真夜中の約束、君からのオブコニカ
10.僕の探し出した答え
「皆さん。お待たせ致しました」
その一言で、そこに居た全員が意味を悟った。――真実を見つけたのだ、と。
「壱さん。雪さんのご遺体はどうする事にされましたか?」
「君から言われた後、秘密裏に火葬してくれる知り合いにすぐ連絡したよ。今日の夜には来るそうだ」
時刻は夕方五時を回っている。あの後、僕は初めから推理のやり直しをしなくてはいけなくなった。その所為で知らせに来るのがこんなにも遅くなってしまった。雪さんの死亡推定時刻から約十四時間が経過している。この家族の為にも、雪さん自身の為にも、もうあのままにしておく訳にはいかなかった。
「……分かったのですか?」
木村さんの問い掛けに、皆が僕を見つめた。真実を見つける、そう言ったのは自分なのに今はその言葉を後悔している。こんな答えを言う為に、探していた訳では無かったから。
だけど、僕は依頼を受けている。依頼された以上、この真実を返さなくてはいけない。ここに居る全員に。――そして、雪さんに。
「真実を、お返しします」
僕の“探偵”人生で最も大きく重い、探し物が開封された。
「まず、断っておきたい事があります。これから僕が語る言葉は全てが確実ではありません。僕の想像で補われています。でもそう考えなければ、全てに辻褄が合わない。僕の中で一番納得のいく、真実だろうと思うものをお話します。
そして僕は説明が上手くない。ですから早とちりしないで下さい。答えを早急に求めないで下さい。最後まで聞いて、それから判断をして下さい」
“探偵”にあるまじき行為なのは分かっている。だけど断っておかなければ、回り回って雪さんの思いを傷付けてしまいそうだから。僕が導き出した答えを真実とするかどうかの判断は、きっと最後まで知らなければ出来ない筈なんだ。
誰も、何一つ答えない居心地の悪い静寂の中で、僕は深呼吸をし気持ちを整える。そして声を絞り出した。
「この計画は、婚約指輪を無くした時から始まっていました。――」
雪さんには想い人がいました。彼女は婚約した身でありながら、婚約者とは別の人を好きになってしまいました。
宇加治さん。雪さんにとって貴方は恐ろしい存在だったのでしょう。昨晩貴方は僕が雪さんの隣に居るのを見て、非常に鋭く僕を睨んだ。貴方はそんなつもりは無くとも、そう感じる人も居るのです。
……雪さんもそうでした。あの時僕は彼女の肩が揺れるのを見た。それはただ怖かったからじゃない。貴方のその目が、彼女の中のトラウマを呼び覚ますからだ。恐らく幼馴染である彼女は、貴方が時折見せるそういう表情を苦手としていたのでしょう。でも、いやだからこそ婚約を断る事も出来なかった。その先にあるかもしれない恐怖を、彼女は知っていたから。
そんな中で彼女はそんな自分を支えてくれる人と出会った。苦しむ自分を守ろうとしてくれる、思いを理解してくれる人。そしてその彼も、真っ直ぐに雪さんを大切に思っていた事でしょう。
そうですよね? 英君。君と雪さんの間には友達以上の気持ちがあった。
……宇加治さん、落ち着いて下さい。彼は犯人じゃない!
それに雪さんも彼の事が好きだったのだから、彼だけを責めるのは筋違いでしょう。貴方自身にも問題があった事は覚えていて下さい。
話を戻します。英君と雪さん。二人の気持ちが強まる度、その間にある障壁は厚く、高いものに思えた。
だから、結婚を無理矢理にでも止めたかった。どうすれば止められるか、そう考えた時彼女の目に婚約指輪が映った。
きっとこう考えた事でしょう。大切な婚約指輪を無くしてしまえば、宇加治さんの方から結婚を取り止めると言ってくるかもしれない。そうならなくても見つかるまでは延期になるかもしれない。
その為に、自ら指輪を無くした。いえ、無くした振りをした。そう、振りだったんです。本当は隠し持っていました。
このまま今日が過ぎてくれれば、少しは彼女の思い通りになったかもしれない。もしかしたらその方が、幸せになれたかもしれない……。
彼女にとって誤算だったのは、僕がここに来た事です。探し物をしてくれる専門の職業に就いているのは僕くらいなものでしょう。まさか、探しに来る人が現れるとは思っていなかった。来れば必ず、無くした状況を聞かれるだろう。だから彼女は僕に説明するもっともらしい状況を、何を聞かれても良いように細かく考えておいた。話を聞いた時、彼女はとても流暢に淀み無く、三日前の事とは思えない程鮮明に答えてくれました。僕はそれを信じきって、彼女の思惑通り必死で裏庭を探し回ってしまいました。
詩園さん、貴方が謝る事では無いですよ。あの時点で僕が気が付けば良かっただけの話です。
僕がそうして探している間、彼女は指輪を隠し通す為、英君とコンタクトをとった。
壱さん、この家は木造ですか? はぁ、そうですか。最近はそういう建材もあるのですね。とにかくこの家の中で金属探知機は殆ど反応を示しませんでした。様々な装飾にも反応しなかった。僕の探知機は高性能なもので、微量でもすぐに反応してしまうのでね、不思議でした。
その中で唯一反応したのは、食堂の中だけでした。誰にもバレないように捜索を続ける為に隠し持っていたのですが、食堂に入った途端、かなりの音で探知機が反応しました。銀食器が使われていたので当然だろうと思っていたんですが。それが間違いでした。金属探知機を使うと分かった彼女が、彼に頼んで食堂に移させたのでしょう。だから、銀食器に紛れて気が付かなかった。よく考えたものです。
……これは彼女にとって、最期の余興だったのかもしれません。この時既に、彼女の死は決まっていました。
ここから、雪さんの死に直接触れていきます。どうか落ち着いて冷静に聞いてください。
昨晩、恐らくまだ日は跨いでいない時間だった事でしょう。英君が、雪さんの部屋を訪れました。
雪さんに頼まれた酒を持って。――覚えておられますか? オブコニカが生けてあったグラス。志賀さんに確認したところ、ウイスキーグラスだと教えてくれました。幾つもグラスがある中であのウイスキーグラスが部屋にあったのは、本当に酒が注がれていたからです。
酒の入ったグラスを持って、英君は彼女の部屋に入った。日を跨げば彼女も二十歳。酒を飲んでみたいとお願いしたのでしょう。訪ねて来た彼に、彼女はオブコニカの花を贈った。――部屋にあったあの、白いオブコニカの花です。あれは彼女が英君に贈ったものだった。
彼女なら詩園さんの部屋からラッピング紙を取って来る事も容易だったでしょう。それに彼女の右手はかぶれていました。あの花を取ってくる時に素手で握ってしまったのでしょう。雪さんはあの花でかぶれた事があるのですね? 一度かぶれると回数を重ねる毎に症状が悪化するようですから、摘み取ってすぐに症状が出てしまったのでしょうね。
自分の好きな花を好きな男性に贈る。そんな可愛らしいやり取りがされていました。
雪さんは持って来てもらった酒をどれほどの量飲めたでしょうか。強い酒を選んだでしょうから然程飲めなかっただろうと思います。彼女としてはそれで良かった。
やがて注射器を取り出した。中にどんな薬が入っていたのかは分かりません。睡眠薬を飲んでいたとはいえ強い毒は苦しみそうですから、出来るだけ苦しみが少なく死ねるものを選んだ事でしょう。
注射器もその中身も、雪さんが用意したものだった。そして自身で投与した。――彼女は、自殺でした。
そんな訳が無いと思われるでしょう。ですがそうでなければあの状況は作り出せないんだ。
いいえ、それは違います。英君は、黙って死ぬのを見ていた訳じゃない。彼自身も、あの時死ぬ筈だったんだから。
注射器は二本ありました。これは一本を雪さんが、もう一本を英君が使う為に用意されたものでした。どちらも雪さんが準備したものでしょう。……二人の目的は、心中だったんです。
英君は自分が渡された注射器も、彼女と同じものが入っていると思っていた。当然でしょう。心中しようと決めていたのですから。ですが実際は違った。
注射器のこの頭の所を見てください。それぞれ赤と青のシールが貼られています。雪さんはこれで区別していたのでしょう。使う注射器を間違えて、彼を死なせてしまう事がないように。
雪さんは初めから、心中するつもりはありませんでした。いや、もしかしたら最初はあったかもしれない。でもこの計画を立てていく内、彼を死なせたくないと思った。それで、彼の想像とは違う結末が出来上がった。
二人がそれぞれ注射をした後、英君は彼女をベッドに寝かせた。その時、隣に入っていたのでしょう。遺体がベッドの左端に寄っていたのはその為でした。
あ、そういえば皆さんにお伝えしていない事がありましたね。雪さんの右手の小指はこんな風に曲がったまま、浮き上がって固まっていました。亡くなる時、恐らく二人は指切りをしていたのでしょう。そうしたまま、二人は眠りに就いた。
英君は、夜中三時頃でしょうか。目を覚ました。この時彼が目を覚まさなければ発見はもっと遅れていた事でしょう。
目が覚めた事を彼は不思議に思った。そして死ねなかった事を話し合おうとしたかもしれない。……でも隣で眠る彼女から反応は返って来なかった。既に息絶えた後でした。
雪さんは、酒を飲む時に睡眠薬を飲んだのではないかと考えています。ぐっすり、深く眠る事で眠るように死に、残された人達が、英君が、心を傷めなくても良いように。そうやってあの眠っているような姿を保ったのでしょう。
英君は焦ったでしょう。自分だけ生き残って、彼女は死んでしまって。それで考えた。――彼女の為に自殺である事を隠そう、と。それには自分が来た事も伏せておく必要があった。
まず証拠になりそうなものは片付けてしまわなくてはいけなかった。オブコニカの花、グラス、二本の注射器。とりあえず暫くの間隠さなくてはいけない。
オブコニカは捨てる訳にはいかなかった。どこに捨てても見つかってしまう。そもそも彼には捨てる事は出来なかった。――それが彼女からの贈り物だったから。
その時気が付いた。グラスに生けておけば、暫く枯れずに済むし自分に贈られたものだと誰も気が付かないだろう。そう思い、包んであったラッピング紙を開いた。このハンカチは、恐らく元々は雪さんが花を枯らさない為に水を含ませて巻き付けていたものだったのでしょう。
彼はこのハンカチで雪さんの注射の後を消毒した。亡くなっても尚、彼は彼女を大切に思っていた。傷をそのままにはしておきたくなかった。そのハンカチと残っていた酒を使って、消毒をした。証拠に酒の匂いが付いた面の反対に当たるここ、ここに微かに植物の匂いが付いていました。切った断面から液が出ていたのでしょうね。
そして残った酒は洗面台に流し、水を張ってそこにオブコニカを生けた。こうして“彼女から贈られた花”と“彼が持ってきた酒”はただの花と花瓶代わりのグラスになった。
あとは注射器とラッピング紙とハンカチ、そして指輪も隠しておこうと思った。彼女に返す為に持って来ていたのでしょう。それらを持ってエレベーターを使って地下へ降りた。すぐに見つからない所といえばそこしかなかった。手頃な所に投げ入れ、また部屋へと戻って来た。
この時彼は、宇加治さんを犯人に仕立てようと考えた。
数日前、本当に宇加治さんがたまたま万年筆を忘れて行ってそれを雪さんが保管しているのを、彼女を通して知っていた彼は、それをベッドの際、気付くか気付かないかの辺りに置いておいた。警察が来た場合、それを見て一番に容疑者に挙げられる事は確実だから。
それだけでも良かったのですが、もう一つ、宇加治さんに遺体を見つけて欲しかった彼は、仕掛けをした。その時間ならまだ仕事をしていると分かっていたから、例のメモを宇加治さんに届けた。
そうです。確かにあの字は雪さんのものでした。雪さん自身が書いたのだから当然です。違ったのは相手の方なんです。
あのメモは元々、英君の為に書かれたものだった。その日が初めてだったのか、何度もそうした文通をしていたのかは分かりませんが、予定通り部屋に来てもらう為に彼女はあのメモを書いて、英君の部屋に入れておいたのでしょう。それを受け取って、彼は彼女の部屋に向かった……。
メモには宛名がありませんでしたから、彼はそこを逆手に取って宇加治さん宛のものとして使った。ドアの隙間からメモを入れ、部屋をノックして自分の部屋に帰る。あとは宇加治さんがそのメモ通り雪さんの部屋に行って、遺体を見つけてくれるのを待った。
きっと志賀さんが次に見つけたのは計算外だったとは思いますが、悲鳴を上げてくれたお陰で皆と一緒に出るタイミングが出来たのは、結果としては良かったかもしれませんね。
「――この一連の事件は、雪さん自身の綿密な計画と、英君の即興の証拠隠滅と仕掛けによって完成したものでした」
僕がそう締め括ると、皆一様に複雑な表情で俯いていた。それもそうだろう。この中の誰かが殺したとしても悲しい事なのに、彼女の自殺だったなんて僕も考えたくはなかった。
「英君、君はオブコニカを贈られた理由が分かっていたから、こんなに一生懸命細工をしたのかな?」
図鑑に引かれたアンダーラインとありがとうの一言。あれは彼へのメッセージだった筈だ。それを見て彼は悟っただろう。生かされた理由を。
壁際に立ち尽くしたまま拳を握り、黙って全てを聞いてた彼は、足元に落としていた視線をこちらに向けた。僕の手にある図鑑を見て少しだけ目が細められる。揺れる瞳が彼女への想いを物語っていた。
「……全ての事を話します。事の始まりも、真夜中の事も全て」
そう言って、彼は言葉を探すように逡巡してから、やがて口を開いた。
その一言で、そこに居た全員が意味を悟った。――真実を見つけたのだ、と。
「壱さん。雪さんのご遺体はどうする事にされましたか?」
「君から言われた後、秘密裏に火葬してくれる知り合いにすぐ連絡したよ。今日の夜には来るそうだ」
時刻は夕方五時を回っている。あの後、僕は初めから推理のやり直しをしなくてはいけなくなった。その所為で知らせに来るのがこんなにも遅くなってしまった。雪さんの死亡推定時刻から約十四時間が経過している。この家族の為にも、雪さん自身の為にも、もうあのままにしておく訳にはいかなかった。
「……分かったのですか?」
木村さんの問い掛けに、皆が僕を見つめた。真実を見つける、そう言ったのは自分なのに今はその言葉を後悔している。こんな答えを言う為に、探していた訳では無かったから。
だけど、僕は依頼を受けている。依頼された以上、この真実を返さなくてはいけない。ここに居る全員に。――そして、雪さんに。
「真実を、お返しします」
僕の“探偵”人生で最も大きく重い、探し物が開封された。
「まず、断っておきたい事があります。これから僕が語る言葉は全てが確実ではありません。僕の想像で補われています。でもそう考えなければ、全てに辻褄が合わない。僕の中で一番納得のいく、真実だろうと思うものをお話します。
そして僕は説明が上手くない。ですから早とちりしないで下さい。答えを早急に求めないで下さい。最後まで聞いて、それから判断をして下さい」
“探偵”にあるまじき行為なのは分かっている。だけど断っておかなければ、回り回って雪さんの思いを傷付けてしまいそうだから。僕が導き出した答えを真実とするかどうかの判断は、きっと最後まで知らなければ出来ない筈なんだ。
誰も、何一つ答えない居心地の悪い静寂の中で、僕は深呼吸をし気持ちを整える。そして声を絞り出した。
「この計画は、婚約指輪を無くした時から始まっていました。――」
雪さんには想い人がいました。彼女は婚約した身でありながら、婚約者とは別の人を好きになってしまいました。
宇加治さん。雪さんにとって貴方は恐ろしい存在だったのでしょう。昨晩貴方は僕が雪さんの隣に居るのを見て、非常に鋭く僕を睨んだ。貴方はそんなつもりは無くとも、そう感じる人も居るのです。
……雪さんもそうでした。あの時僕は彼女の肩が揺れるのを見た。それはただ怖かったからじゃない。貴方のその目が、彼女の中のトラウマを呼び覚ますからだ。恐らく幼馴染である彼女は、貴方が時折見せるそういう表情を苦手としていたのでしょう。でも、いやだからこそ婚約を断る事も出来なかった。その先にあるかもしれない恐怖を、彼女は知っていたから。
そんな中で彼女はそんな自分を支えてくれる人と出会った。苦しむ自分を守ろうとしてくれる、思いを理解してくれる人。そしてその彼も、真っ直ぐに雪さんを大切に思っていた事でしょう。
そうですよね? 英君。君と雪さんの間には友達以上の気持ちがあった。
……宇加治さん、落ち着いて下さい。彼は犯人じゃない!
それに雪さんも彼の事が好きだったのだから、彼だけを責めるのは筋違いでしょう。貴方自身にも問題があった事は覚えていて下さい。
話を戻します。英君と雪さん。二人の気持ちが強まる度、その間にある障壁は厚く、高いものに思えた。
だから、結婚を無理矢理にでも止めたかった。どうすれば止められるか、そう考えた時彼女の目に婚約指輪が映った。
きっとこう考えた事でしょう。大切な婚約指輪を無くしてしまえば、宇加治さんの方から結婚を取り止めると言ってくるかもしれない。そうならなくても見つかるまでは延期になるかもしれない。
その為に、自ら指輪を無くした。いえ、無くした振りをした。そう、振りだったんです。本当は隠し持っていました。
このまま今日が過ぎてくれれば、少しは彼女の思い通りになったかもしれない。もしかしたらその方が、幸せになれたかもしれない……。
彼女にとって誤算だったのは、僕がここに来た事です。探し物をしてくれる専門の職業に就いているのは僕くらいなものでしょう。まさか、探しに来る人が現れるとは思っていなかった。来れば必ず、無くした状況を聞かれるだろう。だから彼女は僕に説明するもっともらしい状況を、何を聞かれても良いように細かく考えておいた。話を聞いた時、彼女はとても流暢に淀み無く、三日前の事とは思えない程鮮明に答えてくれました。僕はそれを信じきって、彼女の思惑通り必死で裏庭を探し回ってしまいました。
詩園さん、貴方が謝る事では無いですよ。あの時点で僕が気が付けば良かっただけの話です。
僕がそうして探している間、彼女は指輪を隠し通す為、英君とコンタクトをとった。
壱さん、この家は木造ですか? はぁ、そうですか。最近はそういう建材もあるのですね。とにかくこの家の中で金属探知機は殆ど反応を示しませんでした。様々な装飾にも反応しなかった。僕の探知機は高性能なもので、微量でもすぐに反応してしまうのでね、不思議でした。
その中で唯一反応したのは、食堂の中だけでした。誰にもバレないように捜索を続ける為に隠し持っていたのですが、食堂に入った途端、かなりの音で探知機が反応しました。銀食器が使われていたので当然だろうと思っていたんですが。それが間違いでした。金属探知機を使うと分かった彼女が、彼に頼んで食堂に移させたのでしょう。だから、銀食器に紛れて気が付かなかった。よく考えたものです。
……これは彼女にとって、最期の余興だったのかもしれません。この時既に、彼女の死は決まっていました。
ここから、雪さんの死に直接触れていきます。どうか落ち着いて冷静に聞いてください。
昨晩、恐らくまだ日は跨いでいない時間だった事でしょう。英君が、雪さんの部屋を訪れました。
雪さんに頼まれた酒を持って。――覚えておられますか? オブコニカが生けてあったグラス。志賀さんに確認したところ、ウイスキーグラスだと教えてくれました。幾つもグラスがある中であのウイスキーグラスが部屋にあったのは、本当に酒が注がれていたからです。
酒の入ったグラスを持って、英君は彼女の部屋に入った。日を跨げば彼女も二十歳。酒を飲んでみたいとお願いしたのでしょう。訪ねて来た彼に、彼女はオブコニカの花を贈った。――部屋にあったあの、白いオブコニカの花です。あれは彼女が英君に贈ったものだった。
彼女なら詩園さんの部屋からラッピング紙を取って来る事も容易だったでしょう。それに彼女の右手はかぶれていました。あの花を取ってくる時に素手で握ってしまったのでしょう。雪さんはあの花でかぶれた事があるのですね? 一度かぶれると回数を重ねる毎に症状が悪化するようですから、摘み取ってすぐに症状が出てしまったのでしょうね。
自分の好きな花を好きな男性に贈る。そんな可愛らしいやり取りがされていました。
雪さんは持って来てもらった酒をどれほどの量飲めたでしょうか。強い酒を選んだでしょうから然程飲めなかっただろうと思います。彼女としてはそれで良かった。
やがて注射器を取り出した。中にどんな薬が入っていたのかは分かりません。睡眠薬を飲んでいたとはいえ強い毒は苦しみそうですから、出来るだけ苦しみが少なく死ねるものを選んだ事でしょう。
注射器もその中身も、雪さんが用意したものだった。そして自身で投与した。――彼女は、自殺でした。
そんな訳が無いと思われるでしょう。ですがそうでなければあの状況は作り出せないんだ。
いいえ、それは違います。英君は、黙って死ぬのを見ていた訳じゃない。彼自身も、あの時死ぬ筈だったんだから。
注射器は二本ありました。これは一本を雪さんが、もう一本を英君が使う為に用意されたものでした。どちらも雪さんが準備したものでしょう。……二人の目的は、心中だったんです。
英君は自分が渡された注射器も、彼女と同じものが入っていると思っていた。当然でしょう。心中しようと決めていたのですから。ですが実際は違った。
注射器のこの頭の所を見てください。それぞれ赤と青のシールが貼られています。雪さんはこれで区別していたのでしょう。使う注射器を間違えて、彼を死なせてしまう事がないように。
雪さんは初めから、心中するつもりはありませんでした。いや、もしかしたら最初はあったかもしれない。でもこの計画を立てていく内、彼を死なせたくないと思った。それで、彼の想像とは違う結末が出来上がった。
二人がそれぞれ注射をした後、英君は彼女をベッドに寝かせた。その時、隣に入っていたのでしょう。遺体がベッドの左端に寄っていたのはその為でした。
あ、そういえば皆さんにお伝えしていない事がありましたね。雪さんの右手の小指はこんな風に曲がったまま、浮き上がって固まっていました。亡くなる時、恐らく二人は指切りをしていたのでしょう。そうしたまま、二人は眠りに就いた。
英君は、夜中三時頃でしょうか。目を覚ました。この時彼が目を覚まさなければ発見はもっと遅れていた事でしょう。
目が覚めた事を彼は不思議に思った。そして死ねなかった事を話し合おうとしたかもしれない。……でも隣で眠る彼女から反応は返って来なかった。既に息絶えた後でした。
雪さんは、酒を飲む時に睡眠薬を飲んだのではないかと考えています。ぐっすり、深く眠る事で眠るように死に、残された人達が、英君が、心を傷めなくても良いように。そうやってあの眠っているような姿を保ったのでしょう。
英君は焦ったでしょう。自分だけ生き残って、彼女は死んでしまって。それで考えた。――彼女の為に自殺である事を隠そう、と。それには自分が来た事も伏せておく必要があった。
まず証拠になりそうなものは片付けてしまわなくてはいけなかった。オブコニカの花、グラス、二本の注射器。とりあえず暫くの間隠さなくてはいけない。
オブコニカは捨てる訳にはいかなかった。どこに捨てても見つかってしまう。そもそも彼には捨てる事は出来なかった。――それが彼女からの贈り物だったから。
その時気が付いた。グラスに生けておけば、暫く枯れずに済むし自分に贈られたものだと誰も気が付かないだろう。そう思い、包んであったラッピング紙を開いた。このハンカチは、恐らく元々は雪さんが花を枯らさない為に水を含ませて巻き付けていたものだったのでしょう。
彼はこのハンカチで雪さんの注射の後を消毒した。亡くなっても尚、彼は彼女を大切に思っていた。傷をそのままにはしておきたくなかった。そのハンカチと残っていた酒を使って、消毒をした。証拠に酒の匂いが付いた面の反対に当たるここ、ここに微かに植物の匂いが付いていました。切った断面から液が出ていたのでしょうね。
そして残った酒は洗面台に流し、水を張ってそこにオブコニカを生けた。こうして“彼女から贈られた花”と“彼が持ってきた酒”はただの花と花瓶代わりのグラスになった。
あとは注射器とラッピング紙とハンカチ、そして指輪も隠しておこうと思った。彼女に返す為に持って来ていたのでしょう。それらを持ってエレベーターを使って地下へ降りた。すぐに見つからない所といえばそこしかなかった。手頃な所に投げ入れ、また部屋へと戻って来た。
この時彼は、宇加治さんを犯人に仕立てようと考えた。
数日前、本当に宇加治さんがたまたま万年筆を忘れて行ってそれを雪さんが保管しているのを、彼女を通して知っていた彼は、それをベッドの際、気付くか気付かないかの辺りに置いておいた。警察が来た場合、それを見て一番に容疑者に挙げられる事は確実だから。
それだけでも良かったのですが、もう一つ、宇加治さんに遺体を見つけて欲しかった彼は、仕掛けをした。その時間ならまだ仕事をしていると分かっていたから、例のメモを宇加治さんに届けた。
そうです。確かにあの字は雪さんのものでした。雪さん自身が書いたのだから当然です。違ったのは相手の方なんです。
あのメモは元々、英君の為に書かれたものだった。その日が初めてだったのか、何度もそうした文通をしていたのかは分かりませんが、予定通り部屋に来てもらう為に彼女はあのメモを書いて、英君の部屋に入れておいたのでしょう。それを受け取って、彼は彼女の部屋に向かった……。
メモには宛名がありませんでしたから、彼はそこを逆手に取って宇加治さん宛のものとして使った。ドアの隙間からメモを入れ、部屋をノックして自分の部屋に帰る。あとは宇加治さんがそのメモ通り雪さんの部屋に行って、遺体を見つけてくれるのを待った。
きっと志賀さんが次に見つけたのは計算外だったとは思いますが、悲鳴を上げてくれたお陰で皆と一緒に出るタイミングが出来たのは、結果としては良かったかもしれませんね。
「――この一連の事件は、雪さん自身の綿密な計画と、英君の即興の証拠隠滅と仕掛けによって完成したものでした」
僕がそう締め括ると、皆一様に複雑な表情で俯いていた。それもそうだろう。この中の誰かが殺したとしても悲しい事なのに、彼女の自殺だったなんて僕も考えたくはなかった。
「英君、君はオブコニカを贈られた理由が分かっていたから、こんなに一生懸命細工をしたのかな?」
図鑑に引かれたアンダーラインとありがとうの一言。あれは彼へのメッセージだった筈だ。それを見て彼は悟っただろう。生かされた理由を。
壁際に立ち尽くしたまま拳を握り、黙って全てを聞いてた彼は、足元に落としていた視線をこちらに向けた。僕の手にある図鑑を見て少しだけ目が細められる。揺れる瞳が彼女への想いを物語っていた。
「……全ての事を話します。事の始まりも、真夜中の事も全て」
そう言って、彼は言葉を探すように逡巡してから、やがて口を開いた。
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