日常日記

ノベルバユーザー173744

ただ、思うのは……。

先日、司馬遼太郎先生の書かれた小説『坂ノ上の雲』に関連するミュージアムに行った。

私は県内にあるので文句を言う筋合いはあると言えばあるが、逆三角形のガラス張りの建物は、その左手奥の萬翠荘ばんすいそうと言う、旧松平家の久松家の人が別邸として建てた優雅な洋館を見るのはいいが、地下が無駄にセメントむき出しで風情がない。
設計者の方には申し訳ないが、建てた建築会社の関係の父や弟も首をひねる建物だ。
ちなみに、逆三角形で、西日が完全に降り注ぐので夏は暑くて行けない場所だったりする。

兎も角、招待券を持っていた私は、入り口にたっていた警備員さんに挨拶をして入っていくと、中でチケットをちぎってもらい鑑賞することにした。

さすがは『坂ノ上の雲』第一話の生原稿が展示されていた。
その文字を強化プラスチック越しに、最初の文章を読むだけで息を飲む。
たったの一行でも、2重線に横に書き込み、吹き出しに付けたしと、鉛筆で描かれた原稿用紙の文字がまるで生きているようだ。
癖のある文字だが、それも又一文字一文字魂を込めて、削り足して、又削り……もし仏師だったら樹を見て、その樹の中に眠る仏さまをノミで彫り出すようなものだと思う。
一振り間違えれば、その仏は心を持たない。
それほどのパワーをたった一枚の原稿用紙が持っていることに感動する。

建物はガラス張りの内側に壁があり、壁を回るようにスロープになっていて、上っていくとその壁には作者のその原稿や、毎日、新聞に連載された作品を切抜き一面に貼っているものがあった。
当然それは文字が小さく読めたものではないが、びっしりと順番に貼られている小説の多さにに、良くこれだけ連載されたものだと感心すると共に、細かい部分まで調べ、そして最後までぶれることなく書ききったことに尊敬する。
生き生きと、その一つの時代、主に登場する人物だけでなく脇を固める登場人物まで描くのは、その人々を徹底的に調べ、そしてその時代のことだけでなく創造力と想像力を持たれた人なのだと思う。

スロープを上ると、内側に入る。
内側は登場人物の生きた時代の服装や電車の切符に、成績表といったものまでがある。
小説の3人の主人公の一人、正岡子規は、帝国大学に進学したが野球に俳句に熱心になり落第、最後に新聞記者になると決意し退学する。
その友人の夏目漱石は病気で落第とあった。
秋山兄弟の兄、好古は陸軍……そして、末っ子の真之は学費が無料であることで海軍を選ぶ。

当時の伊予の国(愛媛県)が貧乏だったのは周知の事実である。
本来、尊皇攘夷運動が勃発し、最初に長州薩摩に攻められるはずだったのは、松山藩だった。
何故なら、松山藩は松平氏……徳川家康の親族に当たる藩だったからである。
攻められることを察知したのは坂本龍馬。
彼が大洲藩に、土佐藩に伝わり、戦争が起こる前に降伏を勧め、それを受け入れた。
戦禍で人々を苦しめることはなかったが、多額の賠償金を払うことになり、下級武士の子供たちだった秋山兄弟や正岡子規はかなり苦しい生活を送ることになった。
その、戦争を回避したかわりに、苦しい生活から逃れるために松山藩を飛び出す青年たちの姿を描き出しているのだ。

戦争の空しさを知っていても、生きるための道には、若い彼らには選択肢がどれ程あるだろうか?
正岡子規は親族を頼り、借金をして創作活動に没頭し、戦争従軍記者として中国に渡った。
彼は幼い頃はいじめられっこだったが成長していくにつれ好奇心旺盛で、破天荒、周囲を引っ張っていく新しいものを見つけ出す、生み出す人だったと思う。

秋山好古は、軍人らしい軍人。
しかし、軍を辞してからは地元に戻り教育者としての道を歩く。
時代の変化を肌で感じたからこそ選んだ道なのだと思う。

真之も兄とは違い、いきる道を探す。
三人の先駆者により、時代は動いていった……文学であり、戦略であり、そしてこの伊予の国だけでなく日本が進歩していった。

生きる道を探す……それは、正岡子規のように命をかけても日々を、ちょっとした瞬間を見つめ感じること。
秋山好古や真之兄弟のように、戦場に立ち戦い抜き、そして後進には勉強を推進し、後世に選択肢はいくつもあると示すこと。

私の生きるという言葉は、正岡子規よりも若いが、まだまだ意味は理解できない。
ただ、思うのは、生きるという言葉の意味の重さをもう一度読み返して心にとどめたいと思う。

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