真夜中の約束、君からのオブコニカ

些稚絃羽

4.不可解な行方と笑み

「元はと言えば、私が落としたのが悪いんですし、そんなに気を落とさないで下さい」

 仕事を全う出来ずに慰められる事程、虚しい事はない。夜がは更け、時刻は7時を回ったところ。温度はぐんぐんと下がり始めている。まだ探すと言った僕を、雪さんはあまりに優しい表情で引き止めた。

「大丈夫です。順さんにはご説明して分かってもらいます。駄目なら、駄目だった時です」
「でも、それじゃ、」
「あ、お代の方は気にしないで下さいね。父にもきちんとお支払いするようお願いしてありますから」

そんな事を気にしている訳ではないのに。だってもし許してもらえなかったら、婚約は破棄になってしまうという事。それで良いのだろうか。懐中電灯が彼女の横顔を照らす。相変わらず微笑む彼女は、部屋で見たのと同じように物憂げだった。

「お嬢様!」

 裏口から志賀さんが顔を出して、雪さんを呼ぶ。そしてこちらに駆け寄ってきてこう言った。

「旦那様と宇加治様が急遽ホテルの方へ出られる事になりました。お見送りを」
「分かったわ」
「何かあったんですか?」
「先程言ったトラブルが、かなり大きなものになっているようで」

 志賀さんに促されて、雪さんと僕は裏口から中へと入る。声がして、応接室のある方から壱さんと背が高く神経質そうな男が玄関ホールへと歩いてきた。男は僕を視界に捉えた瞬間、ほんの一瞬だけ眼鏡の奥の目が鋭くなった。あれが、宇加治順だろう。僕の隣の肩が小さく揺れた。
 壱さんが僕の方へと近付いてくる。

「神咲くん、申し訳ない。急にホテルに向かわなくてはいけなくなってね。晩酌の件はまた今度、という事で良いかな?」
「ええ、勿論。いつでも結構ですよ。お気を付けて」

 壱さんの知り合いという設定上、宇加治氏の前では演技をしなくては。落としていた肩を逸らして、ただの陽気なお客さんを演じる。すると壱さんは少しだけ体を近付けて、声を落とした。

「……指輪の事は気にしなくて良い。今日はゆっくりしていって下さい」

 申し訳なくて返事を返す事が出来なかった。壱さんはそんな事には気にも留めず、宇加治氏の方へ戻って行く。

「彼は?」
「友人だよ。神咲歩君だ。明日、同席してもらおうと思って呼んだんだ」
「神咲と申します」
「……宇加治です」

 胡散臭い笑顔を向けてくるが僕には分かる。眉の端に現れるあの不機嫌そうな感じは恐らく、雪さんの隣に立っているのが気に食わないんだろう。何だろう、少し勝った気分だ。
 納得のいっていなそうな宇加治氏の肩を壱さんが叩く。行こう、という合図らしい。

「雪、神咲君をしっかりもてなすんだよ」
「はい」

 そして壱さんと宇加治氏は出て行った。深々とお辞儀をして見送る皆に僕も倣った。これ、いつまでしていたら良いんだろうか。

「神咲さん、もう良いですよ」
「あ、はい……」
「ご紹介がまだなんですよね。私の母です」

 そう言って雪さんがそっと並んだ隣には、シックな濃紺のワンピースを着た女性が立っていた。首に刻まれた皺に少し年齢を感じるものの、凛とした立ち姿はきっと若い時から変わっていないのだろうと思う。夫を支えてきた妻の強さが大きな目に表れていた。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。母の詩園と申します」
「こちらこそご挨拶もせず失礼致しました。神咲歩と申します」
「ごめんなさい。ご無理を言ってここまで来て頂いて」
「……いえ。見つけられず本当に申し訳ありません」

 この家族の優しい態度が今は辛い。広いとはいえあの庭以外に考えられないのに、隈無く三周、重心にしていた足が痺れる位まで探しても見つからなかった。せめてチェーンだけでも見つけられたら希望が持てたのに。稲葉氏の言う通り、無駄に終わってしまった。

「食事に致しましょう。もう準備は出来ておりますの」
「そうね。神咲さん、食堂に行きましょう?」
「あ、はい。では荷物を片付けてきます」

 役立たずの探知機を持って、部屋へと戻る。洗面台に直行して顔を洗った。冷たい水に声を上げそうになる。……気遣われてばかりでどうするんだ。しっかりしろ!
気を引き締めてから廊下に出ると、木村さんが待ち構えていた。思わず叫ぼうと開きかけた口を必死で抑えて平然を装うと、木村さんは特に気にも留めていない様子で、こちらです、と歩き始めた。いや、食堂の場所分かってますよ?
 恐らくはお客さんには徹底的に仕えるよう教えられているんだろうな。木村さんはドアを開けて僕を食堂へ連れ入ると、そのまま一礼して出て行ってしまった。

 大きなテーブルに並べられた料理はどれも美味しそうだ。こういう家なら普通にコース料理を食べているのかと思ったらそうではないらしい。僕でも一目見て料理名を言えそうなものばかりでほっとした。これなら作法もあまり気にしなくて良さそうだ。

「お酒は飲まれますか? ワイン、シャンパン、ハイボール、ウイスキーもありますよ」
「そうですね。では、シャンパンを頂けますか?」
「分かりました。たくみ君、シャンパンを」
「かしこまりました」

 匠君、と呼ばれた若い男性は奥の部屋へと入って、それからボトルを持って戻ってきた。彼は木村さんと同様のスーツを着込み、グラスにシャンパンを注いでくれる。琥珀色の液体が小さく音を立てながらグラスに満ちていく。弾けた粒が小さく光った。

「彼は執事見習いの英匠はなふさたくみ君です。こちらが神咲歩さんよ」
「英です」

 挨拶を返して彼を見つめる。英君はいかにも好青年といった感じだ。清潔感のあるスタイリッシュな黒髪短髪につるりとした肌、笑った顔にはあどけなさが残っていて、そのくせスーツ姿がかなり似合っている。総じて、羨ましい!!

「あの、何か?」
「ん、あ、いえ。ありがとう」
「それでは失礼致します」

 彼は風邪を引いているらしい。少し鼻声なのが気にかかる。奥の部屋に戻る時思わず出たらしいくしゃみに恐ろしく好感を持った。ちょっと惜しい位が丁度いいぞ、青年。
 入れ違いに詩園さんがやって来る。あの部屋はどうやらキッチンらしい。

「しっかり食べて下さいね。腕を振るいましたから。……雪、私はちょっと休むから、あとはむつみちゃんに頼んでね」
「分かったわ。ゆっくり休んでね」
「神咲さん。失礼させて頂きますね」
「はい。沢山、ありがとうございます。おやすみなさい」

 詩園さんは小さく笑って、出て行った。コックではなく詩園さんご自身が作られるとは想像しなかったな。そう思うと一層目の前の食事にありがたみが出てくるから不思議だ。

「いつも詩園さんが作っておられるんですか?」
「そうです。母は元々料理上手だったみたいで、結婚した当初からずっと母が食事を作っているそうですよ。さ、食べましょう」

 姫井家は壱さんの父親の代にも流通関係で財を築いていたらしいが、壱さんがホテル業を始めてからは資産が倍になったなんて話もある。何にせよ成功の裏にこの料理があったという事だ。あやかって腹がはち切れるまで食べてやる! わ、旨っ!

「そういえば、父と何かのお話の予定があったのですか?」
「ふぁい?」
「いえ、晩酌の約束をされていたんでしょう?父はお酒が殆ど飲めませんから、何かお話があったのかと」
「あぁ、そうでしたか」

 お酒を飲まなくては話せない類の話だったという事か。彼女を過度に守ろうとする理由は、すぐには聞けそうにないな。

「私で良ければ、お話しましょうか?」
「え?」
「この家の事でしょう? 何が起こっても私だけは助かるようになっている理由」

 彼女には僕の聞きたかった事が既に分かっていたらしい。でもこんな事を本人に聞くというのはどうなんだろう。下戸の人間が酒を飲まないと話せない事なら、まだ十九の女性にはかなり心の負担が大きいのではないだろうか。

「でも」
「お知りになりたい事は全部話します。地下通路を知っている数少ない人の一人ですから」

指輪を見つけられなかったのに、彼女は僕を特別な枠組みに置いてくれている。それはとても申し訳なくて、だけど心を揺さぶられた。

「教えて、頂けますか?」
「はい」

雪さんは俯いて深呼吸をした後、顔を上げて真剣な、それでいてあの物憂げな表情で僕じゃないどこかを見つめながらゆっくりと口を開いた。睫毛が小刻みに震えていた。


「私は、姫井壱と詩園の実の子供ではありません」

 正直、そんな気はしていた。二人は七十歳前後、対して雪さんはやっと二十歳になるところだ。娘にしては歳に開きがありすぎるし、実の子ではないからこその溺愛だったのでは、と。

「五歳の時、児童養護施設に入りました。原因の始まりは父親からの虐待、父親が何かの事件を起こして捕まって、それからは守ってくれていた筈の母親からネグレクトを受けていました。
 殆どは聞いた話です。私自身は、あまり覚えていません。でも誰も居ない部屋で、帰って来ない人を待つともなく待っていたあの時の感覚は、覚えています。施設の人達が私を見つけてくれた時の事も。その時私にあったのは、ぼろぼろの服と雪という名前だけでした」

 幼い少女にとってそれらがどれだけ苦しいものだったか、想像する事は出来なかった。淡々と話す彼女の痛みは計り知れない。ただ、あまり覚えていないという事だけが、少しだけ彼女を救っているような気がした。

「施設で暮らし始めて半年位だったと思います。その日は朝から、お金持ちの人が来ると皆が騒いでいました。それがすごい事なのか、私には分かりませんでした。
 そうしてやって来たのが、父と母です。姫井壱と詩園でした。
 二人は施設への支援の為にやって来たそうです。子供を養子にする為じゃなく、寄付の為に。もう既に何件かの施設を訪れ、寄付をして回っていたと言います。そして私の居る施設へやって来た。
 一度だけ、どうして私を引き取ったのか聞いた事があります。二人は揃って、誰よりも無愛想だったからって言うんですよ?」
「それは、ひどいなぁ。」
「そうでしょう? でもその分、うんと可愛がってやりたくなったんだって言うんですけどね」

少しだけ頬に笑みが戻ってきた彼女にほっとする。

「それからすぐ養子に入れてくれてこの家にも来た事があるんですが、一緒に帰るのは一ヶ月後だと言われて、その間施設で過ごしました。そして一ヶ月後、連れて来られたこの家には地下通路とエレベーターが出来ていました」

 一ヶ月で用意された彼女の為の装備、要塞。たった一人の少女の為に異常な程に整えられたそれらは、彼女の身の上を聞いた後では完全に理解は出来なくとも、ある程度納得する事は出来た。
 彼女と出会った瞬間から、二人にとって彼女は何が何でも守るべきものになったのだ。

「……“姫井雪”になってから、本当に幸せでした。優しく朗らかな両親と、楽しい話をしてくれる使用人。両親が忙しい時には順さんが遊んでくれて。学校で大切な友達にも出会えた。
 あ、さっきの匠君は高校の同級生なんですよ。彼も大切な友達です」
「そうでしたか」

 何故だろう。声は弾んでいて本当に幸せそうに語るのに、表情が伴わない。口元は微笑んでいるのに、目元は凍えるように固まったまま。あまりに下手な作り笑いを浮かべていた。
 しかし、ここから先“姫井雪”という女性の心の奥に近付く事は許されていない。踏み込んではいけない領域を前に、僕は気付かない振りをしてグラスを傾ける事しか出来なかった。

「ごめんなさい、重たい話を聞かせてしまいましたね」
「いえ。こちらこそ不躾に聞いてしまって、すみません」
「……申し訳ないのですが、少し気分が悪いので先に失礼させて頂いてもいいでしょうか?」
「はい、勿論」

 僕の返答を聞くや彼女は席を立ち、キッチンへのドアを開けて一声掛けてから、こちらへと戻ってきた。テーブルを過ぎる時、失礼します、と小さく聞こえた。

「おやすみなさい。また明日」
「おやすみなさい」

 僕は努めて明るく声を掛けた。ドアに手を掛けこちらを向いた彼女は、今にも泣き出しそうな、今にも消え入りそうな、そんな弱々しさで微笑んで食堂を後にした。
 ドアがパタリ、音を立てて閉まった。

 

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