ゆびきたす

さたけまさたけ/茶竹抹茶竹

【1話・ラストワード】

【1話・ラストワード】


 夏休みまであと1ヶ月くらいの今日の放課後。梅雨明けと夏の手前に挟まれたどっちつかずな天気は、窓の外で音の無い雨を降らしていた。青く茂る木の葉が揺れていなければ、見落としてしまいそうな弱さで。高校の校舎の窓から見える景色はどこまでも灰色で、まるでカーテンを閉じたままのようで。
 何故、校舎の廊下の窓というものにはカーテンが無いのだろうか、と私はふと思う。まるで虫かごみたいだと。

 私結女之柚子乃―ゆめの ゆずの―は指先で廊下の窓をなぞりながら歩く。湿気に満ちた廊下を進み、その一番奥の部屋を目指した。パソコン室に足を踏み入れると、部屋には誰も居なかった。私が所属する「パソコン同好会」の今日の活動は、未だ始まっていないという事になる。パソコン室の一番奥、部長の霧野家桐野―きりのえ きりの―がいつも鎮座している席を見る。

 そこには買ってきたばかりであろう缶ジュースが置いてあったので、部長である彼女は私より先に来ていたらしい。呼び出しか、トイレか、気が変わって帰ったか。私は缶ジュースのプルタブを開けて、霧野家桐野が帰った可能性に期待しつつ彼女の缶ジュースに口を付けた。前回、私の分のジュースを勝手に飲んだ彼女が悪い。

 高校入学後、特に何がしたいわけでもなく無気力に日々を過ごしていた私を、何を血迷ったか勧誘してきたのが霧野家桐野であった。当時は副部長であった。何かしら私に惹かれるものがあったのだろうと、勝手に納得していた。

 まぁ本当は、部員数減少による部活から同好会への格下げ危機に焦っていたのが理由だろうと思う。去年の事であるが、このパソコン同好会―元・情報処理部―は部員数の減少に歯止めをかけるべく、それはまぁ大々的なプロモーションを行ったらしい。

 しかし残念ながら、それは何の成果も結ばなかった。私一人の入部では大した力添えにならず、私は入部ではなく入会となった。部長は会長となった。しかしながら意地であったか、面倒であったか、部長はそのまま部長を名乗り続け翌年卒業。私の一つ上の先輩である霧野家桐野は、三年生となって部長へと繰り上がり、これまた意地であったか、面倒であったかそのまま部長と呼ばれる事になった。まぁ、どうでも良いけれども。
 何にせよ。この暑苦しく文武両道を謡う岩上―いわかみ―高校で、隅に追いやられて流行る気配もないパソコン同好会で、私は無作為な日々を過ごしている。

「ゆずっち早いねー」

 パソコン室のドアが開くと同時にそんな声がした。視線をやると、件の霧野家桐野がそこに居た。濃いめの化粧が栄える整った輪郭とくっきりとした目元。明るく染めた茶髪は綺麗にパーマが当ててある。身長の変わらない私と比べ、一つ腰の位置が高い位の長い足。ワイシャツは第2ボタンまで開けていて薄い青色のブラウスが覗く。内股まで見える程短くしたスカート。
 彼女の容姿をみる度に度この世は不公平だと私は思ってしまう。

「先輩の方が早かったじゃないですか」
「あたしは一番。ゆずっちは二番。だから充分早いね」
「部員は私達二人みたいなもんじゃないですか」

 彼女は私のことをいつも「ゆずっち」と呼ぶ。そうとしか呼ばない。結女之柚子乃という私の名前を覚えていないのでは無いかとたまに思う。一度、聞いてみた事もある。返事はなかった。キャスター付きの椅子に飛び乗るようにして座って、彼女は言う。

「ちっと不味いことになった」
「不味いことですか?」

 私が飲み終えた缶ジュースを机の上に置くと、彼女は何度か口を開いては閉じて、そうして何かを諦めたようだった。そうして一枚の紙を私に突きつけてくる。A4サイズの紙には左上には、達筆な字で「パソコン同好会 会長殿」と書いてある。
 要約すると、文化祭における臨時活動費が、我がパソコン同好会には支給されないという趣旨であった。右下には生徒会という文字が印刷されている。

「文化祭の予算が下りないらしい」
「同好会でも少しは出たはずですよね」

 同好会であっても、確か五千円の予算は付いた筈だった。それが支給されないとは如何なる理由であろうか。霧野家桐野は腕を組んで唸っていた。ぶつぶつと、呪文の如く「ごーまるまるまる」と繰り返す。


「参ったな、これじゃ展示用の新しいPC買えないよ」
「そもそも予算足りないですよ、そんなん。でも、予算が下りないってのはおかしいですよね」

 私の言葉が彼女を奮起させる要因となったのか、その短いスカートの裾を翻して勢い良く立ちあがっていた。何をしでかすのか、と私は無言で釘を刺す。まるでぬか床の様な彼女は、私の表情の意図を読み取らず部屋を出て行こうとする。
 何をしでかすのか、と私は今度は言葉で問い掛けた。彼女は振り返り、こう言った。

「抗議だ、我らの声を上げよ」
「頭を下げた方が良いんじゃないですか」

 何かあってからでは遅いので、私は霧野家桐野について行くことにした。彼女が打ち負かさんとしている相手は予想を裏切ることはなく生徒会室に居た。威勢良く生徒会室のドアを開けている彼女の後ろで、私は生徒会長の顔を必死に思い出そうとしていた。
 その肩書き、つまり生徒会長という名称は私も良く知っている。しかし、顔がそれに付いてこなかった。私は恐らく、初めて、この瞬間に、生徒会長の顔をはっきりと見たのだ。

「何か御用ですか」

 荒々しい来訪者の姿を認めて生徒会長はそう口を開いた。
 そんな彼女の姿を、美人、いや美少女だと感じた。
 背まで伸ばした長い黒髪。綺麗な弧を描いた二重瞼。肉付きのない頬がその端正な顔を際立たせている。化粧をしてるようには見えなかったが、肌はシミ一つない白さである。
 昔、祖母の家で一度見たことのある日本人形をふと思い出した。

「生徒会長は居る?」
「私ですが」

 今年度から就任した新生徒会長。その凛とした演説は今でも覚えている。背筋を伸ばし、淀みのない声と強い意志を感じる言葉。彼女の後の候補者はお遊びの様であった。彼女を当選させるための茶番でしか無かった。私は半分寝ていたので、顔は失念していたらしい。ついでに生徒会長の名前も。
 しかしそれは、彼女の事を誰もが生徒会長という肩書きで呼ぶせいでもある。私には生徒会長との接点は無いし、私にとっての彼女は、集団の内の機能の一つでしかない。
 恐らくではあるが、私の目の前で鼻息荒くする霧野家桐野も、生徒会長の名前を覚えていないに違いない。

「文化祭の予算が降りないってのはどういうこと?」

 霧野家桐野がその手にした紙を、生徒会長の目の前に突きつけた。それを一瞥してから生徒会長は、霧野家桐野の顔を見つめる。
 生徒会長の真面目な表情は鋭さすら感じさせ、口を開くまでの沈黙の時間が、重たく感じる。

「活動実態の不明な同好会に予算は出せません。出展計画書も不備ばかりです」
「去年までは問題なかったぜ」

 その荒くれ者の様な乱暴な切り返しに、生徒会長はその綺麗な眉を少し動かした。機会仕掛けの人形みたいだった。

「悪しき慣習です。わたし達で改善していかなければなりません。予算は平等である以上、公平でなくてもならないのですから」

 そんな言葉で切り捨てられたが、それはまるで決意表明の様で。霧野家桐野の背中が、馬鹿のそれであるように見えてしまう。
 予算の出ない理由はあまりにも尤もで、そしてあまりにも私達の、というよりも霧野家桐野の痛いところを突いていた。また、今まで形ばかりの存在であった生徒会が、しっかりと今現在は機能しているようである。こんな形で実感したくはなかった。

 あんなにも勇んでいた霧野家桐野が、簡単に言葉に詰まり、私は溜め息を吐いた。
 ふと、生徒会長に顔を見つめられていることに気が付いた。私が視線を返すと、彼女は私から慌てて目を逸らす。何だろう、と私は彼女の横顔に無言で尋ねてみるも、視線は返っては来なかった。

「書類再提出でも良いですか」

 私がそう聞くと、生徒会長は引き出しからファイルを取り出して、そこから白紙の申請書を机の上に置いた。私はそれを有り難く受け取る。その紙を引き寄せる私の指先を、生徒会長が見つめていた。私は彼女を見るも、意図的に視線を合わせる事を避けられている感じがした。
 来週の月曜日に、計画書と活動実績を提出すれば考慮します。そんな言葉と共に、私達は生徒会室を追い出された。パソコン室へ戻る廊下を歩きながら霧野家桐野は私に言う。

「ゆずっち、貯金幾らある?」
「書類書いてくださいよ」
「どっちにしろ予算が足りないなら、負けを認めるのは癪だ」

 本気でPCを買う気だったのか、と私は困惑した。
 もっとも、昨年通りであれば、我らが部室であるパソコン室は、破損等の危惧から文化祭のスペースと使用することを認められていない。そうなれば、私達が使えるPCは限られてくる。唯一持ち運び可能な、あくまで出来るという最低限の基準として持ち運び可能な、年代物の重たいデスクトップ一台しかない。

 存在すらしていない私の貯金を伝えると、彼女は溜め息を吐いた。こうなれば稼ぐしかないだろうと私はぼんやり考える。具体的なイメージは無い。
 私は生徒会長から貰った紙を霧野家桐野に渡した。彼女は真っ白な計画書とにらめっこしながら、もっともらしく唸っている。

「鬼の生徒会長だ」
「聖人君主ですよ」

 今年就任した生徒会長は、完璧な人間だと聞いている。一年生の時からそうであったらしい。全国模試では毎度上位成績者に選ばれ、温和で明るい性格から交友関係も広い。真面目で仕事も出来る。正義感と責任感に溢れ、彼女の姿には後光が射すとまで言われている。そんな話に説得力を持たせてしまう程の雰囲気が確かにあった。
 故に、彼女に断られた私達の申し出は、正当性の欠片もないものに成り果て下がってしまった。いや浮き彫りになったというべきであろうか。

「先輩、いいバイト知ってます? 楽で割のいいやつ」

 私の言葉に霧野家桐野は振り返り、眉を上げた。タブレットPCの一つでも欲しいなと、最近思っていたのだが、今回のことが後押しになった。

「買ってくれるわけ?」
「文化祭の後、私物化しても良いのなら。後、カバーとケースは先輩買って下さい」

 私の提案に、暫く考え込んでいるように見えた。軽い気持ちで言ったのだが、何かバイトのアテでもあるのだろうか。部室まで戻ってきて、部屋のドアに手をかけた彼女はそこで静止した。私は訝しむ。

「ゆずっちさ、バイトの事誰にも言わない?」
「アヤシイやつですか」
「お前、レズビアンだったりする?」
「は?」



   【ゆびきたす】
    作者・さたけさん



 私は人を愛したり、愛されたりしないと思っていた。それは誰かに言われた言葉がきっかけだった様な気もするし、物心付いたときにが、私は自身をそう思っていた様な気もしていた。

 私の携帯電話が短く振動した。メッセージの着信を知らせるポップアップが画面に表示される。間延びしたランプの点滅に急かされて、受信したメッセージを開いた。何の補足の言葉も無く、ただ、サイトのURLだけが記載されていた。それを押そうとした指が、一瞬の迷いと共に止まる。
 私の目の前で、メッセージの送信者である霧野家桐野は小さく笑う。

「怖い?」
「そういう訳じゃないですよ」

 急いでURLを開いたが、これではまるで意地を張った様だと少し後悔する。数秒の読み込み時間の後に、白く染まった画面が切り替わる。白地の背景に焦げ茶のフレーム、その中に文字と写真が並ぶ。シンプルなwebデザインだと思った。私の思い描いているイメージでは、もっと下品なサイトを想像していた。サイトのタイトルは「girl'sーD」となっている。

 霧野家桐野に教えてもらった女性向けの援助交際募集掲示板であった。そう、援助交際。「エンコー」なんて言葉が広まって、最早古臭くさえもなったのはもういつからなのだろうか。
 掲示板には隠語であろうか私にはさっぱり意味の分からない文字列が並ぶ。

「寝ないんでしょ?」
「それはちょっと怖いので」
「相手が男じゃないだけでそう変わるもんかな。むしろ安心じゃない?」
「そういう問題じゃないです。寝ないと、厳しいんですか?」
「そうでもない」

 肉体関係が目的なやつばかりじゃないさ、と彼女はそう言って自分の携帯電話に何かを打ち込んだ。そうしてその画面を私に見せる。掲示板に並んでいるような意味の分からない文字の羅列がそこにあった。その通り掲示板に書き込むように言われて、私は意味も分からず指を動かす。

 どういう意味かと問いかけると、私に何も言わずに霧野家桐野は一枚のメモ用紙を手渡してくる。それを受け取った私の表情が怪訝なものであったせいか、彼女は頬杖を突きながら面倒そうに言う。

「隠語のリスト。それで読み方と書き方が分かるでしょ」
「ありがとうございます」

 この手際の良さは有意義な事には活かされないのだろうか。
 渡されたリストと見比べながら私の書き込んだ内容を読み解く。最初の用語は「シ也代衣」、これは場所の事らしい。池袋という字をバラしているのだと気付いた。
 何故、ここまで詳しいのだろうか。

「援助交際しないか、って誘ったのはあたしだけどさ、本当に良いわけ?」
「何がです?」
「普通じゃない。ゆずっちはその辺考えてるのかなって」
「人間の進歩の半分は如何に楽に金を稼ぐか、で出来てるそうですよ」
「誰の言葉?」
「知り合いです」

 援交とは、ちょっと人と会えばお金が貰える。とても割の良いものではある。その相手が女性であろうとも。
 こうして私、はビアン相手の援助交際をすることになった。しかし、ネットに書き込んだあの文字列が、そんな意味を持っているなんていうのが、どうしてもしっくりこなくて。その僅かなズレの隙間に潜り込んだ私の意識は、帰宅途中の電車の中で援助交際の事を忘れてしまった。
 だから夕食の味はいつも通りだったし、お風呂のお湯の色が変わることもなかった。布団の中に潜り込んだ時に私は初めて思い出す。

 掲示板を再び覗いてみると、私の書き込みに返信があった。その文字を、私は何度も読み返し、まるで英文を読んでいるかのような気分で意味を読み解く。渡されていた隠語のリストによれば、私に会いたいという人間がいるらしい。書き込み方は教わったが、その後なんて知らなかった。
 霧野家桐野へと私は電話をかけた。何度目かの呼び出し音の後に間延びした声がした。

「返信がありました」
「何だって」
「私の条件で会いたいって」

 その言葉に彼女は少々の沈黙を返した。私の提示した条件は池袋で会って遊ぶだけ。肉体関係は無し。時間は3時間で二万円。それに返事があったのだ。

「どうすんの」

 ようやっと返ってきた短い言葉は私の判断を問うものであって、私はようやくその時始めて自分のした事の意味を考え始めていた。



       
         ◆  ゆびきたす  ◆

 

 翌々日の土曜日。掲示板に書き込んだ通りの格好をして、私は池袋駅の東口にいた。明らかな偽名として「鈴乃音鈴乃ーすずのね すずのー」と相手には教えておいた。
 ガラスに映った自分の姿を眺めてみる。洒落た格好でもした方が良いのかと思ったが、どんな方向性が正解なのか分からず止めた。

 目印の為に背負ったリュックには羊のキャラクターの大きなぬいぐるみをぶら下げていた。クリーム色のキャスケットに、この季節には少し暑く見えるであろうパーカーフードのワンピース。今日の天気予報を見て少し悩んだが、何となく薄着で行くのが嫌だった。
 普段はコンタクトをしているのだが、今日は何となく外した。変わりに赤いアンダーリムの眼鏡をかけた。派手で洒落すぎているのでいつも躊躇ってしまう眼鏡、普段の私はかけない眼鏡。
 癖の強い髪は短くしてあるし、顔だって別に良いわけではない。服装も顔立ちも地味で化粧気もない。何となく霧野家桐野の姿が脳内を過ぎって、ガラスの中の私を何度も見つめ直す。私は段々と此処に来たことを後悔し始めていた。

 正直な話。私の様な相手で良いのだろうか。私の存在で「彼女」は満足するのだろうか。
 そもそも寝るわけでもない。わざわざお金を払って擬似的な交友関係を築くだけだ。そこに「彼女」には労力と金銭を割くだけの価値があるのだろうか。
 私には分からない。援交のイメージなんていつだって、男が買うということであったから。それとも私が単に女性というものを買い被りすぎているだけだろうか。私の知らない世界の「彼女」に振り回されすぎているだけだろうか。女子高生というものに価値を見出すのは案外普通の事なのだろうか。そこまで考えて、鏡の中に写る私の姿を見つめてみる。私にはそれだけの価値があるのだろうか。
 それとも、何かもっと違う理由があるのだろうか。

「あの、鈴乃音さんですか」

 その声で、思考が途切れた。「私の名前」を呼ぶ弱気な声に、私の体は思わず強張る。咄嗟にキャスケットへと右手が伸びた。その名前を知っているのは「彼女」しかいない。私が此処で待ち合わせている相手以外有り得ない。
 ゆっくり振り返る。伏せていた顔を上げてその顔を見る。期待半分、不安半分の心持ちで。

「こんにちは、わ、わたし。日張丘雲雀―ひばりがおか ひばり―です」

 緊張で上擦った挨拶は、最後には消え入るような声へと変わった。彼女と私の視線が交差して、お互いの姿を互いに認めて、ほぼ同時に私達は同じ様なリアクションをした。幾つもの言葉を呑み込んで、ただただ目の前の存在を見つめた。

 彼女も私の事は認識していた様で、大きく見開いた目はそのままであった。しばしの沈黙を経て、私が阿呆にも辿り着いた結論は、我が高校の生徒会長の名前は日張丘雲雀なのだということだけだった。そして、私が今日会う約束をした相手は、その日張丘雲雀なのだと。
 私の前で動揺する生徒会長の姿に、私はぎこちない挨拶を返した。

「初めまして、鈴乃音鈴乃です」

【1話・ラストワード 完】

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