第３話　蜃気楼（３）

　皆が席につき、誰ともなく、思い思いに食事をとり始めた。

　ちなみに、今日の日替わり定食は、肉じゃがだった。ジャガイモに良い感じに、汁が染みており、見るからに食欲を誘う。
　そんな定食たちを、春香と鈴君は静かに音もたてず、ついでに、言葉も無く……対して、柴田はがっつくように、凄い勢いで掻き込み始める。
　そんな皆の様子を見て、俺も目の前の日替わり定食に手を合わせると、「いただきます。」と、唱和し、箸で肉じゃがを口に運んだ。
　ホクホクと崩れるジャガイモに舌鼓を打つ。
　汁に隠れていた牛肉を摘まみ、食べると、まだ肉に残っていた肉汁が、ジュワっとしみ出し、汁と混じり合って、肉独特の甘みと、独特の旨みを醸し出していた。
　ああ、これだ。これだよ。この肉とジャガイモのハーモニー。最高だ。
　その味をおかずに、白米を掻き込む。米の食感と甘さが広がり、一噛み毎に変化する味を楽しむ。
　本当に久々に食べた気がする。おかしいな。食べる機会など、幾らでもあったはずなのに。

　そうして、文字通り幸せを噛みしめていたのだが、誰かの視線を感じ、ふとそちらを見ると、朝から見かけている謎の少女と目が合った。
　そして、もの凄い勢いで逸らされた。いや、顔ごと逸らさんでも良いだろうて。

「あれ？　どうしたの？」

　そんなやり取りをたまたま目撃したのだろう。柴田が不思議そうに、声をかける。

「いや、何かその子に見つめられて……な？」

「佐藤君……その子とかぁ、幼馴染相手にそれは無いっしょ。」

　鈴君が少し呆れた様に、そう呟くのを聞いて、そう言えばそんな事を朝も聞いたなと思い当たる。
　思い当るのだが、俺の記憶にそれらしい物も無く……結果として、俺にとって、目の前で目を合わせようともしないこの少女は、赤の他人だった。

「……そう言われてもなぁ。俺、その子知らないし。」

　そんな俺のストレートな発言に、皆の食事の手が止まる。
　うん、まぁ、何となく、そうなる気はした。だけど、いつまでもこのまま、と言う訳にも行かないだろう。
　だから、俺は包み隠さず、そのまま言葉を続ける。

「その子だけ、俺の記憶には存在しないんだよ。だから、名前も分らん。申し訳ないが、どこかで会った事はあるだろうか？」

「いやいや、本気かい？　佐藤君。」
「なるほど。だから、雰囲気がおかしかったのかな。」
「確かに……今日の兄貴は、朝から様子が変だったからな。」

　柴田、鈴君、春香に、立て続けに言葉をかけられ、俺は苦笑する事しかできない。
　俺から言わせれば、この世界の方が、しっくりこない感じがあるのだが、まぁ、今は言うまい。
　余計に混乱する事は目に見えているからな。

「という訳で、失礼な話だとは思うが、お名前を聞かせて貰っても良いかな？」

　俺は、俯いて表情を見せない、目の前の少女に向かって、声をかける。
　本来ならば、本当に失礼な話だ。素のままなら、俺は申し訳なさで、こんな事言えやしないだろう。
　だが、俺は、ずっと違和感を覚え続けていた。そして、俺の中の何かが囁くのだ。
　この少女が何かを握っているってさ。

　行動がそもそも、おかしいもんな。
　何か、違和感を強く感じた場面で、この子が必ず近くにいた。
　まるで、何かをごまかすかのように、常に彼女は動いていたように、俺には思えてならない。
　この子には、何かある。それも、かなり重大な、何かが。

　と意気込んでいたら、机の下から、鈍い音が響いた。
　次いで、すぐさま上がって来る痛みが俺の意識を揺らす。

「～～～～っ！？」

　声を出すわけにもいかず、悶える俺。
　涙をにじませながら、俺は春香を見据える。

「兄貴、幾らなんでも、年端も行かない女の子に向ける目では無いぞ。それは。」

　一瞬、何のことか分からなかったのだろう。柴田と鈴君は突然、悶えた俺の様子を見て、次いで春香のその言葉で理解したようだ。
　俺が、春香に足を思いっ切り、踏まれたのだと。

「まぁ、まるで取り調べの刑事の様な視線だったもんね。吐け、吐くんだ！　ってね。」
「あれだねぇ。犯罪だねぇ。佐藤君、証言はしてあげるからねぇ。」

　柴田が苦笑、鈴君がにこやかにそう話すのを見て、俺は苦々しい思いを表情に出し、口を歪ませることしかできない。
　自業自得、という事だろう。まぁ、ちょっと勢い込み過ぎた部分はあるが、それにしたって、いきなり踏むなよ……。
　まぁ、それが春香たる所以でもある。言っていてちょっと悲しいが、そう言う物だし。

「ああ、ごめん。そうだな。では、改めて、聞くよ。お嬢さん、お名前を教えて頂けませんか？」

　俺は、無理やり営業スマイルを張り付けると、軽く頭を下げる。
　横で、我が妹の「うわ、ないわー。」とか言う無慈悲な声が聞こえたが、無視した。
　これ以上を求められても、俺には無理です。

　そんな俺の言葉に、暫く、無言で返した、少女だったが、大きく息を吸い、吐くと、顔を上げて、俺を見た。
　俺はその視線を真っ向から受け止める。胡散臭い笑みを浮かべながら。
　そんな俺に対して、花の咲くような笑みを浮かべて、少女は口を開いた。

「私、月島つきしま　瑠奈ルナって言います。ルナちゃんって呼んでくださいね♪」

「それは嘘だな。全力でお断りする。」

　俺の口から自分で思う間も無く、そんな言葉が突いて出た。
　目の前の少女は、何故かピースサインを横にして、瞼にかざすようにポーズをとっていたが、石になったかのように硬直した。
　同時に、一瞬、場の音が消える。

「え、ええぇ～？　お兄さん、なんでそんな事言うんですか！」

「そうだぞ、兄貴？　何で自己紹介をいきなり真っ向から否定するかな？　こっ恥ずかしい呼び名はともかく、名前に嘘も本当も無いだろう？」

　流石に、バッサリ斬りすぎたせいか、すかさず春香が毒を交えながら疑問を呈してくる。
「こっ恥ず……」とか、少女が呟いたような気がするが、俺は聞き流した。
　うん、まぁ、言葉を発した後で、すぐにそう言われると思った。だが、こればっかりは、説明のしようがない。解・る・のだ。

「えっと……佐藤君がそう言うからには、何らかの事情があるんだよね？」

　そんな俺に、柴田が、そう少し困ったようにフォローを入れてくれた。流石、我が友。

「いや、事情も何も、この少女はそんな名前ではない。以上だ。」

　再び、場が静寂に包まれる。
　正確には、周りでは今なお、学生達の食事の喧騒が響いているはずなのだが、この一帯だけ、切り取られたように音を失った様に感じる。

「え～？　佐藤君、流石に、それは～厳しいと思う、よ？」

　鈴君が場を持たせるために、困ったようにそう言うが、俺は譲る気が無かった。

「自分でもおかしな事を言っているのは自覚しているよ。だが、この少女は、嘘をついている。だから、その名前は使わせないし、使って欲しくはない。」

　そんな俺の頑なな態度に、親友二人は何かを感じたのか、苦笑するに留まる。

　この少女の名前は、そんな名前ではない。それは、俺の中で絶対だ。もう確信している。
　ましてや、ルナと言う名前であるはずがない。それも、揺るぎようがない。
　と言うか、何故だかわからないが、その名前を使おうとする事に対して、怒りすら覚えるのだ。
　何故そこまで、意固地になっているのか、俺にも分からない。だが、俺の根っこの部分がそう囁ささやいている。残念だが、ここは譲れない。

「うぅ、先輩～。お兄さんが、酷いです。」

　少女がこのままでは埒があかないと感じたのか、涙を浮かべながらも、春香に助けを求める。
　そんな様子を見れば、男であれば罪悪感にさいなまれるだろう。その位、少女は捨てられた猫の様な、庇護欲をそそる表情を浮かべていた。
　だが、俺は逆にそんな表情を見て何故か、イラッとくる。
　おかしい。何故だ。俺はそんなに短気な性格では無かったはずだが。
　そして、こんな事を、つい最近も体験した気がすると、ふと思う。はて？

　俺のそんな良く分からない感情とは関係なく、庇護を求められた春香は、鼻を鳴らすと、口を開く。

「それは、日頃の行いのせいだな。」

「ええぇえ！？　先輩がこんな所でも、酷い！」

　何故か、この状況で、春香にすら責められる少女に、既視感を覚える。
　それに何か、引っかかる言い回しだな？
　そう思うも、それが何なのか、俺には思いつかない。

「あ、けどけど、これってご褒美？　……はっ！？　今は……。」

　とか、なんか一人でモジモジし始めた目の前の少女を見て、俺はますます、心の中に、何か漠然とした重い何かをため込む。
　うーん、もう少しで何か、記憶が繋がりそうなんだが。どこだ？　どこで見た。
　俺が腕を組んで、唸っていると、少女が諦めたように、溜息を吐く。

「お兄さん、お兄さん、どうしても、私の事、ルナちゃんって呼んでくれませんか？」

「ああ、駄目だ。」

「うう、即答。」

「君は、ルナじゃないからな。まぁ、そうは言っても、名前が無いと不便だから、月島と呼べばいいか？」

「うぅ、それだと困るんです。」

「いや、俺は困らないんだが……。」

「あぁ、兄妹揃って、酷い！？」

　何か変なコントの様なやり取りになってきたが、俺は頑として譲らない。
　良くは解らないまでも、これは何か大事な事だ。直感で俺は、そう理解する。

　そんな俺の態度を見て、目の前の少女は何かを感じ取ったのだろう。
　再度、疲れたように溜息を吐くと、手を打ち鳴らし、

「やっぱり、そう簡単には行かないか。じゃ、一旦、仕切り直しをしましょ。」

　いきなりそう、呟いた。
　今までの雰囲気とは明らかに違う物を身にまとう。
　それは、例えるならば、生きていく中で身に着けていく、覇気の様な物だ。
　一瞬前までと余りに違う彼女の雰囲気に飲まれ、俺は汗を垂らす。
　おいおい、やっぱり別もんじゃないか。
　しかも、藪つついて蛇が出たわ。それも、大蛇だ。

　俺のそんな様子を見て彼女が微笑を浮かべた。それは、後輩とか可愛い少女が浮かべられるような物ではない。
　もしいるとするならば、それは魔女。色気と恐怖がない交ぜになったような、黒々とした物だった。

　ふと視線を巡らせると、周りにいた皆が、動きを止めている。

「あんた……。」

　何者だ？

　俺がそう続ける前に、彼女は再度手を打ち鳴らした。
　その瞬間、周囲の景色は搔き消え、同時に俺は支えを失い、暗闇へと落ちるように吸い込まれる。

「うおおぉ！？」

　そんな情けない叫び声しか出せない俺を、追うように、小さな声が響く。

「じゃあ、お兄さん、またね。クスクス。」

　そんな笑い声を聞きながら、俺の意識は闇に落ちたのだった。