わがまま娘はやんごとない!~年下の天才少女と謎を解いてたら、いつの間にか囲われてたんですけど~
二十二話「己が正義と戦いましょう」下
――
「皇都での日々は充実していたよ。
数名の部下とともに進めた研究は失敗ばかりだったが、少しずつ分かることが増えていくのが嬉しかった。
家に帰れば妻がいて、遅く生まれた娘は可愛かった。
私は間違いなく、彼らを愛していた。
しかし一方で、この国に蔓延っていた狂犬病という敵は、あまりに巨大だ。
あの病は、病犬に噛まれたら最後、どんな者であっても一年と持たずに死んでしまう。
いかなる薬草を煎じようが、どんなに手厚く手当を施そうが、狂犬病に侵されたなら必ず精神に異常をきたし、呼吸が止まった。
やはり、人が相手にするには大きすぎる。
狂犬病に対するその思いは、今でも変わってはいない。
だが私とて、ただ無為に時を過ごしていたわけではない。
費やした時間に比べればあまりに僅かだか、それでもいくつかの事実を発見することができた。
例えば、狂犬病に侵された者の脳は外側の色が濃い部分が薄層化し、色あせていた。
このことから、狂犬病は人の生存に必要不可欠な脳の構造を変化させ、その結果呼吸をする命令が出せなくなる仮説を立てた。
他にも、狂犬病にかかった犬に腕を噛まれたとしても、その腕をすぐさま切り落とせば死ぬことが無い。
あるいは首や顔など、脳に近い部位を噛まれると、手足の先を噛まれるより死期が近くなる傾向があることも判明した。
それに狂犬病は、人や犬だけでなく、猫、兎、蝙蝠などの動物にも罹ることが分かった。
すなわち、狂犬病は『動物に伝播する呪い』なのだ。
相変わらず治す方法は分からなかったが、それでも私は満足だった。
この調子で進めていけば、私には無理でも百年後、二百年後には治す方法が見つかるだろう。
そんな希望が、私や部下たちの原動力だった。しかし――」
皿江はそう言って、大きく息を吐く。
そしてそれが合図であったかのように、大粒の涙を流し始めた。
予想外の皿江の行動に、見ていた平間も壱子も表情をこわばらせる。
が、そんな二人が見えていないのか、皿江はとめどなく流れ出る涙を拭おうとさえしなかった。
皿江は壁沿いに隙間なく置かれた犬用の檻を眺めながら、静かに口を開いた。
「本当に些細なきっかけだった。閉め忘れたのだ」
「閉め忘れた……? 何を?」
平間が聞き返すと、皿江は何かに憑かれたかのような凄まじい速さで平間に顔を向ける。
その眼は今にも飛び出さんばかりに見開かれていて、そこから流れ続ける水流と共に、ある種の狂気すら感じさせた。
「檻の鍵だ。研究のために飼っていた病犬のな」
「それって……」
「私の部下で新人の男が、檻を開けた後、きちんと戸に鍵をしなかったのだ。中の犬は逃げ出し、部屋には三人の部下がいた」
皿江は大股で平間の方に歩いてくる。
その眼は左上方を向いていて、虚ろだった。
「病犬は二人に噛みついた後、最後の一人に襲い掛かった。結局その部下も噛まれたが、その男はあろうことか、自分が逃げるために部屋の戸を開けたのだ。そしてその先には、私を訪ねてきた妻と娘がいた」
「……まさか」
「狂犬病研究班で生き残ったのは、四人の部下のうち非番だったために噛まれずに済んだ一人と、別室にいた私だけ。死んだのは、部下が三人、運悪くその場に居合わせた薬学術院の院生が五人、勇敢にも犬を取り押さえようとした警備の兵、そして、ああ、そして――」
平間の目の前に、皿江の皺だらけになった顔が接近する。
焦点の合わぬ眼から流れ出る涙が、皺の間に入り込んでいく。
その様子が、平間には妙に新鮮に見えた。
「たった一つの不注意から起きたその事故は、十人もの人間を死に追いやった。それだけでなく、私の職と家族までも奪ったのだ。平間殿、答えられるのなら教えてくれ」
吐息と、そこに含まれる生々しい臭いが、平間の顔に衝突する。
「妻と娘の罪とは、なんだ?」
乾いた声帯を搾り出すようにして出た声に、平間はただただ首を振ることしかできなかった。
命を研究のために利用したから?
それとも、一生物に過ぎない人間が、人知の及ばぬ病という敵に挑んだからか?
どちらも違う。
平間が思い浮かべるような、そんな取って付けたような理由では説明できない。
いや、平間でなくとも答えられるはずはないのだ。
そんな罪など、ありはしないのだから。
平間が答えに窮していると、壱子が静かに口を開く。
「その問いが、皿江殿、貴方にとっての『答えの出ぬ問い』なのか」
壱子の問いかけに、皿江は沈黙を以て肯定した。
すると壱子は、ぞっとするような冷たい声音で言う。
「それが、沙和を殺した動機というわけじゃな」
「殺した……? 違う、私は彼女を殺してなどいない」
「今更言い逃れを!」
いきり立つ壱子に、皿江は呆れたように首を振る。
「そういう意味ではない」
「ではどういう意味じゃ? よもや、殺したのは狂犬病だとでも言うつもりか!?」
「違う。私はむしろ『生かした』のだ。ならば聞くが、研究所に連れてこられた囚人らが生きた意味は、どこにある?」
「……?」
「彼らが生きた意味は、これだ」
そう言って、皿江は部屋の片隅にある紙束を取り上げた。
文字がびっしりと書き込まれたそれは、どうやらここで得られた実験結果らしい。
平間は眉をひそめて、
「そんなものが生きる意味だと?」
「そんなもの? そんなものとは何だ。この結果一つ一つが、新たな事実を明らかにする糧となる。無為に死ぬよりもずっと有意義だと――」
「貴様、それ以上言うと私は許さぬぞ」
皿江の言葉をさえぎって、壱子は鋭い視線で睨みつける。
その威容は、一切の反論を許さないものだ。
あまりの剣幕に、皿江は諦めたように肩をすくめた。
「……分からねばそれでいい」
「分かっているから言うのじゃ」
「……相容れぬな」
「容れてたまるか。つまるところ、貴方は取ってしまったのじゃろう? 観察結果を、自身の妻と娘から……!」
その言葉に、伏せ目がちだった皿江の双眸が、ぐるりと壱子の方を向く。
確実に狂気を孕んだその視線に、しかし壱子は全くひるまない。
「初めはほんの出来心だったのかも知れぬ。しかし、いずれにせよ貴方は自分の妻子を実験台としたのじゃ。超えてはならぬ一線を越えた!」
「……黙れ」
「偶発的に実験台となった妻子を看取った後、貴方は後悔したはずじゃ。彼らの最期の瞬間、貴方は人ではなく、好奇心に駆られた研究の鬼となっていたのだから」
「黙れと、言っている」
搾り出すような声を、壱子は無視した。
「しかし気付いた時にはもう後戻りできなかった。ただ素直に親しい者の死を受け入れれば良かったものを、貴方は研究の一材料にしてしまった。
そうなってしまえば転がり落ちるのは早い。『なぜ人は対等ではないのか』という問いは、すなわち『なぜ妻と娘は事故で死んだのか』というものに変貌したのじゃ。
そしてその答えは『狂犬病の研究のために死んだ』というものだけしかあり得ぬ」
「黙れ!!」
年老いて乾いた声帯を震わせ、皿江は壱子に最大限の威嚇をする。
しかし、壱子はそれをたったの一瞥で返した。
その壱子の視線たるや凄まじく、逆に威嚇を試みた皿江が怯み、その痩せた身体をさらに小さくする。
「私は復讐する」と言った壱子の声が、平間の頭の中で反響した。
壱子はさらに続ける。
「妻子の死を人体実験という形で受け入れた貴方は、この村にやってきた後、迷うことなく囚人を用いて実験を行った。その建前は狂犬病を解明し人々を救うことであったのじゃろうが、本当は二人の死を正当化したかったのじゃろう?」
「……」
「これこそ呪いじゃ。狂犬病は大きすぎる敵で、恐らく死ぬまで敵わぬじゃろう。貴方はそれを分かっていながらも、なおも絶望的な戦いを続けざるを得なかった。そしてその戦場であるこの村は、何としても守らねばならなかった。それこそ、どんな手段を使ってもじゃ。違うか」
「……」
「結局、貴方は自分の過ちを正当化するために沙和を殺したに過ぎぬ」
壱子の言葉は、どこまでも正しかった。
正しかったゆえに、その言葉には微塵の優しさも無い。
皿江が反論する余地も無い。
ただひたすらに、事実を真正面からぶつけるだけ。
その行為は、紛れもなく暴力だ。
「……ならば」
「ん?」
「ならば私は、私はどうすれば良かったのだ? ただ彼らへの想いと後悔を胸に抱きながら、黙って死んで行けとでも言うのか」
「そうじゃ。黙って死んでゆけ」
「ふざけるな!」
「ふざけてなどおらぬ!!」
目に涙を溜めて皿江を睨む壱子は、そっと俯き、声を震わせる。
「……ふざけてなど、おらぬ。そうする他に無かったのじゃ。
分かっておるじゃろう、貴方は満たされておらぬではないか。
事故の責任を取って薬学術院を追われたのち、ここで実験を続けて何になった?
犬や兎だけではなく、人間まで使って、実験結果を集めて、何か変わったのか?
すがりつく場所を守るために、己が妻子と同じく罪もない沙和の命を奪って、誰かが救われたのか?」
「壱子、もう十分だ。これ以上言う必要は無い」
「すまぬが平間、これは私のわがままじゃ」
思わず言葉をさえぎった平間を見向きもせず、壱子はぴしゃりと言い放つ。
そこにはやはり、どこにもつけ入る隙が無い。
「皿江殿、人のためだと自分に言い聞かせても、貴方がしたことは、大穴の空いた心の杯を誰かの血で必死に満たそうとしていただけじゃ」
壱子は淡々と、その言葉で老人の痩せた身体を突き刺していく。
一つ、また一つと貫かれるたびに、皿江はゆっくりと地面に膝をついた。
「本当は分かっておったのじゃろう? 破れたその杯はもう、永遠に満たされることは無いと。だから貴方は、黙って死ぬしかなかったのじゃ」
慈愛に満ちた、しかしもっとも残酷な言葉。
老人は地面にすがりつき、声にならぬ嗚咽を漏らした。
――
勝未村のヌエビト事件を解決して、平間と壱子は隕鉄と共に、沙和の亡骸を皇都へと運び、埋葬した。
決して大きくはなかったが、事の顛末を聞いた梅乃が皇都の隅にある墓所に沙和の墓を立てた。
沙和の埋葬を見届けた壱子はひどく落ち込んだ様子で、平間に簡単な別れの言葉を残しただけで、梅乃と共に佐田氏の屋敷に戻っていった。
それから三ヶ月。
平間は幾度となく壱子との面会を求めて屋敷の門を叩いたが、面会が許されることは無かった。
それどころか彼女が屋敷から出る様子すらなく、平間には壱子が生きているのか死んでいるのかすら分からない状態が続いていた。
「皇都での日々は充実していたよ。
数名の部下とともに進めた研究は失敗ばかりだったが、少しずつ分かることが増えていくのが嬉しかった。
家に帰れば妻がいて、遅く生まれた娘は可愛かった。
私は間違いなく、彼らを愛していた。
しかし一方で、この国に蔓延っていた狂犬病という敵は、あまりに巨大だ。
あの病は、病犬に噛まれたら最後、どんな者であっても一年と持たずに死んでしまう。
いかなる薬草を煎じようが、どんなに手厚く手当を施そうが、狂犬病に侵されたなら必ず精神に異常をきたし、呼吸が止まった。
やはり、人が相手にするには大きすぎる。
狂犬病に対するその思いは、今でも変わってはいない。
だが私とて、ただ無為に時を過ごしていたわけではない。
費やした時間に比べればあまりに僅かだか、それでもいくつかの事実を発見することができた。
例えば、狂犬病に侵された者の脳は外側の色が濃い部分が薄層化し、色あせていた。
このことから、狂犬病は人の生存に必要不可欠な脳の構造を変化させ、その結果呼吸をする命令が出せなくなる仮説を立てた。
他にも、狂犬病にかかった犬に腕を噛まれたとしても、その腕をすぐさま切り落とせば死ぬことが無い。
あるいは首や顔など、脳に近い部位を噛まれると、手足の先を噛まれるより死期が近くなる傾向があることも判明した。
それに狂犬病は、人や犬だけでなく、猫、兎、蝙蝠などの動物にも罹ることが分かった。
すなわち、狂犬病は『動物に伝播する呪い』なのだ。
相変わらず治す方法は分からなかったが、それでも私は満足だった。
この調子で進めていけば、私には無理でも百年後、二百年後には治す方法が見つかるだろう。
そんな希望が、私や部下たちの原動力だった。しかし――」
皿江はそう言って、大きく息を吐く。
そしてそれが合図であったかのように、大粒の涙を流し始めた。
予想外の皿江の行動に、見ていた平間も壱子も表情をこわばらせる。
が、そんな二人が見えていないのか、皿江はとめどなく流れ出る涙を拭おうとさえしなかった。
皿江は壁沿いに隙間なく置かれた犬用の檻を眺めながら、静かに口を開いた。
「本当に些細なきっかけだった。閉め忘れたのだ」
「閉め忘れた……? 何を?」
平間が聞き返すと、皿江は何かに憑かれたかのような凄まじい速さで平間に顔を向ける。
その眼は今にも飛び出さんばかりに見開かれていて、そこから流れ続ける水流と共に、ある種の狂気すら感じさせた。
「檻の鍵だ。研究のために飼っていた病犬のな」
「それって……」
「私の部下で新人の男が、檻を開けた後、きちんと戸に鍵をしなかったのだ。中の犬は逃げ出し、部屋には三人の部下がいた」
皿江は大股で平間の方に歩いてくる。
その眼は左上方を向いていて、虚ろだった。
「病犬は二人に噛みついた後、最後の一人に襲い掛かった。結局その部下も噛まれたが、その男はあろうことか、自分が逃げるために部屋の戸を開けたのだ。そしてその先には、私を訪ねてきた妻と娘がいた」
「……まさか」
「狂犬病研究班で生き残ったのは、四人の部下のうち非番だったために噛まれずに済んだ一人と、別室にいた私だけ。死んだのは、部下が三人、運悪くその場に居合わせた薬学術院の院生が五人、勇敢にも犬を取り押さえようとした警備の兵、そして、ああ、そして――」
平間の目の前に、皿江の皺だらけになった顔が接近する。
焦点の合わぬ眼から流れ出る涙が、皺の間に入り込んでいく。
その様子が、平間には妙に新鮮に見えた。
「たった一つの不注意から起きたその事故は、十人もの人間を死に追いやった。それだけでなく、私の職と家族までも奪ったのだ。平間殿、答えられるのなら教えてくれ」
吐息と、そこに含まれる生々しい臭いが、平間の顔に衝突する。
「妻と娘の罪とは、なんだ?」
乾いた声帯を搾り出すようにして出た声に、平間はただただ首を振ることしかできなかった。
命を研究のために利用したから?
それとも、一生物に過ぎない人間が、人知の及ばぬ病という敵に挑んだからか?
どちらも違う。
平間が思い浮かべるような、そんな取って付けたような理由では説明できない。
いや、平間でなくとも答えられるはずはないのだ。
そんな罪など、ありはしないのだから。
平間が答えに窮していると、壱子が静かに口を開く。
「その問いが、皿江殿、貴方にとっての『答えの出ぬ問い』なのか」
壱子の問いかけに、皿江は沈黙を以て肯定した。
すると壱子は、ぞっとするような冷たい声音で言う。
「それが、沙和を殺した動機というわけじゃな」
「殺した……? 違う、私は彼女を殺してなどいない」
「今更言い逃れを!」
いきり立つ壱子に、皿江は呆れたように首を振る。
「そういう意味ではない」
「ではどういう意味じゃ? よもや、殺したのは狂犬病だとでも言うつもりか!?」
「違う。私はむしろ『生かした』のだ。ならば聞くが、研究所に連れてこられた囚人らが生きた意味は、どこにある?」
「……?」
「彼らが生きた意味は、これだ」
そう言って、皿江は部屋の片隅にある紙束を取り上げた。
文字がびっしりと書き込まれたそれは、どうやらここで得られた実験結果らしい。
平間は眉をひそめて、
「そんなものが生きる意味だと?」
「そんなもの? そんなものとは何だ。この結果一つ一つが、新たな事実を明らかにする糧となる。無為に死ぬよりもずっと有意義だと――」
「貴様、それ以上言うと私は許さぬぞ」
皿江の言葉をさえぎって、壱子は鋭い視線で睨みつける。
その威容は、一切の反論を許さないものだ。
あまりの剣幕に、皿江は諦めたように肩をすくめた。
「……分からねばそれでいい」
「分かっているから言うのじゃ」
「……相容れぬな」
「容れてたまるか。つまるところ、貴方は取ってしまったのじゃろう? 観察結果を、自身の妻と娘から……!」
その言葉に、伏せ目がちだった皿江の双眸が、ぐるりと壱子の方を向く。
確実に狂気を孕んだその視線に、しかし壱子は全くひるまない。
「初めはほんの出来心だったのかも知れぬ。しかし、いずれにせよ貴方は自分の妻子を実験台としたのじゃ。超えてはならぬ一線を越えた!」
「……黙れ」
「偶発的に実験台となった妻子を看取った後、貴方は後悔したはずじゃ。彼らの最期の瞬間、貴方は人ではなく、好奇心に駆られた研究の鬼となっていたのだから」
「黙れと、言っている」
搾り出すような声を、壱子は無視した。
「しかし気付いた時にはもう後戻りできなかった。ただ素直に親しい者の死を受け入れれば良かったものを、貴方は研究の一材料にしてしまった。
そうなってしまえば転がり落ちるのは早い。『なぜ人は対等ではないのか』という問いは、すなわち『なぜ妻と娘は事故で死んだのか』というものに変貌したのじゃ。
そしてその答えは『狂犬病の研究のために死んだ』というものだけしかあり得ぬ」
「黙れ!!」
年老いて乾いた声帯を震わせ、皿江は壱子に最大限の威嚇をする。
しかし、壱子はそれをたったの一瞥で返した。
その壱子の視線たるや凄まじく、逆に威嚇を試みた皿江が怯み、その痩せた身体をさらに小さくする。
「私は復讐する」と言った壱子の声が、平間の頭の中で反響した。
壱子はさらに続ける。
「妻子の死を人体実験という形で受け入れた貴方は、この村にやってきた後、迷うことなく囚人を用いて実験を行った。その建前は狂犬病を解明し人々を救うことであったのじゃろうが、本当は二人の死を正当化したかったのじゃろう?」
「……」
「これこそ呪いじゃ。狂犬病は大きすぎる敵で、恐らく死ぬまで敵わぬじゃろう。貴方はそれを分かっていながらも、なおも絶望的な戦いを続けざるを得なかった。そしてその戦場であるこの村は、何としても守らねばならなかった。それこそ、どんな手段を使ってもじゃ。違うか」
「……」
「結局、貴方は自分の過ちを正当化するために沙和を殺したに過ぎぬ」
壱子の言葉は、どこまでも正しかった。
正しかったゆえに、その言葉には微塵の優しさも無い。
皿江が反論する余地も無い。
ただひたすらに、事実を真正面からぶつけるだけ。
その行為は、紛れもなく暴力だ。
「……ならば」
「ん?」
「ならば私は、私はどうすれば良かったのだ? ただ彼らへの想いと後悔を胸に抱きながら、黙って死んで行けとでも言うのか」
「そうじゃ。黙って死んでゆけ」
「ふざけるな!」
「ふざけてなどおらぬ!!」
目に涙を溜めて皿江を睨む壱子は、そっと俯き、声を震わせる。
「……ふざけてなど、おらぬ。そうする他に無かったのじゃ。
分かっておるじゃろう、貴方は満たされておらぬではないか。
事故の責任を取って薬学術院を追われたのち、ここで実験を続けて何になった?
犬や兎だけではなく、人間まで使って、実験結果を集めて、何か変わったのか?
すがりつく場所を守るために、己が妻子と同じく罪もない沙和の命を奪って、誰かが救われたのか?」
「壱子、もう十分だ。これ以上言う必要は無い」
「すまぬが平間、これは私のわがままじゃ」
思わず言葉をさえぎった平間を見向きもせず、壱子はぴしゃりと言い放つ。
そこにはやはり、どこにもつけ入る隙が無い。
「皿江殿、人のためだと自分に言い聞かせても、貴方がしたことは、大穴の空いた心の杯を誰かの血で必死に満たそうとしていただけじゃ」
壱子は淡々と、その言葉で老人の痩せた身体を突き刺していく。
一つ、また一つと貫かれるたびに、皿江はゆっくりと地面に膝をついた。
「本当は分かっておったのじゃろう? 破れたその杯はもう、永遠に満たされることは無いと。だから貴方は、黙って死ぬしかなかったのじゃ」
慈愛に満ちた、しかしもっとも残酷な言葉。
老人は地面にすがりつき、声にならぬ嗚咽を漏らした。
――
勝未村のヌエビト事件を解決して、平間と壱子は隕鉄と共に、沙和の亡骸を皇都へと運び、埋葬した。
決して大きくはなかったが、事の顛末を聞いた梅乃が皇都の隅にある墓所に沙和の墓を立てた。
沙和の埋葬を見届けた壱子はひどく落ち込んだ様子で、平間に簡単な別れの言葉を残しただけで、梅乃と共に佐田氏の屋敷に戻っていった。
それから三ヶ月。
平間は幾度となく壱子との面会を求めて屋敷の門を叩いたが、面会が許されることは無かった。
それどころか彼女が屋敷から出る様子すらなく、平間には壱子が生きているのか死んでいるのかすら分からない状態が続いていた。
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