クラウンクレイド

さたけまさたけ/茶竹抹茶竹

『21-2・Blood relative』

21-2

 まず初めに目に入ったのは白い天井だった。寝起きとも思えぬ程目が冴えていて、壁紙の亀裂だとかその微かな汚れだとかまで、ハッキリと視認出来た。ゆっくりと首を左右に回すと、自分の身体がベッドに寝かされているのだと分かった。シーツは白く、自分は薄い水色をした簡易な浴衣の様な物を着させられている。

 弘人は口を開き、声を出そうとした。掠れているが、確かに人の声が、文脈を成してはいないが意味を持つ言葉が、唇の隙間から漏れた。呻き声とは違う。
 酷い頭痛がして喉が渇いていた。左腕が痺れるように重たく、全身を虚脱感が襲う。

 何があったのか。それが一番に思い起こすべきことであったが、記憶は曖昧だった。誰かに抱き抱えられたような感覚がしたのが最後で、それ以前の事を思い起こそうとして、梨絵の顔が脳裏を過る。彼女の剥いた牙と白濁した瞳と、そして折れた首が。

 弘人の思考は、物音で途切れた。戸を引くような音がした。足音が続いて、弘人は必死に身を起こした。見えたのはベッドの周りを囲う白く不透明なカーテンであり、その隙間からこの部屋の様子が垣間見えた。病室らしき部屋であり、白一色の壁とベッドが並んでいる事以外何もない部屋であるという事である。シミの一つもないその光景は、何の生活感も感じられず、不気味ですらあった。足音は真っ直ぐ此方へ向かってきていて、カーテンの向こうで影を作った。弘人が身構える暇さえ与えずカーテンは直ぐに開く。

 立っていたのは30代程の眼鏡姿の女性であり、白衣姿をしていた。長めの髪を肩の辺りでゴムで纏めている。その姿に弘人は動揺した。

「姉さん……?」

 弘人の年の離れた姉である三奈瀬優子が其処にいた。
 優子は弘人とは一回り年の離れた姉である。医系技官として厚生労働省に入省し、後にWHOに就職、それを辞めた後、民間製薬会社であるシルムコ-ポレ-ションへと就職した。それが切っ掛けで地元に帰ってくるまで、弘人にとっては印象の薄い姉だった。それはその人間性であるというよりも、優子が世界を飛び回っていたからだった。弘人の幼い時の記憶では、姉はいつも先に行ってしまう人であった。自分がいつも置き去りにされてしまったような気がしていた。
 優子は引きずってきた座椅子をベッドの側に置くと、乱暴に腰掛ける。彼女の白衣姿と首から提げたIDカードを、弘人はまじまじと見つめていた。

「久しぶりだな、弟よ」
「なんで姉さんが、此処は何処なんだ」
「此処はシルムコーポレーションの研究所内だから」
「姉さんの働いてる会社ってことか」
「まぁとりあえず、大事な事から先にハッキリさせよう。君は感染していない」

 感染、と口を大きく動かしゆっくりといった。感染という言葉を知らない子供に、教える様な口ぶりだった。その言い方は、優子の癖の様に何度か聞き覚えがあった。優子の中に、弘人を未だ幼子であると思っている節があるせいだと分かっていた。

 感染していない。その一言は短く、しかし多くの情報を含んでいた。それは例えば弘人が今ゾンビになっていないという事であったし、今は包帯に隠されている左腕の怪我を治療したという事でもあったし、そして何より優子がゾンビというものを知っているという事でもあった。
 あまりにも意外な再会は、多くの質問を掘り起こし過ぎていて、弘人はそのどれをまず聞くべきであるのかが分からなかった。最後の記憶、つまり梨絵に噛まれたあと気を失った事と、今の状況の間にはあまりにも開きがあり、混乱の極みにあった。
 優子は語り出す。

「始まりは、もっとも私がこの問題を認識した意味でという事だが、始まりは数カ月前の事だ。中国南西部、インドとの国境近くで活動しているNGOが入手した血液サンプルが私の所に回ってきた。NGOからWHOに、WHOから国立感染症研究所に、そして研究所にいた大学時代の先輩から私の所に、というルートだった。新種のウイルス感染症の解析に協力してくれ、という名目でだ」

 弘人の動揺を無視してか、それとも気付かずにか、優子はそのまま言葉を続ける。まるで教鞭を振るう教師だった。

「新種のウイルス、発見者のイニシャルを取って仮にJMウイルスと呼ばれるそれは、過去に例を見ない特殊なウイルスだった。ヒトヒト感染し、感染率は80%以上、予防法も治療法も不明。
 そして何より特徴的なのはその症状だ。ウイルスは人間の中枢神経を破壊し、ホルモン分泌を狂わせる。それによって感染者は人間に対して異常な捕食衝動を引き起こし、周囲の人間に襲い掛かる。噛まれた人間は血液感染により、同様の行動を取り始める。人間を噛めば彼等の脳内は快楽物質で一杯になる、そんな仕組みでウイルスは血液感染を拡げるわけだ」

 まるでゾンビの様だね、と優子は付け加えた。それがジョークの「オチ」であるかのように楽しそうに。少なくとも今の話の中に、弘人が知っている事と知らないことが一つずつあった。知っている事はウイルスに感染した人がゾンビの様になる事。知らなかった事は、そのウイルスを姉が知っていたという事だ。口ぶりからして、この世界が地獄に変わる前に。

「姉さんは、パンデミックが起きる前から知ってたってことなのか」
「少なくとも血液サンプルの解析をしてはいたという事になるね」


「クラウンクレイド」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「SF」の人気作品

コメント

コメントを書く