしすべてが無駄になったのだと理解したとき――彼は、その足を止めた。
私立霞ヶ丘高校。そんな名前の男子校に、梨太が入学したのが九年前。
卒業し、この町からも離れたのが六年前。
彼に出会ったのは、ちょうどその真ん中くらいのことだった。
高校二年生、十六歳の秋――。
その出会いよりも少し前に、梨太は彼の名を知っていた。五月に入ってすぐの頃。転校生の紹介として、校内テレビ放送が行われたのだ。私立高校に転校生とは珍しい。
「鮫島くん。――ということで、えー、全校生徒のみなさんに向けて自己紹介をお願いしますっ」
安っぽいサウンド。バラエティー番組を気取っているらしい。梨太は教室で、友人と弁当を食べていた。梨太はただ音を聞き流していただけだったが、友人が声を上げた。
「うわ。すっげ美形」
梨太は顔を上げた。
「恋愛」の人気作品
書籍化作品
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