鮫島くんのおっぱい
酒とお金と男と女
よく冷えた720ml瓶に、きれいな切り子のグラス。
梨太はよくわからないなりに酌をして、鮫島がそれを、唇にあてるのを眺めた。
バラ色の唇に透明な酒が含まれる。
彼は穏やかに酒を吸い、一口目は静かに、二口目でゆっくりと味わう。理由はわからないが、これは彼の飲食時のクセであるようだった。
「――うん、おいしい。白ブドウのワインに似ている。これは常温でもいいと思う」
そんなことを言う。
梨太は何となく、鮫島は極度の下戸だと思いこんでいた。三年前、こういった娯楽を団長は一切取らないというのが騎士団員の弁である。
そのことを話してみると、鮫島はツキダシに置かれた魚料理の小骨と格闘しながら、
「仕事上、断れない酒というのは多いものだ。はじめのうちは、ただ不味いが飲める、だったが、八年も飲んでいれば美味さを感じるようにはなる」
そう言って、二杯目を手酌しようとした。梨太は制してそれを担う。
「やっぱり、貴族の晩餐会みたいなんがあるの?」
梨太の酌を心配そうにみていた鮫島は首を振った。
「いや。年末年始だとか、団員の出入りや、冠婚葬祭」
「あら、なんだか普通。ラトキア騎士団もけっこうサラリーマンなんだ」
出汁巻き玉子の上にたっぷり乗った大根おろし。甘みの強い大根のようで、卵焼きと一緒に大口へ放り込むと口の中が幸せになる。
思わず頬がほころぶ梨太。
「給料のために働いているのは、どの世界、どの業界でも同じことだろう」
煮付けを飲み下して、そのように答える鮫島。
梨太はふと、酒の席で、うがったことを聞いてみたくなった。
自身が十六歳だった三年前には興味もなかったことを、様子をうかがいながら尋ねてみる。
「……騎士団のお給料ってどんなもん?」
鮫島は顔を上げた。
しばらく無言で料理をつつく――これは、いいあぐねているのではなく、ただ単に難しい質問だったようだ。とりあえず思いついたらしいことを言う。
「日割りにして、イルイド産の絹織物2キロぶんくらい」
「まったくわかりません」
「シバメットチョコレート30枚くらい」
「それカツ丼より高いの?」
「ドルム区のワンルーム家賃くらい」
「だからわかんないって」
ところかわればものの価値が変わる。その地域での貴重品が、別の地域ではゴミ同然に転がっていたりするものだ。ブランドものは誰が値段を決めるのだろう。
この日本、この地球上ででも、お金の話は難しい。
鮫島はかなり言葉を模索して、もそもそと回答してくれた。
「……一般平均の四割増しくらい」
「あ、そんなもんなんだ? 故郷を離れて命がけで戦うにしては安い気もするなあ」
梨太の正直なコメントに、鮫島は笑った。
「まったくだ。日当だけなら傭兵よりずっと安い。騎士団長になっても、一般騎士の三割増し程度だ。
まあそれでも、生活必需品の支給や税金免除だとか、福利厚生が手厚く、恵まれているのだろうけど」
「なるほどホントに公務員さんってかんじだねえ。ほうほう。じゃあまるごとアソビに使い放題? それはだいぶ贅沢が出来るね」
「その通りだが、既婚者となるとそうは言ってられないな。独身でも貯金をしておかないと結婚するときにもしたあとにも困る」
「……いやそこはほら、奥さんだって働いて――」
言いかけて――
梨太は口をつぐんだ。
向かい席に座る鮫島が目を丸くしていたのだ。
「……女が……妻が、働く?」
女性の姿をした騎士が、そんなことをつぶやく。
梨太はあれっと声を上げた。
「え? なに、だってラトキアのひとなんてみんな雌雄同体なんだから、日本よりもずっと当たり前のことなんじゃないの? 各家庭のやり方とか、個人の思想を否定する気はないけど」
梨太のせりふに、鮫島はまたびっくりして首を振る。
「ラトキアの女――周期的な雌体化ではなく、妻となり母となり、『女』として完成されたものは、働かない。……働くところが、ない」
「鯨さんは――」
「あれは例外中の例外だ。十八の若さで将軍となり、それで星帝に見初められた。婚姻し、ふつうはそれで退役するところを、後任がおらずそのまま継続している。星帝皇后は職業ではない。星帝が体を悪くしたため『とりあえず』仕事を代行しているだけで、本来、鯨はただの『女』だ」
鮫島は、上司であり実姉である鯨女史のことを素直に評することはできないらしい。やけにぶっきらぼうに言い捨てて、なんにせよ、と前置きをしてつなげる。
「ラトキアで、男と同じだけ働く既婚の女など十万人に一人もいない。よほどそのひとしかできない特殊な技能だとか、いわゆる芸能人とか――……芸能人とか。……そういうひと、だけだ」
そう言ったが最後、本気で黙り込んでしまった。
どうやら梨太の言葉は相当なカルチャーショックだったらしい。
彼の反応に、梨太もまたカルチャーショックを受けていた。
梨太はこれまで、このように考えていた。
ラトキア人は雌雄同体。誰しもが、父にも母にもなれる。男にも女にもなってしまう。ならば男が女がとお互いをなじるような差別意識はなく、両者が中性的で、人として惹かれあって婚姻し暮らしているようなイメージだった。
だがそれはまったくの誤解――実際は、間逆なのかもしれない。
地球上世界各国で聞こえる、性差廃絶の主張。この性に生まれてしまったことは仕方がない、だがそれゆえに押しつけられるのは不公平だ――そんな論調で、性からの解放を訴える者達。
しかしラトキア人にその言い訳は存在しない。彼らは自由に性別を選択できるのだ。
男になったのは自ら望んだこと。女になったのも自ら望んだこと。
ならばその性差を素直に受け入れて、男は力仕事をし家族を支えるために外にでる。女は男にかしずき家事と育児をし、どうしようもない理由がない限り子供を産む――
その概念そのものは道理である、と思えた。
しかしどうしても梨太には納得がいかない。
「でもそれだと、たとえば、旦那さんが死んだりとか、離婚したりしたらどうなるの? その旦那がサイテーな奴だったらどうしたらいいの?」
「…………」
鮫島は黙り込んだ。
梨太はさらに重ねる。
「雌体優位が強くって、ほぼほぼ女性として生まれてくる人もいるんでしょ。そのひとはどうやって暮らすの? いや、そりゃ結婚できればいいけども、好きな人と出会わなかったりとか、あるいはブサイ――誰にも見初められることがなかったら。その女性は……どうやって生きるの?」
梨太は徐々に言葉を納めていった。
「……鹿さんは、いまどんな暮らしを――」
鮫島が酒のグラスを持ったまま、その手の肌色を白くさせていたのを見て取って。
梨太は言葉をなくしたが、鮫島はほほえみ、穏やかな声で回答をくれた。
「……いろんな理由で、働くことができない人間には、国が衣食住を保護する制度がちゃんとある。決して贅沢はできないが、飢えて死ぬことはないはずだ。女の誰しもが望まぬ結婚を受け入れたり、法に触れる仕事をしているわけじゃない」
そう言って、彼は手酌でグラスを満たした。
なんとなく重い空気が落ちた。それを理解した鮫島は、一応、話題を変えようとしたらしかった。
珍しく彼のほうから話題を振ってくる。
「雌雄どちらのときも働ける技術職は強い。あの烏は、ラトキアで有数の資産家だぞ。軍からの給料だけでなく、開発した薬剤や兵器のノウハウに個人的に権利を持っていたからな」
「あー、こういうの理系は強いねえ」
「うん。そういうものは、指名手配中でも口座に送られていく。逮捕された時点で財産没収となるのだけど、市の年間予算並みの資産になっていて、鯨がラッキーなんて喜んでいた」
「うはは、それはひどい、実に鯨さんらしい」
梨太が笑うと、鮫島も明るい笑い声を上げた。
「今思えば、俺によくごはんを奢ってくれたのは分け前のつもりだったのかもしれない。礼を言って損をした。兵器の七割がたは俺が被検体で開発されたものなのに。わかっていたら、もうちょっと良いものをねだれたかな」
そう言って、自分でくすくす笑う鮫島。
笑い話のつもりらしい。
梨太は顔面の半分をひきつらせ、なんとか乾いた笑い声だけを漏らした。
梨太はよくわからないなりに酌をして、鮫島がそれを、唇にあてるのを眺めた。
バラ色の唇に透明な酒が含まれる。
彼は穏やかに酒を吸い、一口目は静かに、二口目でゆっくりと味わう。理由はわからないが、これは彼の飲食時のクセであるようだった。
「――うん、おいしい。白ブドウのワインに似ている。これは常温でもいいと思う」
そんなことを言う。
梨太は何となく、鮫島は極度の下戸だと思いこんでいた。三年前、こういった娯楽を団長は一切取らないというのが騎士団員の弁である。
そのことを話してみると、鮫島はツキダシに置かれた魚料理の小骨と格闘しながら、
「仕事上、断れない酒というのは多いものだ。はじめのうちは、ただ不味いが飲める、だったが、八年も飲んでいれば美味さを感じるようにはなる」
そう言って、二杯目を手酌しようとした。梨太は制してそれを担う。
「やっぱり、貴族の晩餐会みたいなんがあるの?」
梨太の酌を心配そうにみていた鮫島は首を振った。
「いや。年末年始だとか、団員の出入りや、冠婚葬祭」
「あら、なんだか普通。ラトキア騎士団もけっこうサラリーマンなんだ」
出汁巻き玉子の上にたっぷり乗った大根おろし。甘みの強い大根のようで、卵焼きと一緒に大口へ放り込むと口の中が幸せになる。
思わず頬がほころぶ梨太。
「給料のために働いているのは、どの世界、どの業界でも同じことだろう」
煮付けを飲み下して、そのように答える鮫島。
梨太はふと、酒の席で、うがったことを聞いてみたくなった。
自身が十六歳だった三年前には興味もなかったことを、様子をうかがいながら尋ねてみる。
「……騎士団のお給料ってどんなもん?」
鮫島は顔を上げた。
しばらく無言で料理をつつく――これは、いいあぐねているのではなく、ただ単に難しい質問だったようだ。とりあえず思いついたらしいことを言う。
「日割りにして、イルイド産の絹織物2キロぶんくらい」
「まったくわかりません」
「シバメットチョコレート30枚くらい」
「それカツ丼より高いの?」
「ドルム区のワンルーム家賃くらい」
「だからわかんないって」
ところかわればものの価値が変わる。その地域での貴重品が、別の地域ではゴミ同然に転がっていたりするものだ。ブランドものは誰が値段を決めるのだろう。
この日本、この地球上ででも、お金の話は難しい。
鮫島はかなり言葉を模索して、もそもそと回答してくれた。
「……一般平均の四割増しくらい」
「あ、そんなもんなんだ? 故郷を離れて命がけで戦うにしては安い気もするなあ」
梨太の正直なコメントに、鮫島は笑った。
「まったくだ。日当だけなら傭兵よりずっと安い。騎士団長になっても、一般騎士の三割増し程度だ。
まあそれでも、生活必需品の支給や税金免除だとか、福利厚生が手厚く、恵まれているのだろうけど」
「なるほどホントに公務員さんってかんじだねえ。ほうほう。じゃあまるごとアソビに使い放題? それはだいぶ贅沢が出来るね」
「その通りだが、既婚者となるとそうは言ってられないな。独身でも貯金をしておかないと結婚するときにもしたあとにも困る」
「……いやそこはほら、奥さんだって働いて――」
言いかけて――
梨太は口をつぐんだ。
向かい席に座る鮫島が目を丸くしていたのだ。
「……女が……妻が、働く?」
女性の姿をした騎士が、そんなことをつぶやく。
梨太はあれっと声を上げた。
「え? なに、だってラトキアのひとなんてみんな雌雄同体なんだから、日本よりもずっと当たり前のことなんじゃないの? 各家庭のやり方とか、個人の思想を否定する気はないけど」
梨太のせりふに、鮫島はまたびっくりして首を振る。
「ラトキアの女――周期的な雌体化ではなく、妻となり母となり、『女』として完成されたものは、働かない。……働くところが、ない」
「鯨さんは――」
「あれは例外中の例外だ。十八の若さで将軍となり、それで星帝に見初められた。婚姻し、ふつうはそれで退役するところを、後任がおらずそのまま継続している。星帝皇后は職業ではない。星帝が体を悪くしたため『とりあえず』仕事を代行しているだけで、本来、鯨はただの『女』だ」
鮫島は、上司であり実姉である鯨女史のことを素直に評することはできないらしい。やけにぶっきらぼうに言い捨てて、なんにせよ、と前置きをしてつなげる。
「ラトキアで、男と同じだけ働く既婚の女など十万人に一人もいない。よほどそのひとしかできない特殊な技能だとか、いわゆる芸能人とか――……芸能人とか。……そういうひと、だけだ」
そう言ったが最後、本気で黙り込んでしまった。
どうやら梨太の言葉は相当なカルチャーショックだったらしい。
彼の反応に、梨太もまたカルチャーショックを受けていた。
梨太はこれまで、このように考えていた。
ラトキア人は雌雄同体。誰しもが、父にも母にもなれる。男にも女にもなってしまう。ならば男が女がとお互いをなじるような差別意識はなく、両者が中性的で、人として惹かれあって婚姻し暮らしているようなイメージだった。
だがそれはまったくの誤解――実際は、間逆なのかもしれない。
地球上世界各国で聞こえる、性差廃絶の主張。この性に生まれてしまったことは仕方がない、だがそれゆえに押しつけられるのは不公平だ――そんな論調で、性からの解放を訴える者達。
しかしラトキア人にその言い訳は存在しない。彼らは自由に性別を選択できるのだ。
男になったのは自ら望んだこと。女になったのも自ら望んだこと。
ならばその性差を素直に受け入れて、男は力仕事をし家族を支えるために外にでる。女は男にかしずき家事と育児をし、どうしようもない理由がない限り子供を産む――
その概念そのものは道理である、と思えた。
しかしどうしても梨太には納得がいかない。
「でもそれだと、たとえば、旦那さんが死んだりとか、離婚したりしたらどうなるの? その旦那がサイテーな奴だったらどうしたらいいの?」
「…………」
鮫島は黙り込んだ。
梨太はさらに重ねる。
「雌体優位が強くって、ほぼほぼ女性として生まれてくる人もいるんでしょ。そのひとはどうやって暮らすの? いや、そりゃ結婚できればいいけども、好きな人と出会わなかったりとか、あるいはブサイ――誰にも見初められることがなかったら。その女性は……どうやって生きるの?」
梨太は徐々に言葉を納めていった。
「……鹿さんは、いまどんな暮らしを――」
鮫島が酒のグラスを持ったまま、その手の肌色を白くさせていたのを見て取って。
梨太は言葉をなくしたが、鮫島はほほえみ、穏やかな声で回答をくれた。
「……いろんな理由で、働くことができない人間には、国が衣食住を保護する制度がちゃんとある。決して贅沢はできないが、飢えて死ぬことはないはずだ。女の誰しもが望まぬ結婚を受け入れたり、法に触れる仕事をしているわけじゃない」
そう言って、彼は手酌でグラスを満たした。
なんとなく重い空気が落ちた。それを理解した鮫島は、一応、話題を変えようとしたらしかった。
珍しく彼のほうから話題を振ってくる。
「雌雄どちらのときも働ける技術職は強い。あの烏は、ラトキアで有数の資産家だぞ。軍からの給料だけでなく、開発した薬剤や兵器のノウハウに個人的に権利を持っていたからな」
「あー、こういうの理系は強いねえ」
「うん。そういうものは、指名手配中でも口座に送られていく。逮捕された時点で財産没収となるのだけど、市の年間予算並みの資産になっていて、鯨がラッキーなんて喜んでいた」
「うはは、それはひどい、実に鯨さんらしい」
梨太が笑うと、鮫島も明るい笑い声を上げた。
「今思えば、俺によくごはんを奢ってくれたのは分け前のつもりだったのかもしれない。礼を言って損をした。兵器の七割がたは俺が被検体で開発されたものなのに。わかっていたら、もうちょっと良いものをねだれたかな」
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