一等星の再来、始まりのラビリンス

些稚絃羽

7.黒い感情に白を願う

 肩に痛みが走って強引に頭を覚醒させた。じんわりと再熱する肩を抑えながら目を開けると、すぐ近くに見下ろす稲森さんの姿があった。

「ごめんね、起こしちゃって」

 そう言って起きるのを手伝ってくれた。いつの間にか体勢まで変えて眠りこけていたらしい。昨日放り投げたままの腕時計の時刻は三時ちょうどを指している。想像よりも早く帰してもらえたようだ。
 ベッドに腰かけたまま、傍らに立つ彼女を見上げる。聞きたいことはある、それも沢山。僕が聞くべきじゃないだろうことまで頭の中を浮遊している。だけどまず、何よりも先にどうしてもこれを言いたかった。

「おかえり」

 僕の言葉に一瞬驚いて、でもすぐに「ただいま」と返ってきた。その声はあまりに麗らかで、僕の耳に染み渡った。


 ふたりして事務所に移動してくると自然と向かい合って座った。足元には小ぶりな黒いリュックが増えている。恐らく彼の持ち物だろう。そういえばコートは既に脱いでいて、すぐに居なくなってしまうつもりはないらしい。あんなに早く離れたかった筈なのにそれを嬉しいと思うだなんて、中途半端な睡眠が僕をおかしくしたのだろうか。
 相変わらずソファの外れた所に座る彼女が、僕に怪訝な目を向ける。

「肩、怪我してるの?」
「あぁ、実はね……」

 起こしてくれた時に気付いたようで、まだ話していなかった事情を僕はおどけて説明した。すると血相を変えて寄って来て、肩を出すようにと胸倉を掴まれた。思いがけないことに抵抗しようと試みたものの離そうとしない手の力を知って、こういう時の彼女は言うことを聞いてくれないのを思い出す。仕方なく言われるままにカッターシャツを脱いで右肩を出すと、目にした彼女がはっと息を飲んだ。そして駆けだす。タオルや氷の場所を聞かれたので動こうとすると座っていなさいと窘められ、ソファからそこここと指示をした。慌ただしい様子に大袈裟だなと思いつつ、カートに載せていた手鏡に肩を映してみた。

「パン、かな?」
「すぐに冷やさないからそんなに腫れたの。ほら、これで冷やして」

 痛むのは当然だと放っておいたのはまずかったか。まさかこんなに真っ赤に腫れあがっているとは思わなかった。タオルに包んだ保冷剤を手渡されてそれを肩に押し付ける。急な冷感が今はまだ刺々しい。状態を確認する手が優しく触れて、その体温の方が心地よかった。

「折れてはないみたいで良かった」
「もし折れてたら流石に病院行ってるよ」
「神咲くん、そういうとこ鈍いんだから」
「信用ないなぁ」
「心配してるんだよ?」

 そう言われては素直に謝るしかない。余計な心配をさせてしまった、それどころじゃないっていうのに。しおらしくなった僕にひとつ微笑んで彼女は湿布を探しに行ってくれる。救急箱もないのを気にして以前高橋さんが置いていってくれたのがある筈だ。冷たさが少し和らいできた頃に、真っ白な小さい救急箱を持って戻ってきた。
 高橋さんの用意した救急箱は準備が良く、湿布も包帯も入っていた。中には頭に被るネットなんかも入っていて、これが必要になる怪我は絶対しないと決意した。


「ケータイが降ってきたのによく動けてるね。まぁ、中がどうなってるか想像したくないけど」

 暫くして僕の肩に包帯を巻きつけながら、彼女がそんなことを言う。腫れがひどいからと大量の湿布が貼られそうになるのを何とか回避して、適度な感覚が肩を包む。肩を使わせまいと包帯がきつめに巻かれているのには気付いていたけれど、そこまで文句をつけると怒られそうで会話に応えることにした。

「使おうとしなきゃ意外と平気だよ」
「でも五階建てのビルの屋上からだよ? 当たり所が悪かったら……」

 言いかけてやめた言葉は容易に思い浮かんで、確かに言える言葉ではないよなと思う。当たり所が悪ければどうなっていたかは分からない筈もない。受けた衝撃の強さを一番理解しているのは僕なのだから。頭に当たる瞬間が脳内再生されたけれど、最後に倒れているのは僕じゃなく血を流した彼で。それも仕方ないことだった。
 シャツを着直そうとすると、バスタオルでも掛けておけばいいじゃない、と言ってその通り羽織らされた。包帯でがっちり固定されてしまった腕で着るのは無理があったので、納得してそのままソファに背を預けた。

 タイミングが難しい。実際気を遣ってもそんなことに彼女が気が付かないなんてある訳がないのだけど、どうすれば自然に見えて必要なことを考えられるだろう。携帯電話はすぐ傍にあるが、唐突に話に出すのもおかしいし。彼の死因についてだって、対面してきたさっきの今で聞くのは負担が大きいと思うし。……こんな風に悩んでいる時点で自然さなんて到底出せはしないけど。
 座り直した彼女が彼の携帯電話を掴んで、その小さな手の中で遊ぶように転がし始める。掌を数回叩いてみる様子は強度を確かめているようだ。

「……あのビル、飲食店が入ってたんでしょ? きっとお客さん、入らなくなっちゃうね」
「そんなこと君が気にすることじゃないよ。こんなこと言って誤解させたくないけど、街は動きを止めたりしないから。なるようになるよ」

 街は止まらない。人に支えられていながら無関心で、時が経てばどんなに劇的なことでも風化してしまう。だってそうしていかなきゃ生きていけないから。遡ればどんな場所だって大なり小なり何かが起きてる。でもそれを忘れていかなきゃ、つらすぎて生きていけない。
――街は、人だ。だからいつか、君の心にも穏やかな風が吹く時が……。

 最悪だ。こんなことを思いたいんじゃない。誤解させたくないと言っておきながら心は矛盾して、どうしようもなく泥まみれだ。彼女の言うありがとうはやはり高尚すぎて、胸のつかえが取れなかった。


 彼女はおもむろに電源を入れて、それを僕の方に差し出す。そして自分のも開くとその隣に並べた。見えている画面はどちらも電話帳らしい。どうすればいいのかと彼女を見ると、ふたつを同時に操作し始めた。ア行からカ行、サ行へと移動するが、彼の方は下が見切れるほどどこもいっぱいなのに対し、彼女の方は四人が精一杯で一人の名前もない行もあった。

「あの人ね、私と対照的なの。元々友達も多かったけど、社交的で行動派で、私が先に知り合った人とも私がまごついている間に連絡先を交換してたりしてね? そういうところを尊敬してた」

 腕を抱えた彼女は、動き少なく語る。唇の動きはほんの微かで、声がしなければ震えているようにも見えた。
 訊ねるのを待っているような気がして、どうやって知り合ったのかと聞いた。わずかに口角を上げてくれたから、その判断は正しかったようだ。

「大学の一つ後輩なの。私が在学中は会ったことなかったんだけど、卒業の次の年に後輩がサークルの飲み会に誘ってくれて、その時知り合ったの。
 たまたま席が隣で見たことない顔だなって思ってたら、やっぱり違うサークルの子でね。暇なんだろって誘われたらしいんだけど、私以外にもOBやOGが沢山呼ばれてたから友達に放っておかれちゃったって。私も特別話す人が居た訳じゃないから、ずっと話し相手になってもらったんだ」


 いつかふたりが並んでいる時に聞く筈だった馴れ初めを、たったひとり彼女を前に聞いていた。隣に居たなら、彼はどんな顔をしたのだろう。恥ずかしそうに照れたりするのだろうか。彼女より積極的に言葉を加えたりするのかもしれない。彼のそんな顔を僕はひとつも知らなかった。
 嫉妬なんて感情はここにきて少しも湧いてこない。ただの思い出話に変わってしまったからなのか、もうその恋がどうにもならないことを知っているからなのか。つくづく現金な奴だ。
 聞くなら今しかないように思えて――或いは思い込んで――、自分から触れてみることにした。

「プロポーズ、された?」

 瞬きもせずに僕を見つめて、ゆっくりと頷いた。その視線は僕には強すぎて、瞬きするふりをして避けてしまった。
 彼女はリュックを開いて中から小さな箱を取り出す。蓋を開けるとサイズ違いの指輪がふたつ収められている。見覚えのある乳白色をしていた。

「私の分はあの人に預かってもらってたの。ちゃんと夫婦になる日まで無くさないように」

 彼のは警察から返してもらって、そこに一緒に入れたのだと言う。ふたつ並んだそれらはとても穏やかな夫婦の姿に似ていた。

「……あの人が必死で探してたリュックにはね、結婚指輪を作るために集めた石が入ってたの。知ってた?」
「いや、石が入ってるとだけ」
「あんなに沢山、驚いたでしょう? こんな小さな指輪を作るために幾つも切り出しては捨てて。ようやく納得できるものが完成したんだって渡されて。
 だから、預けちゃったの。無くしそうで、壊しそうで。……だから一度も、付けたところ見せられなかった」

 こうしていればよかった、と悔いる気持ちは至極全うだ。相手を想うえばこそ、そう望んでしまうのだろう。でも大切にしたいと思ったその気持ちを後悔するのはきっと違う。彼の気持ちを受け取ったから、大切にしたいと思った。そんな思いを彼はきっとちゃんと受け止めた筈だ。彼女を愛した人なのだから。
 そっと蓋が閉じられて、次に開かれるのはずっと先のような気がした。根拠はないけれど、多分当たっていると思う。それはとても悲しくて、寂しくて、だけど自然なことなのだろう。ごく小さなその箱は、思い出の詰まったアルバムを開くよりずっと固いのだ。


 大きな深呼吸の音が聞こえて顔を上げる。目にした笑顔は弾ける寸前のシャボン玉のように、儚さと美しさを宿していた。

「神咲くんから聞いておいて良かった、覚悟ができたから。そうじゃなかったらもっと酷いのを想像して、途中で行くのをやめたかもしれない」
「……そう」
「思ってたより綺麗だった。すぐに起きてきそうなくらい。不思議と悲しくなくて、涙も出なかったな」

 シャボン玉が弾けるのは一瞬だった。悲しくなかったのに、そう言いながら。玉になった涙がようやく許されたとでも言うようにひとつずつ頬を落ちていく。
 とても静かな泣き顔だ。僕が決して見たくなかった彼女の涙だ。抱き締めることも頭を撫でることも不可能で。ただ彼女が顔を上げたその時に見える場所に居ることだけが、僕にできる精一杯で誠意あることだと今は信じよう。

 

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