瀬戸際の証明、囚われたジャンキー

些稚絃羽

4.最悪な目覚め

「会長は十年くらい前から画材店の顧客でね。家にも何度かお邪魔したことがあるんだ。他言無用の約束で雪ちゃんことも中学生の頃から知っている。
 一ヶ月前かな、また絵を描きたいからと画材の手配を頼まれて。届けに行った時に、雪ちゃんのことを聞いたよ」

 差し出された冷えた麦茶。その液体を見つめると喉に異常な渇きを感じて、一息に飲み干した。しかし大して潤してはくれなかった。
 世界は狭いものだなと思う。どこにどんな繋がりがあるか分からない。いつもならそれを素敵な巡り合わせだと感じるのに、今はそのことがひどく辛い。僕が彼等に関わったという事実が、事態を悪い方へと導いているような気がした。
 僕の思いを否定するように、彼は続ける。

「あの家の人達は皆、君に感謝していたよ。雪ちゃんを守ることはできなかったけど、あの子の本当の気持ちを知れて良かったって。神咲君のお蔭で、皆が救われたって。」

 無我夢中だっただけだ。荒く証拠を提示しただけだ。――ただ彼等の絆が強かっただけだ。

「その時はそんな人も居るんだ、くらいにしか思わなかったけどね。自分が死ぬかもしれないと思った時、君なら願いを聞いてくれるんじゃないかと思ったんだ」

 僕は探偵じゃない。何でも屋でもない。無くしたものを見つける、探し物探偵だ。どんなに望まれてもそれは覆らない。そもそも僕はそんな器じゃない。真実を見つけることに貪欲でもなければ、人の死を見て平然としていられるほど強くもない。至極平凡で、寧ろ出来損ないで。これ以上僕に何ができるって言うんだ。

「……僕は探偵じゃないんです」
「うん、分かってる。これがどんなに身勝手なお願いかということも分かってるよ。だけどどうしても、君に助けて欲しいんだ」

 切実な願いを断ることもできず、かと言って割り切って受け止めることもできずに、彼からの視線を受けていた。
 自分で死を選ぶのと同じくらい、目前の死を覚悟するのは苦しいことだろう。そこに他者からの殺意が加わるなら尚更。それでも彼はその殺意さえ肯定して、相手の未来を見つめている。彼の心情を推し量るのは難しい。理解するのも、難しい。

「誰だか分かっているんでしょう?」
「どうだろう、でも三人共に動機は存在するよ」

 その言い様に、かっと頭に血が上る。

「これは推理ごっこじゃないんだ!  そんな話し方をするのはやめろっ!」

 彼のごめんね、だけは好きになれない。彼と僕との間には圧倒的な温度差があって、それが僕を苛立たせる。その緩さは元からなのかもしれないし、わざとなのかもしれない。そうしないと崩れそうな自分を、何とか支えているのかもしれない。それを判断できるほど、僕は彼のことを知らない。
 ドンとテーブルを叩くと、空のグラスがカタカタと回った。僕が感情を露にしたところで、その程度しか状況を変えられない。
 それでも、どうしても信じたかった。彼を助ける僕を、僕に助けられる彼を、そんな明日を信じたかった。

「僕はまだ、貴方を助けることを諦めた訳ではありません。
 どんなに手を尽くしても貴方が明日の朝を迎えることができなかったなら、その依頼を受けましょう。
 依頼料は要りません。僕は貴方を助けてみせますから。」

 真っ直ぐに彼を見つめてそう告げる。その依頼は無くなるのだと宣言する。恐怖に似た感情がまたせり上がってくるのを、唾を飲んでやり過ごした。
 彼の目に、今の僕はどれほど滑稽に映っているだろう。無力さに気付いていながら挑もうとする僕はどれほど馬鹿馬鹿しいだろう。でもそれで良かった。僕を見て、同時に自分の思考の歪さに気が付いて欲しかった。

「君みたいな人が居る未来はきっと、今よりずっと明るいだろう」

 その声を聞いて僕は少しだけ希望を感じて、それからひどい眠気に襲われた。彼を守るために見張ってなくちゃいけないのに。まだ写真の三人のことを何ひとつ聞いてもいないのに。ここで眠ってしまう訳には……。

「ごめんね、こんな方法しか取れなくて。明日十時、三人がここへ来る。あとはよろしく」

 その言葉に、このお茶に何か入っていたんだと気付いたところで僕は完全に意識を手放した――――。




 ……頭が重い。深い微睡みの中で、薄ぼんやりと光が見える。寝返りを打つと、小さくスプリングが軋む。
 今日は何か依頼があったかな? 立て込んでいたものは早めに片付けたし。あれ、そういえばどうして急いでいたんだっけ? あ、そうそう。事務所を離れるからだ。北川さんの所に行くから。それにしても昨日のカレー美味しかったなぁ。今日もお願いしたら作ってもらえるかな。とりあえず起きて挨拶を――。

「はっ!!」

 飛び起きて辺りを見回す。外に繋がるドアの小窓からは朝の光が差し込んでいる。僕は昨日のジャージを着たまま、ゲストルームのベッドで目を覚ました。急速に汗腺が開く。
 昨日、そうだ、お茶に仕込んだ睡眠薬で眠らされた。殺害を止めたりしないように。

 慌ててベッドから這い出ようとして、掛け布団に足を取られる。急がなきゃ、彼を見つけないと。

「北川さん! 北川さん!!」

 彼の所在を確かめるため、彼の寝室のドアを叩く。ノブに手を掛けるが鍵が閉まっていて一向に開かない。
 諦めて踵を返し、外へ飛び出した。右周りに回れば玄関に着ける。昨日教えられた言葉に従って、ただ足を動かす。太陽の熱が汗となって流れ落ちた。
 すぐに玄関ドアの前に出る。今度はノックもせずに押し入ろうとするがこちらも開かない。

「どうすりゃいいんだよ……!」

 その時、昨日見た光景を思い出す。臭いを取るために開け放した窓。床に付く位置から上へ横へと伸びた大きな窓。あそこからなら入れるかもしれない。鍵が掛かっていてもどうにかして割ってやる。
 壁伝いに右に曲がる。窓には夏の空が映る。窓の鍵は閉まっていない。窓は、開いていた。



 乱れていた、何もかも。僕の呼吸も、痛いほどの鼓動も、翻るカーテンも、整えられていたこのアトリエも。

 無用心に開いた窓から身体を中へ滑り込ませると、ひどい有様だった。昨日までの綺麗なアトリエは面影すらない。
 筆や絵具のチューブが散らばる床をゆっくりと進んでいく。ラックはなぎ倒され、描きかけだったキャンバスも中央から四方八方に亀裂が走っている。ぎこちない動きで一歩進み、視線を左右に振ると、破かれたキャンバスの向こうにその人を見つけた。僕は足を進める。
 誤って踏んだチューブが嫌な音を立てても、爪先に当たったペインティングナイフが甲高い音で飛んでいっても、背を向けたロッキングチェアは微動だにしない。まるで主のために息を潜めているようだ――もう二度と動かない、主のために。
 頭痛がする。眩暈を伴う強烈な痛み。近付くな、と何かが警告する。戻れなくなるぞ、と僕を脅す。それでも彼の元へ向かう。もうとっくに、後戻りはできなくなっているのだから。


 乱されたアトリエの中で凉原奏、もとい北川廉太郎は、その顔色とは裏腹に信じられないくらい静かな表情で息を引き取っていた。



 こうなる事は知っていたのに。こんな依頼、黙って聞かなければ良かった。僕が止めていれば、彼の言葉も冗談にしてしまえたのに。僕が眠ってしまわなければ――。
 そう何度後悔したとしても、ある意味でこれは彼の望んだことだった。彼が受け入れたことだった。きっとどうやったって、僕には止められなかった。こうして彼の死をもって依頼が始まってしまった以上、僕はそれを打ち切りにする事はできない。彼の思いを遂げなければ、僕のこの気持ちはいつまで経っても報われない。
 彼の死に様を見ながら、失った二つの存在を思って天を仰いだ。

 赤黒く腫れた顔を見下ろす。首は顔以上に濃く鬱血している。絞殺だ。
  彼の胸元には白い布が掛けられている。ところどころ乾いた絵具がへばりついていた。描きかけのキャンバスに掛けるための布だろう。見覚えがあった。その布には無数の皺が入っている。両端は特に形が残るほどくしゃくしゃだ。まるで強く握り締めたように。――これが凶器か。
 彼が力なく俯く先、足元には昨日見つけた絵がケースに入ったまま転がっていた。壁に取り付けてあるフックから、最期の時、彼はこの絵を飾って眺めていたのだと推察する。犯人が落としたのか、何かの反動で落ちたのか。アクリルケースの角が欠けていた。

 どんな気持ちで犯人の来訪を待っていたのだろう。闇から現れる悪意。醜く光る想像の中の瞳に睨まれて、全身の毛がぞわりと逆立った。
 傍に掛け時計も転がっていた。文字盤を覆うガラスは割れて飛び散っていたが、時計は正常に時を刻んでいる。九時四十分。十時まであと二十分。

 冷静でいる自分が、怖くもあった。執念にも似たその気持ちは、幾らか狂気じみてもいた。
 もう一度アトリエを見渡す。部屋ごと揺さぶったように散乱したその光景。開かれたままの窓。開かない玄関。
 遺体から離れて、キッチンに繋がるドアに手を掛ける。抵抗なくドアが開いた。先へと進んで彼の寝室。ここも難なく入れた。
 彼のベッドの上に一枚の紙。そこに書かれていたのは、三つの名前だった。

久留米くるめなつ子、柴山史しばやまふみ田浦永典たうらえいすけ、か。」

 丁寧にふりがなまで付けられていたが、名前の他は何の情報も得られなかった。本人達から詳しい関係を聞くしかないかもしれない。

 アトリエに戻るとすぐ彼が目に入る。

「やっぱり、いい人だよ。こんな、最期まで……馬鹿だよ……」

 掠れた声が零れる。込み上げそうになる涙を、顔を顰めて耐えた。
 ゲストルームと彼の寝室を結ぶドア。玄関。その二つに鍵を掛けることで、僕は窓から入るしかなくなった。そうして後ろ姿を見つけて、覚悟して近付いた。
 キッチンから入れば彼を間近に見てしまう。玄関から入れば正面に彼の横顔を見つけてしまう。少しでもショックを和らげようとする彼の気遣いが、手に取るように分かった。本当に、馬鹿だ。


 足音が聞こえる。あの長い階段を上がってくる、コツコツというヒールの音。踏みしめるような重い音も聞こえる。あとひとつ、微かに踵を擦る音。
 もうすぐやって来る。害のない友人のふりをした、殺人犯が。

 会話は聞こえない。ただ足音が続くだけ。やがて玄関をノックする音。続いてノブを上下に動かす音。

「……開かないのですか?」
「呼び付けといて居ないのかよ」
「裏に回ってみよう」

 落ち着いた女性の声と、攻撃的な棘のある男性の声と、堅く淡々とした男性の声。
 音が移動する。静かに鼓動が早まっていく。

「開いてるじゃん」
「いらっしゃるようね」

 外へ舞い上がるカーテンを押さえつけながら、三人がアトリエに入ってくる。ズボンの上から写真の感触を確かめる。彼等の中の誰かが――。
 その荒れた室内を見て、それらの表情が変わる。

「……これはひどい」

 先頭を切って入ってきた男性が、その堅い声で呟く。色の濃い、眉まで覆うようなサングラスを掛けた顔が左右に振られる。女性の方はいかにも不安そうにゆるゆると視線を彷徨わせながら、広いつばの帽子を脱いで胸に抱く。若い男はつなぎのポケットに両手を突っ込んだまま、あの不細工な睨み方で視線を走らせると、僕を視界に捕らえた。

「お前、あの時のっ! ……お前がやったのか!?」

 今にも掴みかかりそうに大股で近付く男に向かって、大きく一歩進み手を伸ばしてそれを制す。掲げた掌に男が怯んで足を止める。僕はいかにも自分は優位な立場に居るのだと知らしめるように、ゆったりとした動作で彼等との距離を少し縮める。ロッキングチェアを隠すように立って足を止め、自信あり気に声を張る。

「田浦永典さん」
「何で、俺の名前……」

 当てずっぽうだったがこちらで合っていたらしい。田浦は名前を知られていることを知って、何か得体の知れないものを見たようなぎょっとした顔でこちらを見ていた。

「柴山史さん、久留米なつ子さん。お間違いないですね?」

 名前を挙げながらそれぞれに視線を向ける。柴山は一瞬唇がぴくりと動いたが、田浦ほどの警戒心はないらしい。久留米は状況が呑み込めないためか幾らか間抜けな表情で僕を見つめていた。そして何も知らない少女のような純真さで、疑問を口にする。

「どなたですの? 奏さんはどうされたのかしら?」

 田浦も柴山も、表情に変化はない。ただ目の前の男を探るように見つめている。
 僕は正直でいるか否かを少しだけ迷って、嘘をつくことにした。

「僕は神咲歩、探偵です」

 探偵、という言葉に皆の頬が強張る。どうやら一様に疚しい何かを抱えているらしい。厄介だ。だが嘘をついただけの効果はありそうな気もする。
 先程まで吹いていた風も行く末を見守るように息を潜めている。天候も怪しい。

「探偵が、ここで何を?」
「僕は依頼を受けてここに来ました。凉原奏さん、いや北川廉太郎さんと言った方がいいのでしょうか、彼からの依頼を受けて」

 柴山からの問いに答える。これに嘘はない。
 元々嘘をつくのは苦手だ。重ねれば重ねるほどボロが出てしまう。“探し物探偵”を“探偵”と名乗るくらいが丁度いい。
 探り合いの雰囲気を壊す声が、静かなアトリエに響く。

「北川……?え、北川って、奏さんが?」
「何、おばさん、知らなかったの?」
「田浦君、言い方を気を付けなさい」
「うるさいな」

 並んでやってきた彼等はご友人という訳ではないようだ。田浦が輪を乱しているだけにも思えるが。

「久留米さん、そのことは少しお待ちいただけますか?」
「え、えぇ」

 話を進めなくてはいけない。できるだけ早く依頼を遂行してしまわなければ。逸る気持ちを抑えて、できるだけ冷静に、事を伝えるところから始めよう。
 これからのことも考えて、後ろの窓を閉めるようお願いする。一番近くに立っていた柴山がすぐに動く。完全に隔離されたアトリエは、不気味なほど静かに思えた。

「まず、お伝えしなくてはなりません。……北川廉太郎さんは、亡くなりました」

 背後に視線をやる。答えを教えてください。もう叶わぬ願いを心の中で呟く。

「嘘、だろ……何で」
「北川が、死んだ?」
「どうして、そんな、どういうことですの?」

 動揺する三人を振り返る。驚愕を絵に描いたように目を見開き、視線を彷徨わせる田浦。サングラスを外し、真実を問うように僕から目を逸らそうとしない無表情な柴山。帽子を持つ両手が小刻みに震え、今にも崩れ落ちそうな久留米。
 その戸惑いと苦痛の表情は、嘘か真か――。

「確認させてくれないか?」
「はい?」
「私は自分で見たものしか信じないことにしている。……まして親友が死んだなんてこと、言葉だけでは、信じられない」

 柴山の申し出はもっともなことだ。親友の死が簡単に受け入れられる訳がない。ごく浅い知り合いだとしても、死は平等に重たい。――しかし、目の前に居ると知ったらどう反応するのだろうか。
 僕は後ろへ二歩、三歩と下がると、軽く手を上げて彼を指し示す。

「……どうぞ、まだここに、座っています」

 久留米の悲鳴に似た声が短く飛ぶ。遂にその場にしゃがみ込んでしまった。女性には尚更酷だろう。
 柴山が口を真一文字に引いて、ゆっくりと近付いていく。その足取りはひどく重い。背凭れから覗く彼の頭頂部を見つめながら、感触を確かめるように進んでいた。
 僕は久留米に近付き、その背中にそっと手を置く。ソファに、と促すとよろめきながらも応じてくれた。アトリエで唯一綺麗なままのソファに座ると、久留米は膝に顔を埋めるようにして縮こまった。
 足音がして振り返ると、彼の遺体を正面から見据える柴山の隣に、田浦も居た。どう見てももう息を吹き返すことのない彼を見て、二人は石のように固まっていた。十分に分かりすぎるほどその状況を理解したことだろう。
 今の僕に、彼等を哀れに思う気持ちはない。彼等三人は容疑者だ。敵だと思って挑まなければ、答えに行き着くことはできない。だから、僕は言う。

「僕の受けた依頼は、北川廉太郎を殺害した犯人を見つけること。……貴方達、三人の中から」

 三つの視線が集まっているのが分かる。じりじりとした熱を感じる。
 北川さん。貴方のご依頼、必ず果たします。

 

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