鮫島くんのおっぱい
終章
さよならリタ。
彼女の最後の言葉を、同じ言葉を告げて見送って――
ベッドの上で、ひとり、梨太はただ白い天井を見つめていた。
短い惰眠を経てもなお、シーツの残滓、そして梨太の体からも、彼女の香りがする。まだ熱だけは残されて、しかしそこにはもう誰もいない。
茫洋と、蛍光灯を見つめ続けていた。
ふと、枕の傍に、銀色のきらめきを発見する。乱れた布の皺に、バッジタイプのくじらくんが挟まっていた。そこに並べられた、鮫の牙をつかったペンダント。扱い兼ねて、梨太はしばらくそれらを弄んだ。
あの人はきっと、これを取りに来ることは叶わない。
五年後の再会という望みが露と消えたことを、二人ともが理解している。
梨太の胸に、後悔はなかった。きっとあの人もそうだろう。
二人がともに選んだ結末だった。
これが、僕たちの結末――
梨太は起き上がり、頬を叩いた。
明日からまた、彼自身の人生が始まる。しっかり体を回復させて、日常に戻らなくてはならない。
意識を切り替えよう、と、床の紙袋に手を伸ばす。
母校、私立霞ヶ丘高校パズル部の後輩は、これでもかというほどの玩具を袋の中に詰め込んでくれたらしい。
ベッドの上でひっくり返す。クイズの本、知恵の輪、キューブパズル。それと、一枚の封筒。
梨太は片手でキューブを転回させながら、封筒を手に取った。飾り気のない封を開くと、中には妙にこきたない一枚紙。
「……これは――?」
折りたたまれたものを開いてみる。
なじみのない、記号のような短い文字列。梨太と、後輩少年による試行錯誤のメモ書きが端々にある。人の手に触られて年月を経た用紙は薄汚れていたが、中央の文字列は十分判別は可能だった。
梨太は息を飲んだ。
三年前――鮫島が初めて、梨太の家に宿泊したとき、朝に残されていた伝言。当時日本語の全くできなかった彼は、ラトキアの言葉を梨太に託した。当時全くラトキア語がわからなかった梨太は、暗号クイズとして少しだけ遊んで後輩に投げ、そしてそのまま忘れていた。
根っからの暗号パズル好きで、かつ律儀な後輩からの、三年越しの返却だった。そこに解答はない。だが今の梨太には読める。ニュアンスなどは不安だが、短く簡単なそのラトキア語を、梨太はもう、読むことが出来るようになっている!――
今度は、俺の家においで。
梨太は立ち上がった。栄養剤の点滴を引き抜いて、寝間着の上に外套を羽織る。着替える間も惜しい。裸足をスニーカーに突っ込んで、転がるように、病室の扉にかじりついた。
「おーい!」
背中を呼びかけられる声。病室の窓、ガラスの向こうに、赤い髪の少年がひらひらと手をふっている。梨太は叫んだ。
「虎ちゃん!」
「ういっすリタ。元気?」
窓の向こうで笑う虎。ここって三階じゃなかったっけ――と、慌てて駆け寄ると、虎は案の定、浮いていた。
空中浮遊するスクーターバイク。ラトキア騎士団の乗用車、エアライドである。銀色にきらめく乗り物の上に立ち、少年騎士が軽薄なピースサインをして見せた。
「じゃーなっ、俺もこれで退院するからよ。もう宇宙船、暖気して待ってるはずだから、愛想なしだけども勘弁しろよ」
「虎ちゃん、乗せて! 僕も一緒に行く!」
叫んだ時にはもう、梨太は窓枠に足をかけていた。虎がギョッと身をのけぞらせ、
「はあ? アホか、それでどうしろってんだよ。ラトキアに連れてけってもキッパリ無理だぜ。俺にそんな権限ねえし、普通に法律違反なんだから」
「わかってるよ!」
飛びつこうと距離感をはかる梨太に、虎は面食らい空に逃げた。
「やめれってバカ、こいつは一人乗りだ。体重制限で墜落する!」
「えええっなんだよもう、肝心なところで役立たず!」
「うるせえっ! こちとら独り身、二人用のエアライドなんか持ってても後ろに誰も乗ってくれねえんだからよ!」
ぎゃんぎゃん喚きあう少年達に、下方からクックッと男の笑う声がする。
梨太が乗り出して見下ろすと、緑の髪の騎士が、腹を抱えて笑っていた。
「蝶さん」
「うはは、やばい、ちょっといまのツボにはまった。おっかし」
ひいひい呻く彼もまた滞空している。ただしその乗り物は、虎のものより二回り大きく頑丈そうだ。彼はげらげら笑いながらも、ハンドル部分を操作して、その高度を窓辺に合わせてくる。
「……ま、団長が抜けても、次期騎士団長はきっと猪あたりが任命されるだろうし。戦力は虎が期待されてるし」
顔を輝かせる少年。男はどこか自嘲じみた笑みで、嘆息交じりに念を押す。
「おれの仕事が増えるってことはないだろう、たぶん。それならもう反対する理由はないな。リタ君には、カリがあったしね」
「あ、ありがとうっ!」
「ラトキアに連れてくのは無理。見送りだけだよ?」
「それでいい!」
梨太は窓から飛び出した。
真夏、夕刻、西からの風はやや強し。夕日がシルバーメタルの車体に映りこむ。
「リタ君、怪我は?」
「忘れたっ!」
「お前もたいがい頑丈だな」
蝶の背中にしがみつく梨太に、虎が並走して笑う。
エアライドには、車輪のかわりに背面にびっしりと小さな突起があり、そこが地面に向かって強い光を発している。
時速は約五十キロ。上空二十メートルを滑空する車体には、ステルス機能はあっても重力緩和機能はないらしい。真夏の日差しと吹き付ける風に髪をなぶられて、梨太は目もあけていられない。
ビルディングに合わせ高度を変えながら、ラトキアの騎士と少年は街を抜け、霞ヶ丘の家々を見下ろして、辺境の丘へ突き進む。
ラトキアの軍用宇宙船は、林というには寂しげな木々の陰に、雑に隠されて停泊していた。ただし全体が鏡面。何も知らなければ視認されることはないだろう、
予想よりはずっと小さく、全長は中型の自家用ジェットというほどか。外観は、にぶい銀色の巨大な卵にそっくりである。
エアライドは、宇宙船の上空で停止して、屋上部分に降り立った。蝶は梨太に顎をしゃくり、船体側面のタラップを差す。
梨太がそちらへ身を翻す間に、つるりとしていた天井の一部が音もなく口を開け、騎士たちはそこから船内へ飛び込んでいく。そしてまた、何事もなかったかのようにふさがった。
滑空移動で、栗色の髪はぐしゃぐしゃ。小さなタラップを一番下まで降りてくと、ちょうどその位置に、内部が見える丸窓があった。透明の、アクリル板のようなものがはめ込まれ、開くことは出来ない。
梨太は中をのぞき込む。人の姿はなかった。
「鮫島くん!」
叫ぶ。
「鮫島くん!」
二度、三度、叫ぶ。
はたしてその声を、内部に届ける仕組みがあるのかどうか。宇宙空間を渡る船が、梨太の声を通すとは思えない。それでも呼び続ける。
成果は、三分とせずに与えられた。
おそらくは蝶や虎が声をかけてくれたのだろう。猪に導かれて、鮫島の姿が現れた。巨漢がうしろにいるせいか、ひどく華奢で、たおやかに見える美女――軍服を着込んだ凛々しい姿で、きょろきょろとあたりを見渡して、すぐに窓の梨太に気づき、駆け寄ってくる。
「鮫島くん、鮫島くん――」
窓の向こうで、鮫島の口がぱくぱく開く、その声はまったく聞こえなかった。
鮫島が、何かを話す。梨太は、なんとか彼の唇から言葉を読みとろうとした。しかし、彼の耳にピアスがついていないのに気づく。普段は脳内で自動変換されて日本語を口にしているが、ラトキアの言葉をそのまま話すとき、その唇は日本語の形に動かない。
梨太のラトキア語はまだまだ未熟で、唇を読みとるなどできはしない。
困った顔をしたのを、鮫島はすぐに察した。一瞬、ピアスを取りに行こうと身を翻し、しかし考え直して、ふたたび窓に顔を寄せた。
その唇が、ゆっくりと動く。
リ、タ 、げんき?
日本語だ。
怪我の心配をしている。梨太はおなじく無音で伝わりそうな、短い言葉を模索する。
「元気。大丈夫」
よかった。
鮫島が言葉を返す。そのほほえみに、山ほどの想いをこめて、彼は目を伏せた。
さようなら。リタ。
別れの時に言うべき言葉、それ以外はもう、なにもない。それでも梨太は倣わなかった。
きっと、梨太が言いたい言葉はそのわずかでさえも彼には届かないのだろう。それでも。
梨太は叫んだ。
「鮫島くん、僕が、そっちへいくから!」
鮫島が不思議そうな顔をする。
「僕が行く。ラトキアに。きっと行くから」
彼はじっと梨太をみつめ、その言葉を神妙に聞いた。
「待っていて。何年、何十年先になるかわからないけど、できるだけ早く行くから、待ってて――」
完治していない体で一気にしゃべったせいか、梨太の呼吸は乱れ、顔が上気してきた。ぼさぼさ頭を土埃で汚し、葉っぱまでくっついている。タラップにぶら下がる包帯だらけの男。
鮫島がなにかを囁く。それは日本語なのかラトキア語だったのか、梨太は唇から読みとることができない。
なんの意志疎通もできないまま、ふたりはどちらが促すこともなく、おなじ速度で、窓に唇を寄せた。
ガラスやアクリルでもない、梨太の知らない素材を張った宇宙航海に耐えうる窓は、透明度に反して残酷なまでに厚く強固だった。お互いの唇の感触も体温もなにひとつ伝えることができない。
ふたりはまたどちらともなく、しずかに身をはなす。
とたん、その窓の色が変わっていく。宇宙船外壁と同じメタルの艶を帯び、凹凸すらも静かに埋められた。
掴まっていたタラップも、微振動とともに船体にしまわれていく。
梨太はどうにか、杉の木伝いに地上へ降りた。
宇宙船から距離を置き、林の中で、もしかしたら見えているのかもしれない船内に向かって手を振った。
銀色の卵が振動し、赤い空へと浮かび上がる。
残像すら残さずに急速にさっていくラトキアの宇宙船。
梨太は背伸びをし、彼らの帰還を見送った。夏の夕空に、その姿が消え去るまで。
彼女の最後の言葉を、同じ言葉を告げて見送って――
ベッドの上で、ひとり、梨太はただ白い天井を見つめていた。
短い惰眠を経てもなお、シーツの残滓、そして梨太の体からも、彼女の香りがする。まだ熱だけは残されて、しかしそこにはもう誰もいない。
茫洋と、蛍光灯を見つめ続けていた。
ふと、枕の傍に、銀色のきらめきを発見する。乱れた布の皺に、バッジタイプのくじらくんが挟まっていた。そこに並べられた、鮫の牙をつかったペンダント。扱い兼ねて、梨太はしばらくそれらを弄んだ。
あの人はきっと、これを取りに来ることは叶わない。
五年後の再会という望みが露と消えたことを、二人ともが理解している。
梨太の胸に、後悔はなかった。きっとあの人もそうだろう。
二人がともに選んだ結末だった。
これが、僕たちの結末――
梨太は起き上がり、頬を叩いた。
明日からまた、彼自身の人生が始まる。しっかり体を回復させて、日常に戻らなくてはならない。
意識を切り替えよう、と、床の紙袋に手を伸ばす。
母校、私立霞ヶ丘高校パズル部の後輩は、これでもかというほどの玩具を袋の中に詰め込んでくれたらしい。
ベッドの上でひっくり返す。クイズの本、知恵の輪、キューブパズル。それと、一枚の封筒。
梨太は片手でキューブを転回させながら、封筒を手に取った。飾り気のない封を開くと、中には妙にこきたない一枚紙。
「……これは――?」
折りたたまれたものを開いてみる。
なじみのない、記号のような短い文字列。梨太と、後輩少年による試行錯誤のメモ書きが端々にある。人の手に触られて年月を経た用紙は薄汚れていたが、中央の文字列は十分判別は可能だった。
梨太は息を飲んだ。
三年前――鮫島が初めて、梨太の家に宿泊したとき、朝に残されていた伝言。当時日本語の全くできなかった彼は、ラトキアの言葉を梨太に託した。当時全くラトキア語がわからなかった梨太は、暗号クイズとして少しだけ遊んで後輩に投げ、そしてそのまま忘れていた。
根っからの暗号パズル好きで、かつ律儀な後輩からの、三年越しの返却だった。そこに解答はない。だが今の梨太には読める。ニュアンスなどは不安だが、短く簡単なそのラトキア語を、梨太はもう、読むことが出来るようになっている!――
今度は、俺の家においで。
梨太は立ち上がった。栄養剤の点滴を引き抜いて、寝間着の上に外套を羽織る。着替える間も惜しい。裸足をスニーカーに突っ込んで、転がるように、病室の扉にかじりついた。
「おーい!」
背中を呼びかけられる声。病室の窓、ガラスの向こうに、赤い髪の少年がひらひらと手をふっている。梨太は叫んだ。
「虎ちゃん!」
「ういっすリタ。元気?」
窓の向こうで笑う虎。ここって三階じゃなかったっけ――と、慌てて駆け寄ると、虎は案の定、浮いていた。
空中浮遊するスクーターバイク。ラトキア騎士団の乗用車、エアライドである。銀色にきらめく乗り物の上に立ち、少年騎士が軽薄なピースサインをして見せた。
「じゃーなっ、俺もこれで退院するからよ。もう宇宙船、暖気して待ってるはずだから、愛想なしだけども勘弁しろよ」
「虎ちゃん、乗せて! 僕も一緒に行く!」
叫んだ時にはもう、梨太は窓枠に足をかけていた。虎がギョッと身をのけぞらせ、
「はあ? アホか、それでどうしろってんだよ。ラトキアに連れてけってもキッパリ無理だぜ。俺にそんな権限ねえし、普通に法律違反なんだから」
「わかってるよ!」
飛びつこうと距離感をはかる梨太に、虎は面食らい空に逃げた。
「やめれってバカ、こいつは一人乗りだ。体重制限で墜落する!」
「えええっなんだよもう、肝心なところで役立たず!」
「うるせえっ! こちとら独り身、二人用のエアライドなんか持ってても後ろに誰も乗ってくれねえんだからよ!」
ぎゃんぎゃん喚きあう少年達に、下方からクックッと男の笑う声がする。
梨太が乗り出して見下ろすと、緑の髪の騎士が、腹を抱えて笑っていた。
「蝶さん」
「うはは、やばい、ちょっといまのツボにはまった。おっかし」
ひいひい呻く彼もまた滞空している。ただしその乗り物は、虎のものより二回り大きく頑丈そうだ。彼はげらげら笑いながらも、ハンドル部分を操作して、その高度を窓辺に合わせてくる。
「……ま、団長が抜けても、次期騎士団長はきっと猪あたりが任命されるだろうし。戦力は虎が期待されてるし」
顔を輝かせる少年。男はどこか自嘲じみた笑みで、嘆息交じりに念を押す。
「おれの仕事が増えるってことはないだろう、たぶん。それならもう反対する理由はないな。リタ君には、カリがあったしね」
「あ、ありがとうっ!」
「ラトキアに連れてくのは無理。見送りだけだよ?」
「それでいい!」
梨太は窓から飛び出した。
真夏、夕刻、西からの風はやや強し。夕日がシルバーメタルの車体に映りこむ。
「リタ君、怪我は?」
「忘れたっ!」
「お前もたいがい頑丈だな」
蝶の背中にしがみつく梨太に、虎が並走して笑う。
エアライドには、車輪のかわりに背面にびっしりと小さな突起があり、そこが地面に向かって強い光を発している。
時速は約五十キロ。上空二十メートルを滑空する車体には、ステルス機能はあっても重力緩和機能はないらしい。真夏の日差しと吹き付ける風に髪をなぶられて、梨太は目もあけていられない。
ビルディングに合わせ高度を変えながら、ラトキアの騎士と少年は街を抜け、霞ヶ丘の家々を見下ろして、辺境の丘へ突き進む。
ラトキアの軍用宇宙船は、林というには寂しげな木々の陰に、雑に隠されて停泊していた。ただし全体が鏡面。何も知らなければ視認されることはないだろう、
予想よりはずっと小さく、全長は中型の自家用ジェットというほどか。外観は、にぶい銀色の巨大な卵にそっくりである。
エアライドは、宇宙船の上空で停止して、屋上部分に降り立った。蝶は梨太に顎をしゃくり、船体側面のタラップを差す。
梨太がそちらへ身を翻す間に、つるりとしていた天井の一部が音もなく口を開け、騎士たちはそこから船内へ飛び込んでいく。そしてまた、何事もなかったかのようにふさがった。
滑空移動で、栗色の髪はぐしゃぐしゃ。小さなタラップを一番下まで降りてくと、ちょうどその位置に、内部が見える丸窓があった。透明の、アクリル板のようなものがはめ込まれ、開くことは出来ない。
梨太は中をのぞき込む。人の姿はなかった。
「鮫島くん!」
叫ぶ。
「鮫島くん!」
二度、三度、叫ぶ。
はたしてその声を、内部に届ける仕組みがあるのかどうか。宇宙空間を渡る船が、梨太の声を通すとは思えない。それでも呼び続ける。
成果は、三分とせずに与えられた。
おそらくは蝶や虎が声をかけてくれたのだろう。猪に導かれて、鮫島の姿が現れた。巨漢がうしろにいるせいか、ひどく華奢で、たおやかに見える美女――軍服を着込んだ凛々しい姿で、きょろきょろとあたりを見渡して、すぐに窓の梨太に気づき、駆け寄ってくる。
「鮫島くん、鮫島くん――」
窓の向こうで、鮫島の口がぱくぱく開く、その声はまったく聞こえなかった。
鮫島が、何かを話す。梨太は、なんとか彼の唇から言葉を読みとろうとした。しかし、彼の耳にピアスがついていないのに気づく。普段は脳内で自動変換されて日本語を口にしているが、ラトキアの言葉をそのまま話すとき、その唇は日本語の形に動かない。
梨太のラトキア語はまだまだ未熟で、唇を読みとるなどできはしない。
困った顔をしたのを、鮫島はすぐに察した。一瞬、ピアスを取りに行こうと身を翻し、しかし考え直して、ふたたび窓に顔を寄せた。
その唇が、ゆっくりと動く。
リ、タ 、げんき?
日本語だ。
怪我の心配をしている。梨太はおなじく無音で伝わりそうな、短い言葉を模索する。
「元気。大丈夫」
よかった。
鮫島が言葉を返す。そのほほえみに、山ほどの想いをこめて、彼は目を伏せた。
さようなら。リタ。
別れの時に言うべき言葉、それ以外はもう、なにもない。それでも梨太は倣わなかった。
きっと、梨太が言いたい言葉はそのわずかでさえも彼には届かないのだろう。それでも。
梨太は叫んだ。
「鮫島くん、僕が、そっちへいくから!」
鮫島が不思議そうな顔をする。
「僕が行く。ラトキアに。きっと行くから」
彼はじっと梨太をみつめ、その言葉を神妙に聞いた。
「待っていて。何年、何十年先になるかわからないけど、できるだけ早く行くから、待ってて――」
完治していない体で一気にしゃべったせいか、梨太の呼吸は乱れ、顔が上気してきた。ぼさぼさ頭を土埃で汚し、葉っぱまでくっついている。タラップにぶら下がる包帯だらけの男。
鮫島がなにかを囁く。それは日本語なのかラトキア語だったのか、梨太は唇から読みとることができない。
なんの意志疎通もできないまま、ふたりはどちらが促すこともなく、おなじ速度で、窓に唇を寄せた。
ガラスやアクリルでもない、梨太の知らない素材を張った宇宙航海に耐えうる窓は、透明度に反して残酷なまでに厚く強固だった。お互いの唇の感触も体温もなにひとつ伝えることができない。
ふたりはまたどちらともなく、しずかに身をはなす。
とたん、その窓の色が変わっていく。宇宙船外壁と同じメタルの艶を帯び、凹凸すらも静かに埋められた。
掴まっていたタラップも、微振動とともに船体にしまわれていく。
梨太はどうにか、杉の木伝いに地上へ降りた。
宇宙船から距離を置き、林の中で、もしかしたら見えているのかもしれない船内に向かって手を振った。
銀色の卵が振動し、赤い空へと浮かび上がる。
残像すら残さずに急速にさっていくラトキアの宇宙船。
梨太は背伸びをし、彼らの帰還を見送った。夏の夕空に、その姿が消え去るまで。
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