瀬戸際の証明、囚われたジャンキー

些稚絃羽

8.久留米の動機

「どうされたの!?」

 アトリエに入るとその音を聞いてキッチンから二人が出てくる。そして僕達の様子を見ると、久留米が声を上げる。僕はソファまで進んでそこに柴山を座らせた。身体をソファに預けた柴山は、サングラスの上から右目を覆うように手を添えると、大したことはないんだ、と首を振った。

「ちょっと立ち眩みがしただけだ」
「その探偵の質問に気分が悪くなったんなら、そう言った方がいいんじゃねぇの?」

 田浦が言う。僕が視線を向けると、自分は言ってないとでもいうように目を逸らす。さっき縋りついて震えていた奴とは思えない。頼んだ、と言ったのはどこの誰だ。
 久留米が足音を響かせながら、キッチンから水を持ってやってくる。

「お水です」
「あぁ、ありがとう」

 そっと手を伸ばした柴山がグラスを受け取る。少し零れそうだったが持ちこたえた。
 終始冷静に答えていたし最期は寧ろ自分から話してくれていたが、どうだろう。あれで気分が悪くなったと言われてしまえばこれ以上調べるのは難しいかもしれない。
 心配する気持ちとそうした不安を抱えて見つめていると、水を一口飲んだ柴山が顔を上げる。

「私のことは気にしなくていい。なつ子さん、次は貴女の番だ」
「えぇ、でも」
「こうしていればじきに治る」

 そう言って僕を見上げる。サングラスで表情はあまり分からないが、行くよう促しているのだと思う。本人がいいと言っているのだから従わない訳にはいかない。久留米に、お願いします、と声を掛ける。

「ちょっと待て」

 歩き出したところで田浦の声に呼び止められて振り返る。近付いてきた田浦は僕の腕を取るとあとの二人と距離を取るように隅へと引っ張っていく。一体この男は何がしたいんだ。
 何なんですか、と問うと田浦は後ろを気にするような素振りをしてから、声を抑えて言った。

「おっさんの仕事って何だった?」

 意味が分からない質問をされてぽかんとしてしまう。

「何でそんなこと聞くんですか?」
「気になっただけだ。頻繁にここに来てるみたいだし、仕事の話とかも聞かないし」
「自分で聞けばいいんじゃないですか?」
「前に聞いてはぐらかされたからお前に聞いてんだよ。探偵になら正直に言うと思って」

 そういえば今は無職とだけ聞いたが、その前にしていた仕事の話は聞かなかったことに気付く。まぁ、それを知ったからといって何が変わる訳でもないから、今更聞こうとも思わないが。
 興味本位で聞こうとしている田浦にはっきりと、守秘義務があるので、と答えて歩き出すと背後から舌打ちが聞こえた。行儀の悪い男だ。

 久留米を連れて外に出る。空は晴れ間が覗き、更に気温が上がる予感がした。


 部屋に入るとベッドの枕元に備え付けられたデジタル時計を確認する。気が付けばもう一時を過ぎていた。衝撃や緊張で空腹も忘れていたようだ。
 これまで通りベッドに座ってもらうと、質問を始める。

「年齢……女性に聞かない方がいいですね」
「別に構いませんよ。今年で五〇になりますの」

 意外なほどあっさりと答えられてこちらの方がどぎまぎしてしまう。それにしても五〇とは。柴山と並んでいたせいかもっと若いと思っていた。聞いたからにはメモしておこう。

「人物画を描かれているということでしたね。因みにいつ頃から画家として絵を描いておられるんですか?」

 本当はすぐにでも柴山から聞いたことを確認したかったが、明らかに疑っているようで気が引けた。もっと他愛もない会話から始めて、聞き出せる体制を整えなくてはいけない。
 僕の質問に少し考えるような仕草をした久留米が口を開く。

「描き始めたのは、二十数年前というところかしら。
 画家、と言ってもそちらではまだまだ無名なのですよ。史さんはああして褒めてくださいますけどね。殆ど趣味みたいなものです」
「ですが、そうなると生活は……?」

 失礼だとは思いつつ気になって聞いてみる。

「絵葉書に載せるイラストを描くのが主ですわ。
 一時期路上で似顔絵を描いていた時に、私の絵を気に入ってくださる方がいらしてね」

 画家は不安定で順風満帆にはいかない、と北川さんも言っていたが本当らしい。それだけで食べていくのはかなり厳しい世界のようだ。淑女の代表のような彼女が路上で似顔絵を描いていたというのだから、相当なものだろう。
 暫くその仕事について彼女が話すままに聞いていた。その様子は友人を――或いは想い人を――亡くしたばかりだというのにやけに明るすぎたが、そうして考えないようにしているようにも思えた。

 誰も犯人でないと考えるのも簡単だが、疑おうと思えばこちらも簡単に疑える。正反対の思考がこんなにも紙一重だと思ったことは一度ない。何を信じて疑えばいいのか、どんどん分からなくなる。

 やがて話しきったらしい久留米が、話しすぎてしまいましたね、と恥ずかしそうに口を噤む。
 こうして笑顔を見せてくれるようになった女性を、自分はこれから落ち込ませてしまうのだと思うと次の話を切り出すのが少し怖くなる。

「……そんなに気を遣わなくてもいいですわ」

 一言目を思案していた僕に久留米が言う。

「さっき取り乱してしまったせいですね。でももう大丈夫です。今は北川さんが亡くなった理由を知りたい気持ちの方が大きいんですの」

 僕は言葉が出なかった。彼女の方が僕に気を遣おうとしているその優しさも、奏さんから北川さんに呼び名を変えた健気さも、久留米なつ子という女性を如実に物語っていた。
 ありがとう、でも何でも良かった。彼女に言葉を掛けたかった。
 しかし僕は言葉が出なかった。目の前の女性が気丈な言葉を出しながら、大粒の涙をとめどなく流していたのだから。

「あ、嫌だ、ごめんなさい……どうして。もう、大丈夫だって思ったのに」

 じっと見られてやっと異変を感じ取り、頬に触れた手が濡れたことに戸惑う久留米。ハンドバッグからハンカチを取り出して目元を抑える。その下から覗く唇が無理に弧を描く。

「こんなに歳を重ねたのに、どうして強くなれないのかしら。まだまだ大人になり切れなくて、駄目ね」
「……強くなんてならなくていいじゃないですか」

 気が付けば言葉が飛び出していた。考える間もなく僕の声が久留米に語りかける。

「大切な人を失うことに強くなるなんて、寂しいだけじゃないですか。
 悲しいものを悲しいと思えないことが強さですか? それが大人?
 違う。そうじゃない。……その涙は、彼を大切に思った証拠でしょう?」

 何が言いたいのか自分でもよく分からなくなって、伝わっているのかも分からなくて。ただ、泣いていいんだって伝えたくて。
 胸が震える。どうしようもなく泣きたくなった。ひどく感情的で感傷的になった僕は頭の隅で、僕には泣いてくれる人が居るのか、なんてどうでもいいことさえ考えてしまう。

「……ありがとう。あり、がとう」

 嗚咽を漏らしながら繰り返し、ありがとう、と零す姿が目に痛い。釣られて涙しないようにつるりとした天井を見つめた。


 都合よく、イヤホンから音がした。神経をそちらに集中させる。

<なぁ>
<何だ?>

 田浦が柴山に話し掛けたようだ。田浦は言葉を探すように、あー、えー、と呟く。柴山は黙ったまま次の言葉を待っていた。

<お、おっさんって何の仕事してんの?>

 結局自分で聞くことにしたらしい。そこまでして知りたかったのか。どうも緊張感がないように思えるが、彼等も久留米のように気持ちを押し殺しているのかもしれない。無闇に不謹慎だとは言えなかった。僕だって同じようなものだったから。

<どうしてそんなことを?>
<何となくだよ。それくらい教えてくれたっていいじゃん。探偵には話したんだろ?>
<……無職だと言っただけだ>

 ほら、すんなりと答えてくれるじゃないか。

<え、無職なの?>

 驚いた様子の田浦に堅い声が、そうだ、と返す。答えを聞いて懲りたかと思いきや、田浦はまだ話を終える気はなさそうだ。

<前は? 前は何やってた?>
<こんな話面白くないだろう。どうしてそんなに聞きたがる?>

 聞いていて確かに疑問に思った。北川さんにしか興味がないのかと思っていたが、そこまで知りたがるのにはどんな理由があるのだろう。
 部屋には久留米の小さな咳が響いた。

<……北川さんが>
<北川が?>
<北川さんが言ったんだ。君は僕より柴山を見るべきだって>

 どうして彼はそう言ったのだろう。自分から遠ざけるため? 彼が自分のために友人を使うような真似をするだろうか。僕には考えられなかった。

<何でか分かんねぇけど、そう言われたから。だから、まぁ、こういうことから聞いていったらいいのかなって>

 正直的外れな気がする。柴山を見るべきだと言われたなら、普通は日頃の行動や考え方を知ろうとする方が無難ではないだろうか。仕事や過去を知っても大した益は得られないと思う。
 少しの間、どちらも黙っていた。柴山は何をどう答えるか選んでいたのだろうし、田浦は柴山の返答を待っていたのだろう。やがて長い吐息の音が耳に届いた。

<……以前は絵を描いていた>
<え、おっさんも?>

 さっきはそんな話、出てこなかった。言う必要がなかったからか、意図的に黙っていたのか。

<でも才能は彼の方が断然上だった。私を見るようにと言ったのはただの気まぐれだろう>

 君は北川を目標にしているべきだ、と柴山が告げたことで二人の会話は終わったらしかった。再び沈黙が広がる。

 北川さんにとっては柴山の背を追っていたのかもしれない。柴山は気まぐれだと言ったが、やはりどうしてもそこには意味があったように思う。
 自身にある良さは、時に他人にしか分からない場合がある。柴山は北川さんの隣に居て自分にないものばかりを見ていたが、北川さんは確かに柴山の良さを感じ取っていた筈だ。だから二人は二十年も一緒に居られた。きっとそういうことなんだ。



「探偵さん、お待たせしてごめんなさい。今度こそ大丈夫ですわ」

 涙は綺麗に拭われて、すっかり化粧の落ち切った顔が小さく微笑みを浮かべる。久留米の努力に報いるためにも、敢えて気は遣わないことにする。
 ポケットから取り出した写真を見て、久留米は嬉しそうに目を細めた。聞くと出会ったその日に撮ったのだと言う。

「暫くお話をして、記念に写真を撮りましょうと言われましたわ。私だけを撮ろうとするので、恥ずかしいから一緒にと言ってこうして二人で写りましたの」

 アトリエに飾っている、と話した久留米は、本当に幸せそうな表情をしていた。

「貴女は北川さんに、特別な感情をお持ちでしたか?」

 柴山が使っていたように、特別な感情という言葉を出した。相手は親くらい歳の離れた女性。言葉にだけは十分に気を配っておかなくては。
 一頻り泣いたあとの久留米は幾らか清々しい表情をしている。史さんが言ったのね、と拗ねるような態度を見せられるくらいまで落ち着いてきたようだ。

「そうですわね。あの日出会った瞬間から、私はあの人に惹かれていた」

 静かに、思いを馳せるように、久留米はそう言葉にした。

「一目惚れではないの。……ただ、あの人の全てが愛しかった。
 こんなにも焦がれるように誰かを想ったのは、生まれて初めてだった」

 膝に乗せた帽子のつばを撫でる。その手付きは赤ちゃんの頭を撫でるように優しく、遠くへ向けた瞳もまた慈愛に満ちた色をしていた。しかしどこか切なげで、壊れてしまいそうな脆さもあった。

「あの人の気持ちが私に向いていないことくらい分かっていたの。それでも愛さずにはいられなかった。
 傍に居たいと願ってしまったの。彼の、拒まない優しさに付け込んでね」

 口調がいつしか変わっていた。貴婦人から少女へと帰っていくように。彼女は自身の狡さもよく理解していたけれど、その様は熱烈に恋焦がれた少女のようだった。――ひたすらに彼を愛していた。
 瞼が震える。その顔にほんの少し影が差す。俯いた瞳にはきっと表情を崩さない彼の姿が映っている。僕はただ、彼女の言葉を待っていた。

「想いを口にしなければ良かった。言わなければ多分、もっと笑ってくれた。
 だけどどうしても……想いが溢れて止められなかった。そうしたら、あの人ね」

 ――僕はもう、誰かを愛すことはない。心は全て、尊敬する人に捧げたから。
 そう答えたと久留米は言った。
 他にはもう誰も愛さないと誓うほど、彼も誰かを愛していた。尊敬する相手に捧げたその心は、揺るぎなくそこにあり続けた。その言葉はとても、真っ直ぐな彼らしいと思えてしまった。

「そんな人が居るのに優しくするなんて、嫌な人。いっそ突っぱねてくれたら良かったのに。
 ……でもそんな人なら、こんなに愛したりしなかった」

 そう言って見せた笑顔が、目を見張るほどに美しかった。彼を愛したことが幸せだったと語るように、彼女は笑っていた。愛憎の末の犯行を想像したのが馬鹿馬鹿しくなるくらい純粋な笑顔が、僕に向けられていた。
 彼女は、犯人じゃない。直感だ。久留米なつ子は違う。
 殺害方法の疑問点もあったが、その表情がそれを裏付けた。演技になんて見えなかった。

「殺されると分かっていてそれを待つ気持ちって、どんなものなのかしら」

 誰に言うでもなく独り言のように呟く。最初に僕が考えたことだ。もう一度考えてみても上手く想像できないし、その前に全身が冷たくなるように感じて考えられなくなる。
 久留米は暫く目を瞑っていた。同じように彼の気持ちを想像しているのかもしれない。彼女にはそれができただろうか。倣うように僕も瞼を下ろした。

「……疑われたことは、不思議と悲しくないの」

 彼女の声に目を開ける。言葉とは裏腹にその顔は悲しそうだ。

「でも、それだけその人を大切に思っていたんだと思うと少し、悲しい」

 彼は確かに、犯人の未来を願うほど大切に思っていた。しかし彼女が言う大切は、愛に似ている。
 彼女は言う。

「本当に私達の誰かが殺すと思っていたのかしら」
「え?」
「もしかしたら犯人は他に居て、その人を守りたくて私達をここに居させてるとしたら?」

 まさか、と思わず口から零れる。まさかそんなこと、ある筈が……。

「あの人が探偵さんにした依頼の話を聞いて、一番に思ったわ。心を捧げたその人に殺されたんじゃないかって」

 思いもよらない考えが久留米によって提出された。
 もしそうであるとするなら、僕が信じてきた彼の言葉は嘘だったということになる。彼が本当の依頼を明かした時の、最初から最後まで、全てが――嘘?
 それならこうしていることに意味なんてないんじゃないか。本当の犯人がここからどんどん遠のいていく、そんなイメージが頭をぐるぐる回る。

 僕がしてきたことは何? 犯罪者が逃げる手助け? 
 嵌められた。嵌められたんだ。でも――自分から、嵌った?

 帰ろう。依頼はこの三人から犯人を見つけて自首させる、ってそれだけだ。外に居る犯人を捕まえろとは言われてない。警察を呼んで任せたらいい。だからもう、帰ろう。

 だけど、でも。

 そうしてまだ終われない気がしてしまうんだろう。これ以上は僕の力ではどうしようもないって分かっているのに、やめてはいけないと思ってしまうのはどうしてなんだろう。

「そうだとしても、まだ終われない」

 僕の声が響いて、はっとする。無意識に声に出していた。けれど声に出すと、ますます本当に終わってはいけないと思えた。今自分がしようとしている決定が正しいことだと、背を押されるような気分だった。
 心配そうにこちらを見ていた久留米に宣言するように、また声の届かない彼に告げるように、僕は言う。

「諦めるのは、最後まで果たしてからにしたいんです。
 それにもう少しだけ、僕は彼を信じたい」

 僕が見た彼を、信じたかった。僕が感じた彼の正しさを、もう少しの間全力で信じたいと思った。諦めるのは、本当に裏切られたことが立証された時でいい。それまではまだ、彼は僕の純粋な依頼人だ。
 そして依頼人の言葉をまず信じるのが、“探し物探偵”だ。

「戻りましょう。捜索はまだ終わらない」

 久留米の返事も聞かずに部屋を出た。
 夏の太陽が照り付け、その眩しさに目を細める。浮かんでいた雨雲は消え、透き通るような青が広がっていた。
 視線を正面に戻すと、あることに気付く。

「……蛍光塗料?」

 絡み合い重なり合う蔦の葉の間に、不自然な隙間がある。見るとそこには黄色い蛍光塗料が塗られていた。僕の腰の辺りだ。しかもそれは点々と、壁の端から端まで横一直線に伸びている。まるで玄関へと導くように。
 それは夜間に訪れる犯人のための目印。犯罪へと向かう道標か――。

     

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