絶望世界の最強機≪インフィニティ≫ ~三十五歳、異世界に立つ。~
第九十二話 七発目の銃弾
「チェシャ猫おおおおおおおっ!!」
マーズは結界をどうにか脱出しようと試みるが、やはりその結界の強度は計り知れないほどに強く、脱出することもままならない。
「そんな簡単に結界を超えることが出来るわけがないだろう? 普通に考えてみて、さ。だって『シリーズ』の造り出した結界だよ?」
そう言ってチェシャ猫は泣き崩れるアーデルハイトの肩を叩く。それはまるで慰めているようでもあった。
「自分をあまり責めないほうがいいよ、アーデルハイト。事故だよ。君は確かに実のお兄さんを君の手で殺してしまったわけだけれど、さ」
「ううう……うわぁぁぁ!!」
アーデルハイトの自我は、もう崩壊しかけていた。
恐らくチェシャ猫による精神攻撃は、彼女が兄を撃ち殺してしまったという事実より重くのし掛かっているのかもしれなかった。
チェシャ猫の精神攻撃は普通ならば通用するはずはないのだが、『兄を殺した』というちょっとした切っ掛けによって心にほんの少しの油断が出るそのタイミングを狙うことで、このような相乗効果を得るのだった。
「アーデルハイト、気をしっかり持って!」
マーズは必死に結界を抜け出そうとしながら、アーデルハイトに声をかけ続けていた。
このままではアーデルハイトの自我が崩壊してしまうからだ。崩壊した自我はそう簡単に元に戻せないという。しかし例え心がたくさんのダメージを受けていたとしても、自我が崩壊さえしていなければ、時間はかかるが治る見込がある。
マーズはそのために声をかけ続けていた。声をかけ続けてさえいれば、アーデルハイトの自我が崩壊することはない――と信じていたからだ。
「無駄だよアーデルハイト。大方彼女の自我を崩壊させないように声をかけ続けているのだろう? でも、それは本当に無駄なことになる。……どうしてか、って?」
チェシャ猫は微笑む。
それはまるで悪魔のような、腹黒い微笑であった。
チェシャ猫はアーデルハイトの頭を撫でる。いや、頭だけではなかった。頭から首、首から肩にかけて舐めるように撫でていく。撫でられていたアーデルハイトにとってそれはとても気持ちの悪いことだったが、彼女としてはそれを考える余裕すらなかった。
「アーデルハイト、もし君がまたお兄さんに会いたいというのならば……選択は一つ、君が簡単に出せるその選択があるんじゃあないかな?」
「……一つ?」
少し考えて、アーデルハイトは右手に持っている拳銃を見た。
それを見て、チェシャ猫は頷く。
「やめなさい、アーデルハイト」
マーズはチェシャ猫が何をしようとしているのか、大まかな予想がついていた。
だからこそ、強く言った。
「マーズさん、まさかチェシャ猫は……」
コルネリアの言葉に頷く。
マーズは意外にもこの状況において冷静だった。
無論、冷静でなければ軍人とはいえないだろう。ただ、彼女も人間だ。何か不測の事態が起きてしまえば、彼女とて冷静を保てないだろう。
アーデルハイトが冷静を保てていないからこそ、今は彼女だけでも冷静を保たねばならない――そう思っていた。なにせ『新たなる夜明け』から来た二人を除いて残りのメンバーは少し前まで学生だった身分だ。
そんな人間がいきなり戦場に放り込まれて『戦え』と言われて、戦うのは容易ではない。誰か経験者がリーダーでなくてはならないのだ。
恐らくヴァリエイブルの王はそれを推測した上でマーズを副騎士団長に推したのだろう。
だからこそ。
彼女は行動しなくてはならなかった。
「……アーデルハイト! チェシャ猫の言うことなんぞ聞いてはいけない!!」
「あーあ、外野はそういう事言ってるけれど、どうしちゃう? ここで踏み止まったらどうなるんだろうね?」
「聞くな!! 聞くんじゃあない!!」
アーデルハイトとチェシャ猫の攻防は続く。
ゆっくりと、ゆっくりとアーデルハイトは拳銃を上げていく。
その銃口の先には――蟀谷があった。
「やめろ!! やめるんだ!!」
マーズの必死な問いかけにアーデルハイトは答えない。
対して、チェシャ猫はその様子をただじっと眺めていた。
もうこれ以上チェシャ猫が押すこともない――そう判断したのだろう。
ただ、チェシャ猫はそれを眺めていた。
そして、アーデルハイトは引き金に手をかけた。
「アーデルハイトっ!! 早まるな!!」
マーズはまだ諦めてはいなかった。ずっと、声をかけ続けていた。
それに対して、ハリー騎士団の他のメンバーは目を瞑っていた。しかし『新たなる夜明け』のエルフィーとマグラスはただそれを眺めていた。
それが彼らの違い。
戦いを経験している者とそうでない者の違いだ。
戦いを若いうちから幾度となく経験しているマグラスとエルフィーの二人は、このようなことについて表情を変えたりなどしない。
対して戦い――ひいては戦争を初めて前線で経験した他のメンバーについては、今まで親しかった人間の自殺をする現場を目撃するというのは、あまりにも衝撃が強すぎた。だから彼らは決まって目を背けてたり目を瞑ったりしていた。
「エルフィー、他の人を責めてはいけないよ。彼らは『戦争』を身近で経験したことのない人材なのだから」
エルフィーがそれを咎めようとしたのを、マグラスが言葉で制した。
「どうして? 彼らは騎士団。このような現場は幾度となく目撃するでしょうし、幾度となく乗り越えなくてはならない。今ここで泣いたり目を背けたり……そうね、もっと強くいえば『逃げたり』している暇なんてないんじゃあない?」
「そうだ。エルフィーのいうことは正しいよ」
マグラスは頷き、話を続ける。
「でもね、彼らは前線にて戦争を初めて経験した人間ばかりだ。いきなり『慣れろ』などと言われて慣れる方が変わっている。忘れたとは言わせないよ、僕らだって最初は悲しかったはずさ、苦しかったはずさ、辛かったはずさ。そんな感情を誰しもが抱くものだよ、……特に最初はね」
「……だけれど、今は私も違う」
「それは慣れたからさ」
マグラスは結界の支配下に置かれているのに平然としていた。
「慣れたからこそ、このような光景を見ても普通でいられる。それは道理だ。だがね……だからといって初めてその光景を見る人が怖がった顔を見せたとしても、決して蔑んではいけないと思うよ」
「その通りだよ、マグラス・ディフィール。君の言うとおりだ。この状況を初めて見て怖がらない人間が居ない方がおかしいというものだよ。……少しは黙っているといい」
アーデルハイトは蟀谷に拳銃の銃口を当てたまま、ずっとそのままにいた。彼女はまだ最後の決心がついていなかったのかもしれなかった。
まだ銃を撃たないのを見て、チェシャ猫は小さくため息をつき、
「何だい、まだ判断を下さないのかい? 君は強突張りだね。さっさと撃っちまえばいいんだ。楽になっちまえばいいんだ。どうだい?」
「いい加減にしろ、チェシャ猫!!」
マーズは激昂し、結界を抜けようと試みる。しかし、何度やっても結界から脱出することは出来なかった。
「ハハハハハ! 何を言っても無駄だよ!」
チェシャ猫はアーデルハイトのすぐ後ろへと歩き、そこで立ち止まる。
アーデルハイトの腕は震えていた。すでに引き金に指を伸ばしていたというのに、その状態で停止していた。
アーデルハイトは無意識のうちに涙を流していた。
それは誰に対する涙なのか、誰にも解らなかった。
そして――アーデルハイトはその引き金をゆっくりと、そしてはっきりと引いた。
マーズは結界をどうにか脱出しようと試みるが、やはりその結界の強度は計り知れないほどに強く、脱出することもままならない。
「そんな簡単に結界を超えることが出来るわけがないだろう? 普通に考えてみて、さ。だって『シリーズ』の造り出した結界だよ?」
そう言ってチェシャ猫は泣き崩れるアーデルハイトの肩を叩く。それはまるで慰めているようでもあった。
「自分をあまり責めないほうがいいよ、アーデルハイト。事故だよ。君は確かに実のお兄さんを君の手で殺してしまったわけだけれど、さ」
「ううう……うわぁぁぁ!!」
アーデルハイトの自我は、もう崩壊しかけていた。
恐らくチェシャ猫による精神攻撃は、彼女が兄を撃ち殺してしまったという事実より重くのし掛かっているのかもしれなかった。
チェシャ猫の精神攻撃は普通ならば通用するはずはないのだが、『兄を殺した』というちょっとした切っ掛けによって心にほんの少しの油断が出るそのタイミングを狙うことで、このような相乗効果を得るのだった。
「アーデルハイト、気をしっかり持って!」
マーズは必死に結界を抜け出そうとしながら、アーデルハイトに声をかけ続けていた。
このままではアーデルハイトの自我が崩壊してしまうからだ。崩壊した自我はそう簡単に元に戻せないという。しかし例え心がたくさんのダメージを受けていたとしても、自我が崩壊さえしていなければ、時間はかかるが治る見込がある。
マーズはそのために声をかけ続けていた。声をかけ続けてさえいれば、アーデルハイトの自我が崩壊することはない――と信じていたからだ。
「無駄だよアーデルハイト。大方彼女の自我を崩壊させないように声をかけ続けているのだろう? でも、それは本当に無駄なことになる。……どうしてか、って?」
チェシャ猫は微笑む。
それはまるで悪魔のような、腹黒い微笑であった。
チェシャ猫はアーデルハイトの頭を撫でる。いや、頭だけではなかった。頭から首、首から肩にかけて舐めるように撫でていく。撫でられていたアーデルハイトにとってそれはとても気持ちの悪いことだったが、彼女としてはそれを考える余裕すらなかった。
「アーデルハイト、もし君がまたお兄さんに会いたいというのならば……選択は一つ、君が簡単に出せるその選択があるんじゃあないかな?」
「……一つ?」
少し考えて、アーデルハイトは右手に持っている拳銃を見た。
それを見て、チェシャ猫は頷く。
「やめなさい、アーデルハイト」
マーズはチェシャ猫が何をしようとしているのか、大まかな予想がついていた。
だからこそ、強く言った。
「マーズさん、まさかチェシャ猫は……」
コルネリアの言葉に頷く。
マーズは意外にもこの状況において冷静だった。
無論、冷静でなければ軍人とはいえないだろう。ただ、彼女も人間だ。何か不測の事態が起きてしまえば、彼女とて冷静を保てないだろう。
アーデルハイトが冷静を保てていないからこそ、今は彼女だけでも冷静を保たねばならない――そう思っていた。なにせ『新たなる夜明け』から来た二人を除いて残りのメンバーは少し前まで学生だった身分だ。
そんな人間がいきなり戦場に放り込まれて『戦え』と言われて、戦うのは容易ではない。誰か経験者がリーダーでなくてはならないのだ。
恐らくヴァリエイブルの王はそれを推測した上でマーズを副騎士団長に推したのだろう。
だからこそ。
彼女は行動しなくてはならなかった。
「……アーデルハイト! チェシャ猫の言うことなんぞ聞いてはいけない!!」
「あーあ、外野はそういう事言ってるけれど、どうしちゃう? ここで踏み止まったらどうなるんだろうね?」
「聞くな!! 聞くんじゃあない!!」
アーデルハイトとチェシャ猫の攻防は続く。
ゆっくりと、ゆっくりとアーデルハイトは拳銃を上げていく。
その銃口の先には――蟀谷があった。
「やめろ!! やめるんだ!!」
マーズの必死な問いかけにアーデルハイトは答えない。
対して、チェシャ猫はその様子をただじっと眺めていた。
もうこれ以上チェシャ猫が押すこともない――そう判断したのだろう。
ただ、チェシャ猫はそれを眺めていた。
そして、アーデルハイトは引き金に手をかけた。
「アーデルハイトっ!! 早まるな!!」
マーズはまだ諦めてはいなかった。ずっと、声をかけ続けていた。
それに対して、ハリー騎士団の他のメンバーは目を瞑っていた。しかし『新たなる夜明け』のエルフィーとマグラスはただそれを眺めていた。
それが彼らの違い。
戦いを経験している者とそうでない者の違いだ。
戦いを若いうちから幾度となく経験しているマグラスとエルフィーの二人は、このようなことについて表情を変えたりなどしない。
対して戦い――ひいては戦争を初めて前線で経験した他のメンバーについては、今まで親しかった人間の自殺をする現場を目撃するというのは、あまりにも衝撃が強すぎた。だから彼らは決まって目を背けてたり目を瞑ったりしていた。
「エルフィー、他の人を責めてはいけないよ。彼らは『戦争』を身近で経験したことのない人材なのだから」
エルフィーがそれを咎めようとしたのを、マグラスが言葉で制した。
「どうして? 彼らは騎士団。このような現場は幾度となく目撃するでしょうし、幾度となく乗り越えなくてはならない。今ここで泣いたり目を背けたり……そうね、もっと強くいえば『逃げたり』している暇なんてないんじゃあない?」
「そうだ。エルフィーのいうことは正しいよ」
マグラスは頷き、話を続ける。
「でもね、彼らは前線にて戦争を初めて経験した人間ばかりだ。いきなり『慣れろ』などと言われて慣れる方が変わっている。忘れたとは言わせないよ、僕らだって最初は悲しかったはずさ、苦しかったはずさ、辛かったはずさ。そんな感情を誰しもが抱くものだよ、……特に最初はね」
「……だけれど、今は私も違う」
「それは慣れたからさ」
マグラスは結界の支配下に置かれているのに平然としていた。
「慣れたからこそ、このような光景を見ても普通でいられる。それは道理だ。だがね……だからといって初めてその光景を見る人が怖がった顔を見せたとしても、決して蔑んではいけないと思うよ」
「その通りだよ、マグラス・ディフィール。君の言うとおりだ。この状況を初めて見て怖がらない人間が居ない方がおかしいというものだよ。……少しは黙っているといい」
アーデルハイトは蟀谷に拳銃の銃口を当てたまま、ずっとそのままにいた。彼女はまだ最後の決心がついていなかったのかもしれなかった。
まだ銃を撃たないのを見て、チェシャ猫は小さくため息をつき、
「何だい、まだ判断を下さないのかい? 君は強突張りだね。さっさと撃っちまえばいいんだ。楽になっちまえばいいんだ。どうだい?」
「いい加減にしろ、チェシャ猫!!」
マーズは激昂し、結界を抜けようと試みる。しかし、何度やっても結界から脱出することは出来なかった。
「ハハハハハ! 何を言っても無駄だよ!」
チェシャ猫はアーデルハイトのすぐ後ろへと歩き、そこで立ち止まる。
アーデルハイトの腕は震えていた。すでに引き金に指を伸ばしていたというのに、その状態で停止していた。
アーデルハイトは無意識のうちに涙を流していた。
それは誰に対する涙なのか、誰にも解らなかった。
そして――アーデルハイトはその引き金をゆっくりと、そしてはっきりと引いた。
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