絶望世界の最強機≪インフィニティ≫ ~三十五歳、異世界に立つ。~

巫夏希

第二百九十五話 一瞬の至福

「今日のメニューは……あら、鮭の塩焼きに肉じゃが……それにほうれん草の和え物、か。何だかシンプルな味付けをまとめたみたいね」

 因みにメニューを考えるのは栄養士のエイリア・ファクタリスである。彼女は災害発生前もヴァリエイブルで栄養士をしていた。国王からのお墨付きももらっていた、知る人ぞ知る有名栄養士なのである。
 そんな彼女がどうしてここに居るかは話せば長くなってしまうのだが、要するに、マーズと顔見知りだっただけ……である。そんな捻りも無くシンプルな理由で、少し疑ってしまう程だが、これが真実なのであった。

「……さてと」

 箸を親指の上にかけ、両手を合わせる。

「いただきます」

 静かで、少し寂しいものだが、彼女にとってこの時間は至福の一時だった。
 早速箸を右手で構えると、彼女は肉じゃがの器からじゃがいもを一切れ摘まんだ。そしてそのままそれを口の中に放り込む。
 直ぐに口の中に広がったのはマキヤソース独特の、あっさりとした塩加減、それでいてほんのりと甘い味付けだった。彼女としてはもう少し濃い味付けの方が好きなのだが、栄養士が彼女のために考えているプランだ。贅沢を言ってはいけない。
 じゃがいも自身の甘味もある。その甘味とマキヤソース中心の味付けが相まって、マーズはたまらなくなった。きっと今、彼女の顔は普段とは違う『オフ』の表情なのだろう。だらけきった、と言うと表現が悪いかもしれない。しかし、どちらかと言えばそれに近い。
 ご飯もご飯で、お米の一粒それぞれが『立っている』。そして噛んでいくたび、甘味を感じる。こういうものを食べる度に彼女はこの時間がとても至福であると実感するのだ。
 次に、彼女はほうれん草に箸をつけた。
 口に頬張るとほうれん草の青臭さが広がる。決して彼女はこれが嫌いなわけではない。むしろこれが好きなのである。

「ああ……やっぱりほうれん草はこういう味だからこそおいしいのよね。何故かは知らないけれど、ダイモスとハルはこれが嫌いって言っていたし。こんなにおいしいのになあ」

 彼女はそう言って再びほうれん草を頬張る。
 ……とバランスよく食べていきたかったのに、このままではほうれん草ばかり少なくなってしまう、と思ったのはそれから数口食べたときのことだった。

「おっと、いけない。このままじゃ、バランスよく食べ終わることが出来ないよね」

 彼女がそう気づいたときには、もうほうれん草のおひたしは半分近く無くなってしまっていた。
 資源が少ないので、お代わりすることはあまりよろしくない。憚られる、と言ったほうがいいかもしれない。
 それを知っているからこそ、彼女は残念と思いながら、少しだけほうれん草の入った小鉢を彼女から遠ざけた。
 さて、いよいよメインディッシュである鮭の登場である。今回はシンプルな塩焼きとなっている。栄養バランスに配慮して――とのことだろうが、そうだとしてもこれさえあればご飯が進むと言っても(特に彼女にとっては)過言では無かった。
 塩加減に油加減、身のホロホロ具合。どれを取ってもピカイチだった。一例を挙げるならば、箸を身に入れると、みるみるうちに解れていくということだろうか。固いとか箸が通りづらいとかあるかもしれないが、この鮭に至ってはその心配事は皆無だ。どこから仕入れたのか、はたまた採ってきたのか。前者であっても後者であっても、その苦労は計り知れない。
 鮭の味が残っているうちにご飯を口の中に。鮭の味とご飯の甘味が口の中でミキサーめいて混ぜられていく。やはり栄養バランスも大事だが、これを調理している人間も大事である。決められた食材と決められたカロリーで、いかにして美味しく食事を作ることが出来るか。それが大事なのである。

「……毎回思うけれど、このレベルの食事を毎日、って作るほうが至極大変よね……」

 独りごちり、彼女は食事を再開する。




「ごちそうさまでした」

 両手を合わせ、彼女は言った。作ってくれた人たちへ、そして食材への感謝を込めたのである。
 因みに食器は暫くすると給仕の人間が取りに来る。だから彼女は食事について何も心配することは無い。無いのだが……。

「やっぱり、どこか今ひとつよね……。何というか、味付け自体は完璧なんだけど……?」

 彼女はここ最近、味覚が狂ってしまっていた。狂う、と言ってもそんな酷いものではない。少し濃い味付けだと誰もが思うのに薄く感じるなど、人とずれている感覚を持ってしまっている、とでも言えばいいだろうか。
 一度、とは言わず何度も彼女は友人であるメリアに相談していた。しかし、メリアの解答はどれも一緒だった。

『精神的に疲れてしまっているか、或いは大人になって味覚が変化したのだろう。良くあることだ。例えば、小さい頃は食べられなかったものが大人になったら食べられるようになる……そんな話だって何度も聞いたことがあるよ。耳にタコが出来るくらいだ。たぶん、それに近いものだと思う。だから、そう心配する話でも無い』

 メリアの話を信じていないわけではない。だが、完全に信じきったわけでもなかった。
 自分だってそれが違うことくらい解っている。解っているが、原因が何であるかということは解らない。
 だからこそ、そのポイントを突かれると痛い。自分だって解っていないことを解っている風に言われることが彼女にとって一番いやなことだった。

「……いやね、結局食事の時間だけでもあまりこういうことは考えないつもりでいたのに。今日だけはそう考えてしまう」

 その雑念の正体を彼女は解っていた。
 タカトが見つかったことは、彼女にとってそれ程のサプライズだったというわけだ。

「タカトが見つかってうれしいのは私だけじゃない。ハリー騎士団の人間はみんなそう。だけれど、それを表に出すことはしない。出来ないのよ」

 それは彼女が一番解っていた。
 タカトがやったと思っていないのに、この十年間であの『災害』は完全にタカトがやったものだと認定されてしまった。認定されてしまったものを簡単にひっくり返すことは出来ない。それをするならば、それなりの証拠を持ち出さなくてはならないのだ。
 しかし十年も経過してしまえば大半の証拠は風化してしまう。だからこそ強く言えないというのもある。本人たちがそう思っていても、タカトが起こした行動は人々を裏切った。人々の救いの象徴とまで言われていたインフィニティが、世界を半壊させた。その事実は十年という僅かな時間で風化するほど、人々の心は冷淡ではない。
 マーズが時計を見ると、もう昼休みは終わっていた。
 昼休み、というのは明確に定められたわけではない。あくまでもマーズが定めた時間であって、誰も把握しているものではない。あくまでも、あくまでも。

「そろそろ、コントロールルームを一巡しようかしら」

 そう言って、彼女は貴重品を持ち、立ち上がる。
 コントロールルームに向かう前に、マーズは本棚の奥に仕舞われていた写真立てを取り出す。
 そこにはマーズと崇人が映し出された、写真が入っていた。二人とも笑顔が輝いている。
 マーズはそれを見て、思わず涙が零れ出す。彼女の写真は十年前のものだ。十年たって彼女は姿が変わってしまった。どこか大人びた雰囲気を放ち、リーダーシップを持った、無くてはならない存在へと昇華していた。
 対して、タカトはどうだったか。
 タカトは、どうしてかは解らないが、インフィニティの内部で十年間睡眠状態にあった。コールドスリープという旧時代の技術がある。おそらくそれを流用したものと思われるが
いざ実物を見るとそれが本当であるかは不明瞭だと思い、それでいて、不確実なものだと思い込み、そんなことはあり得ないのではないかとも思えてしまう。
 要するに頭の中で様々な考えが巡り巡っているということだ。
 彼女がそう考えるのも仕方ない。確かにそうなのだから。現にメリアも言っていた。このようなことは有り得ない――と。
 しかし、そもそもインフィニティがあの時代に存在していた時点でイレギュラーは必然であることはマーズも解っていた。
 だからこそ、マーズはそれを信じようと思っていた。思っていたが、それを告げることは彼女の立場からして憚られることだった。
 もし彼女がそう言ってしまえば、この国は内部崩壊を起こす――ということを、彼女も解っていたからだ。

「絶望世界の最強機≪インフィニティ≫ ~三十五歳、異世界に立つ。~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「SF」の人気作品

コメント

コメントを書く