鮫島くんのおっぱい

とびらの

鮫島くんのおっぱい

 十月の半ばをすぎると、霞ヶ丘市の風は急速に冬の気色を帯びてきた。

 それでいて一瞬、夏のにおいを感じたりもする。天の高さなどよくわからないし、近くに馬もいないので、彼らが肥ったか痩せたかも知らない。無断で勝手に去ろうとしている秋に文句を付けたいが、どこにむかってクレームを入れたらいいのかわからない。

 梨太はポケットから金属板を取り出し、机に置いた。
 小さな、くじら型通信機。それはもう、二週間も音を立てていない。

「……この蚊帳の外感が、惑星間距離ってやつかいね」

 つぶやき、くじらくんを指先ではじいた。

「なんだそれ」

 同級生がいぶかしげに触ろうとするのを、ひっぱたいて止める。

 梨太はこの十日ばかり、暇さえあればこの通信機をつついていた。携帯電話としてつながるはずのそれはあちらからの一方通行で、梨太からラトキア人へかけることはできなかった。

 もしかしたらできるのかもしれないが、渡された当日から音信不通なので、具体的に使い方を聞いていなかったのである。
 ボタンらしいものもなくただツルリとした石鹸のようなそれを、どうすれば使用できるのか、梨太にはわからなかった。

 はあ、と嘆息。

 その向かいに座り、たたかれた手の甲を押さえながら男子生徒は苦笑い。

「栗ちゃん、ごくたまに部室きたと思ったらため息ばっかりでなにしにきたん」

「栗ちゃんやめれ。ごくたまってことないでしょー。二年生になってからもう三回目だよ」

「いま十月な。前二回きたのどっちも四月な。部長ら引退しちまったし一年坊全員お前みるの初めてだぞ。挨拶しろよ」

「全員って二人しかいないじゃん」

 そう言いながら、一応片手をあげて見せる。

「どーも、幽霊部員の栗林ですう。栗ちゃんって呼んやつジャイアントパンダデスロック」

「なんだよそれ栗ちゃん」

「マジやめろって。僕のキャラにそのアダナは警察沙汰だよ」

「それはお前の日常の方を改めろ」

 同級生と軽口をきく。適当に自己紹介だけされた下級生は、たったふたりの一年生部員で顔を見合わせた。

 パズル部の部室は、空き教室を半分に区切っただけの簡素な部屋である。中央に長テーブルを二つあわせ、パイプ椅子が雑に置かれた狭い部屋は、これ以上ないくらいに文化部なのにどことなく汗くさい。

「僕に文句があるなら、絶賛借りパク中のDVDいい加減返してよ。『街角ナンパシリーズ~銀座OL今夜だけビッチ』」

「タイトルを言うな。あとオレんちにあるのは『放課後女教師25歳~内緒の泣きぼくろ』だ」

「あれ、柴田だっけ? あいつ目的果たした後すぐ停止してそのまま返すから、抜き所がわかっちゃってなんか気分悪いの」

「オープニングからスタッフロールまで全部みるやつってお前くらいだろ」

「冒頭インタビューで同郷だったりするとグッとくるよね。あれなんでみんな飛ばすかなぁ」

「あ、あの……」

 えんえん続く男子の猥談を止めたのは、一年生の片割れである。ひょろりと背が高く、なで肩にめがねという気弱そうな姿は、いかにもジグソーパズルが好きそうなイメージと重なる。
 このパズル部はジグソーを組み上げる部活ではないのだが。

「く、栗林さん……ですよね。あの、ルソーの暗号パズルの作者って。ぼく、アレ、解きました」

「へえ。やるじゃん」

 梨太は顔を上げて笑いかけた。メガネ少年は頬を紅潮させ、

「難しかったけど、おもしろかったです。部活勧誘のチラシ、最初は数学科の友人がもらってきたけど解けないって匙投げて、でもぼく、暗号クイズは昔から好きで、得意だから」

「そういってもらえたら出題者冥利に尽きるよね。ありがとう。このパンスト破りフェチな先輩はまだ解けていないんだよ。コツとか教えてやって」

「ええまったく、すみませんねえ無類のお姉さんフェチの栗林先輩、全くお前は優秀だよ」

「お姉さんフェチじゃなくてロリ嫌いなの。僕の年だと年上になっちゃうだけで、二十代なんて世間様にはぜんぜんガール枠だろ」

 すぐにまた下な話になる先輩二人。困るしかない一年生を放置して、梨太はまた机に突っ伏した。
  
「ああー……二十歳の美女と夜通し舐めあいっこがしたいよう」

「こんなにも己の欲望に正直な思春期って本気で珍しいとおもうわ」

 同級生にベーッと舌を出し、梨太は力なくつぶれたまま、胸ポケットから畳んだ紙を取り出した。適当にテーブルに広げ、メガネ少年を手招きする。
 
「あのさ、メガネ君」

「はい。柳葉といいます」

「メガネバ君。君のその激しく卑猥な名前と暗号解読力をみこんで、ちょっと頼みがあるんだけど。この言語よみとくの手伝ってくれない?」

 言われて、メガネ少年は素直に紙をみた。
 ごく一般的なプリント用紙に、なにやら見たこともない記号のようなものが並んでいる。インクで手書きされた、几帳面そうな筆致で、二十文字ほど。

「なんですこれ?」

「……宇宙人の置き手紙。日本語かけねーくせに無理スンナの図」

「はあ。指輪物語のエルフ語的な設定ですか?」

「うん。そういう異人種の言語で、なにか意味のある文章が書かれてるはずなんだ」

「そんなあ。ノーヒントで解くなんて無理ですよ。せめてもっとサンプルがないと。文字数が少なすぎますよ」

「だよね。実は僕も挫折した。鮫島くんが勉強してたときもっとじっくりみとけばよかったなあ」

「鮫島くん?」

 同級生が反応する。

「鮫島って、三年の? なんか仲よかったんだっけ。辞めたんだろ?」

「そう。らしい。風の噂で。僕の知らないうちに」

「ケータイつながってねえの?」

「あちらからの一方通行なのさ……ウチを探せなくはないけど、さすがにね。そこまではね。男の人だしね。ホモじゃないしね」

 梨太はべちゃりと顔を伏せる。

「あー。鮫島くんを吸ってみたい……」

「ホモじゃねえか」

「ちがいます」

 きっぱり断言する。

 一年生たちが顔を見合わせ、クスクス笑った。黙っていた方、小柄でふくよかな少年が居心地悪そうに言ってくる。

「なんか、栗林さんてイメージちがうな。あの、成績の番付けと、顔だけ知ってたので。なんかこう……もっと、まじめな感じだと思ってました」

「見た目に騙されただろ」

 同級生がにやりと笑った。

「俺は中三から一緒だけどよ、初めて見た時はそりゃもう、何で女子が学ラン着てるんだろうっていう疑問しかなかったもんな。共学だったから」

「はいはい、男子便所にはいるたび誰かしらあとつけてくる奴がおりましたなあ」

 他人事のように、梨太。

「そういうことが多々あったから、あえて、下ネタ言うようになったんだよ。女子は女子で、勝手にひとを草食系小動物かなんかだと思い込んで、幻想押しつけてくるし。逆ナンパしといて触ろうとしたら、リタ君はそんな人だと思わなかったッてどういうことさ」

「……じゃあなにか、お前のそれは、わざとキャラ作ってんのか?」

「いや。ただ本性を余すとこなくそのまま公開しているだけ」

 一同は頭を抱えた。

 ごろりと、長机に頭を横たえて呻く。

「……まじめだよ。こうしたほうがいいと思ったことを実行するだけ。好きなものを好きって言って、何が悪いのさ。努力してどうにかなるものは、どうにかなるまでがんばる主義なの。
 ああ、もうちょっと糸口がほしいなあ。どうすれば鮫島くんとエッチなことができるのだろう」

「ホモじゃねえか」

「ちがうって」

 なぜか自信満々な梨太に、彼は結局、いつもの冗談だと受け取ることにした。

 クラスメイトからして、そこそこ長い付き合いである梨太は友人であり、いまだにつかみどころのないものでもあった。
 愛らしげなのは見た目だけ。悪い奴ではないと思うが、その言動は非常にクセがある。
 基本、社交的で穏和。クラスの大半と友達だ。言葉づかいは柔らかいがスパイスの効いたジョークの使い手であり、ときおりギクリとするほど痛烈なことも言う。
 見た目のような育ちのいいお坊っちゃんなどでは決してない。だからって、不良の仲間に入るようにも思えなかった。

「栗坊、お前、なんだってあのヤンキーと仲よかったの? 噂じゃ親戚つながりだってのも聞いたけど、ぜんぜんらしくねえしデマだろ?
 なにがキッカケにせよ、あんなのと連んでて怖くねえの?」

「……それな、むしろなんで怖いって言うのかのほうがわかんないよ」

 梨太は顔を上げ、後ろ頭をかきながらぼやいた。三人の男子高校生に視線をめぐらせて、

「そりゃあ、その気になれば僕なんて即死させられる、でたらめに強いひとなのは真実間違いないけど。……でも、たとえば毛を逆立てて牙むいてウーウー唸ってるチャウチャウと、穏やかに座ってる訓練されたゴールデンレトリーバーと、手を出して撫でてみろっつって危ないのはどっちだよ?」

「なんだそれ。鮫島さんは盲導犬か?」

「どちらかというと警察犬かなー。猟犬とか。シェパード、ドーベルマン? いや、良いよね。あの無駄吠えはしないけどやるときはやる職人感。職犬? プロフェッショナルなかんじ。それでいてゴハンの時間はしっぽ振って、そんなの可愛いに決まってんじゃん。たまんないよなあ」

「えっと、犬の話?」

「鮫さんの話。犬さんは、ちょっとチャウチャウってるんだよね。顔的にはポメかな。赤いし。嫌いじゃないけどあれは僕的に可愛くないの」

「………………」

「ああ…………鮫島くんを妊娠させてみたい……」

 もうどうしようもないので、三人は梨太を放置し、さっさと部活動へ戻っていった。

 メガネ少年は一応、梨太の出した暗号――鮫島からの手紙の解読を試みるつもりらしい。自分所定の席に腰掛け、メモを片手に凝視している。
 すっかり諦めた梨太からして、無駄だとは思うが、ここは必須授業ではなく部活動、それもただの同好会とか愛好会といった活動の弱小部だ。輝かしい高校三年間の放課後をパイプ椅子で尻を痺れさせながらひたすら暗号や迷路を解いて過ごそうという変態の集まりである。彼らは好きでやっているのだ。放って置いて問題はないだろう。

(……もしも解けたって、きっと大した内容じゃないしな)

 頬杖をついて半眼になる。

 鮫島が泊まっていった翌朝、人気のなくなったダイニングテーブルに、ぺんぎんの砂時計を重石にしてぺろりと一枚置かれた手紙。状況と文字数からして、「お世話になりました、帰ります」とか「カレーごちそうさま」とか、そういった挨拶だろう。捜査の進退に関わる重要なことであれば翌日にこのくじらくん携帯電話で連絡してきたはずだ。

 梨太は、状況理解をするのに優れ、冷静な判断力をもっていると自負があった。むやみな期待をいれずに考えれば、このメッセージを読み解く努力になんの価値もないと思える。

 だが――感覚が、それを否定する。鮫島は、馬鹿ではない。梨太にラトキア語を送っても、自分のメッセージが伝わらないのはわかっていたはずだ。それでもいいから書いた――どうでもいい内容だから伝わらなくてもいいと思ったのか。それとも――伝わらなくても良いから、自分の気持ちを書きたかった?

 なんの根拠もない。だが、梨太はそう考えている。これはただの期待でしかないけれど。

 夜、自分の体を簡単に持ち上げられた感覚を思い出す。なにか痛みを与えられたわけでは全くないが、彼が男であることを思い知った。鮫島は、自分が美青年であることを自覚もしている。女性にもてないわけはないだろう。腕力も、地位もあり、自分の足下を見据えて、その生を歩いている。

(……それこそホントに、僕が女の子になったらそりゃ近道なんだろうけどね)

 梨太は、ラトキアの民にはなれない。仮になれたとして、そうなりたくもない。梨太は、男性の鮫島と恋人になりたいわけではないのだから。

 さてどうやってあの男前を崩したもんかなぁと懊悩する。はあと嘆息。
 同級生が新作の知恵の輪と格闘している横で、おもいっきり、独り言をつぶやいた。


「……鮫島くんのおっぱい……」


 びびびびっ――耳障りな羽音。梨太はガバッと身を起こした。

 机の上に置いていたくじらくん三号が激しく振動し、空中にフワリと浮かび上がる。部員たちもぎょっとして振り返った。

 梨太は空中のくじらくんを手に取ると、抱きしめるように引き寄せる。そして、どこにあるのかわからないスピーカーから声がした。


「……リタか?」

「鮫島くん!!」


 同級生が目を丸くするのも放置して、梨太はちいさな金属板に話しかけた。

「ひっ、ひさしぶりっ。もしかしたら、もう、帰っちゃったのかと」

「今、おまえの家のそばにいる」

 鮫島の声は冷淡だった。だがその言葉はこれ以上なく梨太の胸を熱くさせる内容だった。

「いつ帰ってこれる? できれば今すぐ会いたい」

「十分で駆けつけますっ!」

「ありがとう。待ってる」

 短くいって、通信は切られた。

 梨太はポケットにくじらくんをつっこむと、机の上の筆記用具やお菓子を鞄に流し込み、挨拶もせずに部室を飛び出していく。
 その足音が全力疾走のそれである。同級生の彼が知るに、学校から栗林家までは通常歩いて二十分程度かかったはずだ。ずっと走っていくつもりらしい。

 風のように去っていった同級生と先輩とを視線だけで見送って、パズル部部員たちはそれぞれまた顔を見合わせた。

「……いまの、携帯電話? 鮫島さん、の、声?」

 首を傾げる。

「オレ、騎馬戦で大将やってたの遠目でしかみたことないけど。こんな、柔らかい声――なんだな」

「……むしろ、女のひと、みたいな」

「まあなんにせよ」

 男子高校生は着席した。

「イイなあ、さっきの台詞……」



 二週間前、ひとりで朝食をとりながら梨太は考えていた。
 テーブルに残されたメッセージは、まず間違いなく簡単な挨拶文。そして、それが高確率で「永遠にさよなら」を意味する言葉だろうと。

 鮫島たち騎士団一行は、地球に遊びにきているわけではない。またその出征は定められた期間的なものではなく、役目を果たし次第即引き上げる種のものだ。
 梨太はあの夜、ラスボスの居所を指摘した。それがもし正解だったとしたら、その瞬間あの日は決戦前夜。うまくいけば翌日に騎士団の仕事が終わることになる。

 結果を報告する、といったのは鯨だ。鮫島ではない。その連絡は将軍からくるか、騎士団長からくるか、いち騎士からになるか、確率は三分の一だった。
 くじらくんが震えたとき、梨太は胸を躍らせた。
 この籤を引き当てたとして、小一時間話ができるくらいが関の山だろう。それもまた梨太は理解していた。それでも嬉しかった。

 通いなれた通学路を、入学以来初めて全力疾走で駆け抜ける。

 走りながら手を伸ばせば、去りゆく秋も捕まえられそうな気がした。

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