雨模様の終礼、隠されたスピリット

些稚絃羽

4.不名誉な称号

 伊岡さんは戻って来るなり、深く頭を下げた。

「……でも僕は探偵ではないので、事件の捜査とかは」
「その辺りも説明したのですが、ある程度調べて分からないならそれでもいいからと」
「あくまで警察は呼ばないおつもりなのですね?」

 返事の代わりに、彼女はまた頭を下げた。
 外はついに雨が降り始めている。連なる校舎の中で何も知らぬまま通常通り授業が進んでいるのかと思うと、それすら怖くなってくる。ここは本当に取り残されてしまったようだ。

 警察は呼ばない、探偵が居るのだからその人に捜査してもらおう。――それが校長の決定だと言う。
 あんまりじゃないかと思う。学校の教員が何者かに殺害され、それを生徒達が目撃したというのに、自分は現場に赴きもせず全てを部外者に委ねようとしている。僕のことはさておいても、せめて生徒達のための措置は講じてやるべきだろう。たとえその生徒達が動揺していないとしても。
 この時ばかりは珍しく憤りを感じた。顔を見せもしない校長に。

「どうしてご遺体の確認すらされないのですか? どうしてそんな大事な決定を、僕は人伝てに聞いているのですか!?」

 彼女に言っても仕方がないと分かっているのに、どうしようもなく腹が立った。人の死はそんなに軽いものじゃない、身をもって知ったことだ。どうして遥か遠くの方で起こったことのように反応できるのだろう。彼女はまた謝罪を連ねた。

「結局、学校にとっても居なくなってほしい存在だったってことだ」

 窓に背を預けて立っている渡瀬君が今度こそ笑い混じりに言う。その視線は閉ざされた物理準備室のドアに注がれていた。

「どういう意味でしょう?」
「そのままですけど。堀が死んだことを伝えたら、ほっとして泣くか飛び上がって喜ぶ奴ばっかだと思いますよ」
「……君は?」
「特に何も。あいつのためにこれ以上感情を乱すのも馬鹿らしいし」

 その態度に先程の言葉を思い出す。『堀も、人間だったんだな』。
 いつか同じ言葉を使った人が居た。完璧で崩しようのない人間性を持った友人に向けた言葉。――しかし高校生の口からは決して聞きたくない言葉。
 人として大事な感情が欠落している。いや、もしかしたら何かが原因で心が凝り固まってしまったのかもしれない。
 何かがおかしいと思える言動を、皆否定しなかった。俯いては床を見つめるだけ。こういう場合の無言は肯定の意思表示なのだろうか。
 彼は学校中が同じ反応を示すと言っている。校長でさえも同じだと。そうだと思うような何かがこれまでにあったのだろうか。被害者がそこまで疎まれているのはどうしてなのだろう。その理由は死してなお蔑まれることへの正当な理由になるのだろうか。

 伊岡さん。呼び掛けると、肩を震わせて血の気の引いた顔で僕を見上げる。

「是が非でも真実を見つけ出します。そして犯した罪は償わせます。僕がここに居る間は、一切の口出しはさせません。……そう伝えてください」

 どうせ今更放り投げることはできないんだ。自分のことは自分が一番分かっている。そうやって見つけてきた真実があるから、根拠もなくまた自分を信じてみようと思う。
 必ず、真実を見つけ出す。被害者がどんな人間だろうと、加害者が何を抱えていようと、罪を誤魔化してはいけないんだ。
 彼女は僕の言葉に驚いたように小さく目を見開いたが、頷いて校舎を出て行った。

 まずは何からすればいい? 現場検証を済ませてしまいたいが、早い内に彼等の表情の意味を知りたいとも思う。彼等を教室に戻すのは躊躇われるし、その点は既に手が回されているだろう。どちらを優先させればいいか。
 少しの間考えたが、とりあえず彼等だけにしてあげた方がいいという結論に達した。あんなことがあった後だ、いつまでも僕が傍に居れば気が休まらないだろう。そう考える隅で、僕が居ない方が何かを話してくれるんじゃないかとも思う。友達同士の何気ない会話から糸口が見つかる場合もある。幸い、コートのポケットには集音器が入っている。いつかのように使えば、上手くいけば一気に情報が集まるかもしれない。
 そうと決まれば、どこか室内に入ってもらおう。廊下では音が響いてよく聞き取れないし、こんなに距離が離れていたら話をする気にもならないだろう。寒いところにずっと居ると気も滅入りそうだ。殺害現場の隣ではあるが、この物理室を借りてもいいだろうか。

「……準備室から入れば、鍵を開けられます」

 物理室のドアに鍵がかかっているのを確認すると、後ろからそう教えられた。新垣さんは両手を固く握って僕を見ている。縋るような頼りない表情に、何と声を掛けていいのか分からない。ありがとう、とだけ答えておいた。

「申し訳ないですが、皆さんには協力をお願いしたいと思っています。僕には圧倒的に情報が少ない。皆さんが知っていること、考えたことを、先程のように自由に聞かせていただきたいんです」

 戸惑いや躊躇いの目が音もなく向かってくる。初めて体験する状況にどうしていいか分からない、そんな目だ。そこにはやはり、それ以上のものは何も感じられない。少しでも動けば咎められるとでも思っているように、誰もがひっそりと呼吸をしていて、油断すれば人形と向かい合っているんじゃないかと思えてくる。窓を濡らす雨の雫だけが、能動的に主張を続けていた。
 現場検証を先に進めることにして物理室での待機を提案しても、誰かが動き出すのを待っているらしかった。恐らく皆、渡瀬君の次の行動を待っていた。

「その話し方、やめてもらえますか?  馬鹿にされてるように聞こえるので」
「……分かった」

 彼はそれ以上は何も言わなかった。それが協力の意を示していると思うことにして、教えられた通り準備室へと入る。焚かれていた丸ストーブを消した部屋は既に冷気に浸食されていた。荒らされたり揉み合った形跡はない。遺体を横目に見ながら右手にあるドアを開く。こちらには鍵がかかっていなかった。

 物理室はとても清潔に見えた。壁や床の白さのせいかもしれない。備え付けられた机の黒い天板はそこにぽっかりと空いた四角い穴のようだ。僕の思い浮かべた理科室と大した違いはなく、その生活感の無さに妙に寂しくなるのも同じだった。何かが抜け落ちていくような感覚がする。
 コートのポケットからマイクを取り出し、どこに置こうかと考えて真ん中の机の剥き出しになった流し台の裏に貼り付けた。ここならどこの声もきちんと拾えるだろう。右耳に差したワイヤレスイヤホンに、自分の小さな咳払いが返ってきた。

 引き戸のつまみを下げると、ガチャンと大きな音がして鍵が開く。廊下では皆が一様にこちらを見ていた。促すと渡瀬君が一番にやって来て、何を言うでもなく入っていく。しゃがみ込んでいた望月君も先程までの明るさは鳴りを潜めて、伏し目がちに中へと入った。それに新垣さんと香田さんも続く。ドアを閉めた頃には、渡瀬君によってストーブが焚かれ始めていた。唸るような音が室内に行き渡り、すぐに静かになる。
 彼等は身を寄せるように真ん中の机を囲んだ。何かを言ってから出て行った方がいいだろうか。ただ先入観なしに現場を見たいという気もする。またどちらを先にしようか悩み始めると、香田さんが不意にこちらを覗くように見上げた。

「何だい?」
「これから物理準備室そっち見るんだよね……?」
「そのつもりだが」
「あたしも、行っていいかな?」

 一瞬、その意味を理解するのに時間がかかった。他の三人も同じらしい。……彼女も現場が見たいと? 
 何のために、そんな酷なことを進んでしようと言うのだろう。好奇心みたいな浮ついた感情なら厳しく注意することも必要かもしれない。が、彼女からそうした楽しげな雰囲気は感じられなかった。

「紙袋があったんだ、白いやつ。もえが体操服を入れてたのと似てたから、確認したい」

 彼女が考えているのは、こんな状況でも友達のことだった。遺体発見によって頭の隅に追いやられてしまっていた依頼。香田さんはあの衝撃的なシーンを見ても冷静にものを見ていたということだ。彼女の言うのが本当なら、確認しておいてもらった方がいいだろう。そう思いながら、どこかで現場検証まで手伝わせようと考えている自分が居て、嫌気が差す。気分が悪い。
 何も言えず目だけで了承すると、新垣さんに向けて待っててねと告げて、神妙な面持ちで僕の後に付いてきた。

 ドアを開くと、視線を走らせる。僕が見つける前に香田さんが小走りに奥へと向かっていった。手を伸ばしたのは壁とデスクの間の僅かな隙間。その手には光沢のある白い紙袋、持ち手の端には薄いピンクのリボンが括り付けられていた。それが目印になったのかもしれない。袋を開いて見た彼女が声を上げる。

「やっぱり、もえのだ」

 ほら、と取り出した体操服は確かに様々な色でデコレートされていた。胸元の刺繍で彼女のものであることを確認した。
 返してくるようお願いすると、幾らかすっきりした顔で出て行く。本当にずっと気にかけていたのだろう、優しい子だ。イヤホンを通して向こうの会話が聞こえてくる。

<もえ、あったよ>
<……あいつが盗んだってことか?>

 遺体を見つけてから黙ったままだった望月君が困惑気味に尋ねている。

<あいつならやりかねないだろう>
<でも、今までそんなこと>
<今までしたことがないからって絶対しないとは限らない。それに>

 ――俺達が知らないだけかもしれない。
 目の前の亡骸に問うように視線を向けた。やりかねない、しないとは限らない、知らないだけかもしれない。生徒達にそんな風に言わせてしまうとは、この男は何をしてきたんだ。信用の欠片もなく、むしろ疑いを向けるのが当然だと思われている。……そんなにもひどい人間だったのか?


 人物像は後回しにして、この男が僕にどう見えるのかから探っていこう。全てはそこからだ。
 座っているため正確には分からないが、身長は然程高くはなさそうだ。身体の厚みにだらしなさはない。むしろ適度な運動はしているように思える。物理教諭と言われると意外、という言葉が口を突いて出そうだ。先入観はあまりに目を曇らせてしまう。
 歳は四十前後だろうか、刈り上げたうなじに数本の白髪が見える。上部は伸ばした髪を無造作にセットしていて、近付けばヘアワックスの香りがした。その黒い髪が染められたものでないのなら、三十代半ばもあり得るかもしれない。
 重力によって顔の皮膚が重く下がっているが、まだ平常時の顔を想像できる。存在感のある頬骨に細い顎。薄い唇と尖った鼻。目は細長く小さな黒目がその隙間に収まっているのが、開いたままの右目から分かる。印象としては、とっつきにくそうと答えるのが無難だろう。
 服装は鈍く光る黒いシャツに黒のスラックス、先の細い赤みがかった茶色の靴。教師とは思えない自己主張の強い格好だ。デスクの角には白衣が無造作に置かれていて、物理教師らしさはそれだけのようだった。――血液が飛沫した白衣は、白衣と呼んでいいだろうか。

 ドアが開く音がして振り返ると、そこには香田さんの姿があった。どこか気恥ずかしそうに佇む彼女は意外な言葉を寄越した。

「手伝うよ」

 望み薄な期待に思いがけず応えられると、何かの間違いじゃないかと遠ざけたくなるのは何故だろう。浅はかな考えが読まれたようでプライドが働くからだろうか。
 そんなことはさせられないと首を振る僕に、肩を竦めて見せる。

「あたしの父さん、刑事だったんだ。もう死んじゃったけど」

 軽い物言いでそう言った。それでもそこにはれっきとした尊敬の思いがある。刑事だったという父親、彼女の持つ正義感の出どころはどうやらそこらしい。
 彼女は目を細めると懐かしむように語る。遠い視線の先にはきっとその背中が見えているのだろう。

「その時するべきことを見極めろ、見極めたらすぐ行動に移せ、っていうのが口癖だった。
 死んだのも捜査中にたまたま見つけた火事から子供を助けるためだったから、父さんは最後までその生き方で教えてくれたんだ」

 ひとりの女性の、強く真剣な眼差しが僕に向けられる。

「あたしが今しなきゃいけないのは、座って待ってることじゃないと思うから」

 ……今の僕は、こんなにも真っ直ぐ向かい合えているだろうか。人に、物事に。
 それにふたりの方が何かといいでしょ、とすぐに誤魔化すように笑うのが目に痛かった。純粋に目の前の物事を進めようと踏み出す姿勢は、打算的になりがちな僕の思考を言葉なく非難しているようで、喘ぐような浅い息を吐いた。
 彼女の決意を退けることが適当でないのは明らかで。だから視線を外して、状況を確認しようと告げることしかできない。応える大きな頷きで空気が揺れた。


 ポケットに突っ込んでいた手袋を着ける。防寒用の厚いものだが、素手で触ってしまうよりはいいだろう。
 傷はこめかみの位置にあり、然程大きなものではなかった。左のもみあげに沿うように流れた血は既に固まっている。出血の量や凶器の大きさから見ても、死因は脳挫傷や脳内出血ということになるのだと思う。
 床に転がされた温度計を持ち上げると、手にずっしりとした重みを感じる。中に液体が入っているからだろう。
 ガリレオ温度計というものを以前調べたことがある。筒状の容器の中に、透明な液体と密度の異なる浮きを幾つか入れ、その浮きの位置によって温度を測定するという浮力を使った装置らしい。物理に関する部屋にはぴったりのものだが、これが凶器として使われてしまった。
 高さは、折れた鷹のモチーフも入れると三十センチを超すだろうか。試しに握ってみたが、その外周は僕の手ではあと三センチほど足りなかった。それなりに大きさもあるし、重さもある。振り下ろせば十分致命傷を与えられるだろう。
 容器はガラスのように見えたが、割れてもいないし鷹のモチーフも細い足の部分が折れただけだ。厚みのあるアクリル製の容器が使われているらしかった。もしこれがガラスだったなら現場はもっとひどい有様だっただろう。中の液体の種類によっては犯人自身も何かしら傷を負ったかもしれないし、無害なものであっても液体を浴びることは確実だ。

「それ、いつもここにあったやつだよ。ほら、ここ」

 遺体が背にしたデスクは、さして広くない部屋の奥を陣取っている。香田さんが指したのは体操服を見つけた丁度その辺り。デスクの上の、ファイルや教科書が並ぶ棚の隣には薄っすら積もった埃が円形に残っていた。この部屋に入ったことのある人間なら、必ず目に入る位置だ。知らない者は居ないだろう。そして誰にでも使えた訳だ。

 遺体は物理室へと繋がるドアの方を向いて動きを止めている。
 傷の位置からして背後から殴ったということはまず考えられない。それに身体の向きから考えれば、殴られた時には右側を向いていたはず。回転椅子に座っているからといって、殴った拍子に回っただとか犯人がわざわざ向きを変えたというのは現実的ではない気がする。

「ねぇ、探偵さん」
「何だ……わっ!」

 呼び掛けられてそちらを向くと、彼女の手刀が顔面に向かって勢いよく振り下ろされた。思い切り身を竦めたがそれは当たる寸前で止まり、軽く小突く程度の強さでコツンとこめかみに当たった。手を引いた彼女は思案顔で数回頷きながら言う。

「こんな感じで殴ったら、同じところに当たりそうだね。あ、右利きだったらだけど」

 彼女の実践のお蔭で、犯行状況をクリアに想像できた。僕を相手に、というのはいい気はしないけれど。
 恐らく犯人は椅子に座っていた堀氏の右側に立っていて、彼が自身の方を向いた時に右手で凶器を振り下ろしたんだ。そうして手元にあった白衣に血が飛び、凶器を床に落とした時に鷹のモチーフは折れたのだろう。
 凶器となった温度計が被害者の持ち物であるということを考えると、計画的な犯行とは考えにくい。元より殺害するつもりだったなら処分してしまいやすい凶器を選ぶはずだし、事前に用意してくる方が自然だ。
 だから犯人はここに来た時点で殺意はなかった。しかし話をしている間にかっとなって犯行に及んだ。そんなところだろう。――幾らか慣れてきてしまっているのが、いいことには思えないでいる。

 他に特別見るようなところはなさそうだ。凶器と殺害状況が分かれば十分、あとは誰が犯行が可能だったかを考えていかなくてはいけない。……彼等に話を聞かなければ。気は乗らないがやるしかない。
 出よう、と言いかけてやめた。振り向いた先で、香田さんが目を閉じて立っていたから。
 ――どんなことを考えているのだろう。今どんな思いで彼女はここに立っているのだろう。
 ふと思う。犯人が分かった時、僕は何ができるのか。犯人に、残された人達に。罪を償わせるなんて簡単に言ってしまったけれど、いつかのようにはいかないかもしれない。相手が教師か生徒かも分からない今、先行きはあまりに不透明だ。
 僕が見ていることに気が付いたのか、ゆっくりとその目は開かれる。ぼうっとした眼差しが、部屋中を漂っていく。どんな気持ちだったのかな、そんなことを言ったように思う。

「父さんはどんな気持ちで被害者を見て、どんな気持ちで犯人を捜したのかな……同じように思えるのかな」

 問うでもなく、ただ疑問を口にして彼女は出て行った。
 その言葉の意味をどう解釈したらいいだろう。彼女の中にある不安に似た感情だけが何となく分かる。
 まだ始まったばかりで、何もかも手探りだ。学校のことも、それぞれの関係も、被害者の人となりだって知らない。だけど、だから、ただ真っ直ぐ向き合いたいと思う。肯定も否定も一先ず置いといて、全てを受け入れること。それが僕にできる唯一のことだ。先のことはその時にならなきゃ分からない。
 そしてもし彼女の疑問の意味が理解できたなら、彼女に必要な言葉をかけてあげたいと思う。こうして歩み出て僕の背中を押してくれた彼女への感謝の印に。


   

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