鮫島くんのおっぱい

とびらの

虎ちゃんの歩み

 雨が上がって、繁華街は徐々に人通りを増やしていった。
 軍服を腰に巻いたまま、『柏餅せいいっぱい』を掲げる騎士は人波をザクザク進む。

 梨太はふと、犬居のことを思い出した。夜でもサングラスをかけ、後れ毛一本さらさないようにニット帽に詰め込んでいた彼とは違い、この男は気にしていないらしい。

 同じ赤い髪、同じスラムの育ちだという二人の男は、共通点が多いようであり、その性質はまったくちがう。

 両方とも、好感の持てる男である。だが鮫島の世話役は犬居でなければと、確信があった。
 虎に、犬居の様な気配りできないし、鮫島への畏怖は犬居の敬愛とは種類が違っていた。生粋の戦士である彼は、自分よりも強い者に対し、どうしても距離を置いてしまうのだろう。

 好き嫌いではなく、友人にはなれない。

 そういう犬居も、鮫島と友達であるとは言いかねるが、騎士団では誰より近くにいる。
 鮫島も、ほかのどの騎士よりも犬居とは親しげに話す。

(……そういや、今回の事件で、犬居さんとはほとんど会ってないな……)

 梨太の前を、己のペースで進んでいた虎がふといきなり、足を止めた。
 ショップの壁に張られた広告ポスターがそこにあった。
 『竪琴の調・憩いと寛ぎの空間。和み 生徒募集』。

「……リタ、タテゴトの音って聴いたことあるか?」

 そんなことを言った。質問そのものよりも別のことに驚く梨太に気づかずそのまま続ける。

「この間読んだマンガで、ヒロインがそれを弾いてた。でも活字の擬音だけじゃ異星人としてはちっともピンとこなくてな」

「……虎ちゃん、もしかしてすんごい日本語達者?」

「識字だけはな。聞き取りはやっぱり自動変換装置頼りだぜ。たてごとのしらべ、いこいとくつろぎのくうかん。なごみ、せいとぼしゅう。だろ?」

 ポスターを指さして読み上げる。
 梨太は拍手をしてみせた。

「当たり。外国人がそこまでに至るのはすごいことだよ」

「俺は昔っから日本語にはなじみがあるんだよ。ラトキアで『まんが』を読んでた」

「えっ、ラトキアに日本の漫画が輸入されてるの? そんなに日本語はラトキアで一般的?」

「いやいや、まさか。出回ってるのはちゃんと翻訳されたやつだよ」

 虎は否定をしたが、翻訳物があるというのはなおさら驚愕である。

 虎は破顔し、なにも忌憚のない笑顔のまま、

「もともとはオーリオウルで流行ってるもんらしい。そこから星帝に献上されて、星帝閣下は大いに気に入り大量輸入、そして翻訳。となると原作そのものが欲しくなる輩ってのはいるんだよなあ」

「それで、日本語版も輸入されたの?」

「原本として、な。あとは、スラムの連中の小遣い稼ぎ――海賊版っていうのか? 荒い印刷に言葉だけ手書きのコピーで大量生産。ま、それなりに騙されて買っちゃう奴はいたんだろうな」

「うあー。後進国感出てるなー」

「そこで、印刷ミスしたものはテキトーに投棄される。俺の生家は、ゴミ捨て場所の真横なんだ」

 こともなげにそう言った。

「ラトキア翻訳の漫画は、一冊でひと月学校に通えるだけ高価でな。俺は少年兵士になって、ラトキア語を習うよりも前から、日本の漫画を拾って読んでた。字の発音はわからなかったけど、まあなんとなく読めるようになるもんさ」

「……ああ……それで、猥談もあんなに流暢に」

「やっぱりそっち路線の需要は全銀河系共通だよな」

 そんなことを言って、笑う、彼の横顔は、小一時間前のように突き抜けた明るさはなくなっていた。

 陰鬱な雨があがり、雲からかすかに日が射す。
 そのスポットライトの下で、太陽色の髪を持つラトキアの騎士は目を細めた。

「……わからない言葉だらけでも、なんとなくは理解できる。でも、やっぱりでたらめな部分はかなりあってな。いつか日本に行ったら、ちゃんと習ってみたいって思ってた」

 腰に巻いていた軍服をほどいて、ウエストポーチから、小さな書籍を取り出した。
 無言のままぽいと投げてくるのをあわてて受け取る。

「辞書? 日本語からラトキア語に訳する……」

「自動言語変換機開発の現場、科学班の資料室のもんだ。用済みのもんを……鹿、がくれた」

 虎の口から、はじめて、鹿の名が苦い音を含めて発せられた。

「俺の部屋で漫画を見つけて。それで頼んだわけでもねえのによ」

「……虎ちゃんは……鹿さんを、嫌って別れたんじゃないんだね……」

 同じ年の男を見上げて、梨太は眉をしかめる。彼は苦笑いのようなものを浮かべた。

「嫌うも、別れるもくそも。俺は孕んだってことすら本人から聞けてねえよ。あいつの部屋から出向して、帰ってきたら騎士団辞めてやがった」

「えっ?」

「そこから二年半、今に至るまで一言も会話してねえ。顔も、見てない。子供も。
 ラトキアでは私生児は認められない。生まれましたDNA鑑定しましたあなたの子ですのであなたと鹿さんは夫婦になりました、一週間以内に夫婦揃って出生届にサインを出さなければ離婚になります、と。そんな書類が寮に届いた、それだけだ」

「……そ……なにそれ。それが、ラトキアの法律?」

 虎は肩をすくめる。外洋に出て、その文化に触れることの多い騎士は己の故郷の特徴を知っている。
 地球人には理解できないだろう、と自嘲気味にほほ笑んで。

「ラトキアの女は社会弱者だ。だからこそ、結婚や出産に関しては圧倒的に女に選択権がある。婚前で妊娠すれば国営病院で子の父親があぶり出され、かならず結婚させられる。そのあと、実際に夫婦になりたいかどうかは女に一任。逃げた男は監獄行きだ。
 どちらにせよ離婚は男から言い出すことも拒否することも出来ねえ。望む男が、望まない女と我が子を召喚するすべは――なんにもない。
 ……ま、いろいろと悲惨な歴史があっての現法なんだろう。その善し悪しは、俺みたいな完全雄体優位の男にはなにも言う権利はないんだけどよ。
 ……実際に、自分がその最悪の形で突っぱねられると、つらいな」

 つらい――
 そんな、弱い言葉を――
 もしかしたら虎は、初めて口にしたのかもしれない。
 彼は己の発言に、驚いたように目を見開いていた。

 しばらくその場で放心して、やがて彼は黙ってきびすを返す。
 そのまま歩き進んできた方に向けて移動を再開した。

 歩幅が、すこしだけ狭くなっている。梨太は辞書を手に持ったまま、小走りで虎の背中へ距離を詰めると、かける言葉を悩んだ。何かを言いたくてたまらなかった。だがなにを言っても彼の助けにならない確信がある。それでも何かを言いたかった。

「鹿さんもっ――」

 虎は振り返らない。

 梨太は、言葉を続けた。

「……鹿さん、自身は、あの人も虎ちゃんのことがずっと好きだったと思うよ……」

 虎は、しばらく押し黙っていた。そのまままっすぐに道をゆき、やがて、吐き捨てる。

「リタ、それ、やる。俺はもう日本語覚えたからな」

「……え……うん」

「がんばれよお前」

 ぶっきらぼうな言葉は、たくましい背中越しに届けられた。 
 梨太は無言であるきながら、視線を友人の背中ではなく、夏の曇天へとあげる。

 暗雲はすこしずつその色味を白へ近づけて、厚みをそがれ、わずかに青空と日差しすらのぞかせている。

 揺れる太陽色の髪。

 雨粒が落ちればいい。
 梨太は願った。

 への字に唇を結び噛みしめた、この友人の頬を、雨でぬらしてやりたかった。でないと、彼は泣くことができない。

 男二十歳、歩幅だけは正直に、強がって生きている。

 梨太は虎と同じ速度で、町を歩いていった。

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