スクールカースト殺人教室(新潮文庫)
Day1 (1)
1
月曜日の朝。まもなく午前七時になろうとしていた。それほど人通りは多くない。目の前の交差点で、一人のサラリーマンがタバコをふかしていた。信号に苛立ってか、細かく貧乏ゆすりをしている。
磯神ことりはため息をつくと、歩みを進めた。頰を伝う汗を手の甲でぬぐう。
空には、どんよりとした雲がかかっていた。梅雨の真っ只中であることを、嫌でも思い出させる。あと二週間もすれば、ここまでジメジメとはしなくなるのだろう。そして、身体を溶かすような暑さがやってくる。
暑い夏、ことりたちには夏休みがあった。そのあいだも、あのくわえタバコの中年サラリーマンは汗を流しながら職場に通い続ける。そう考えると、少し気の毒な気がした。
しかし、それとこれとは話が別だ。
ことりは不機嫌そうなサラリーマンの横で足を止めた。タバコ混じりの汗のにおいが鼻先をかすめ、思わず顔をしかめてしまう。
気配に気づいたサラリーマンが、胡散臭そうにことりを見た。女子高生だと気がついたからか、途端に表情がゆるむ。
「なにか用かい?」と猫なで声で訊いてきた。
「ここは路上での喫煙禁止です」
「へ?」
「聞こえませんでしたか。ここは路上での喫煙禁止です」
男はあ然としたようにことりを眺めていた。そのあいだも、タバコの先からは煙が立ち上っている。
「……いや、知ってるけど」
ことりはやれやれと首を振った。
「なら、早く消してください。周りの迷惑です」と辺りを見回す。
信号待ちをするサラリーマンやOL、学生が固唾を飲んでこちらを見守っていた。
「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ」男がむっとした顔で言い返してくる。
「なんでって?」ことりは目を見開いた。「もちろん、ここが喫煙禁止だからです」
「分かってるって言ってるだろう」
「分かっててやってるんですか」ことりはあきれて肩をすくめた。「おじさん、大人でしょう。いい歳して、なに言ってるんです?」
男の顔が真っ赤になった。タバコを投げ捨てると、乱暴に革靴で踏みつける。
「これで文句ないだろう」
ことりはため息をついた。
「非常識な人……」
「なんだと?」男が凄んでくる。
「──おい、やめろ」口をはさんだのは、二十代前半とおぼしきスーツ姿の男だった。「悪いのはおっさんだろ。逆ギレすんなよな」
信号が青に変わる。『通りゃんせ』が流れ始めた。しかし、周囲にいた誰もが、すぐには動こうとしない。
中年サラリーマンはしばらくことりを睨んでいたが、やがて顔を背けると、大股で横断歩道を渡り始めた。反対からの通行人に混ざって、すぐに姿が見えなくなる。
見物していた人たちのあいだに、ホッとした空気が流れた。パラパラと拍手が起こる。「勇気あるなあ」という声が聞こえた。
「あのおっさん、最悪だな」
先ほど口をはさんだサラリーマンが、笑顔で話しかけてくる。日に焼けた肌に白い歯が光って見えた。
ことりは男を冷ややかに見据えると、「あの方、いつからタバコ吸ってました?」と質問した。
え、とサラリーマンが声を漏らす。
「私が来る前から吸ってましたよね」
「……そうだっけかな」
そうです、とことりは断定した。
「あなたも隣で嫌そうに顔をしかめてたじゃないですか。なのに、どうして注意しなかったんです?」
「どうしてって……」
「どうして注意しなかったんです?」改めてそう口にすると、ことりはその場にいる全員を見回した。
目が合うと、誰もが後ろめたそうに顔を伏せる。足早に立ち去る人も出始めた。反対側から来た人たちは、なにごとかと不思議そうな顔でことりたちを眺めている。
「助けてやったのに、そんな言い方しなくてもいいだろう」サラリーマンが不服そうに口を尖らした。「かわいくねえなあ」
「かわいくなくてかまいません。私が訊いてるのは、どうして注意しなかったのかってことです」
「できるわけねえだろ」
「どうして?」
「世の中はそういうもんなんだよ」
「あなたのような人が、世の中をダメにしてるんじゃないんですか」
「ガキが世の中、語ってんじゃねえ」
「人の尻馬に乗るしかできない人よりマシだと思いますけど」
「……俺のこと言ってんのか」
「失礼します」
ことりは男を残したまま横断歩道を渡り始めた。しばらくして、「ムカつくな、ブス!」と吐き捨てるような言葉が、背後から浴びせられる。ことりは歩きながら、小さく息をついた。
世間は、本当におかしなことばかりだ。間違っていることが、あまりにもあふれ返っている。世間だけではない。学校でも同じように理不尽なことがまかり通っていた。
ことりのクラスでは、おかしな担任教師が幅を利かせていた。羽田という二十六歳の若い男性教師が、生徒をあからさまに差別するのだ。ことりが小中と見てきた教師の中でも、その露骨さはずば抜けていた。羽田からの扱いに耐え切れず、ひと月近く、不登校になっている女子生徒もいる。
それだけではなかった。ことりのクラスは、ほかにもさまざまな問題を抱えている。クラス委員として、悩ましいかぎりだった。
大通りから右へ曲がると、住宅街の細道へと入っていく。しばらくして道はゆるい坂になり、それが階段へとつながる。そのダラダラと長い階段を上り切ると、私立西東京学園高等学校の正門だった。いつもどおり、正門にたどり着くまで誰にも会わなかった。
一緒に暮らしている従兄の大杉潤からは、「サッカー部の俺より早起きなんだからなあ」といつもあきれ気味に言われている。潤は同じ西東京学園に通う三年生だった。
体育館の横を通り過ぎ、グラウンドを迂回するアスファルトを歩いて校舎へと向かう。昇降口で、上履き用のスリッパに履き替えると、一年生の教室がある三階へと上がっていった。
そういえば、再来週は両親と姉の命日だ。伯父と伯母はもちろん覚えているだろうが、墓参りについては、ことりから切り出したほうがいいだろう。
真っ直ぐに生きるんだ──。
家族三人を亡くしたとき、ことりは心にそう誓った。あれから三年、あっという間だった気もすれば、ずいぶんと長かった気もする。四月に誕生日を迎えて、ことりは当時の姉の年齢を超えた。そう考えると、感慨深い気もする。
三階に到着すると、廊下を奥へと進んでいった。D組の教室は三階の突き当たりに位置している。スリッパの音が、誰もいない廊下に響き渡った。
ふと窓に映る自分の姿が目に入った。黒縁メガネをかけた瘦せっぽちの女子が、不機嫌そうな顔でこちらを見つめている。思わず視線をそらしてしまった。
ことりは自分の容姿が嫌いだった。つい周囲に厳しくなるのは、結局、そのせいなのかもしれない。
一年D組の教室に到着すると、ことりは扉の前で足を止めた。
とにかく、今、ことりがやるべきことは、クラス委員として、一年D組が抱える問題を一つでも多く解決することだ。
「さて──」と気合を入れるために自分で頰を叩く。
短く息を吐くと、扉を開けた。
2
灰色の雲が上空をおおっている。いつ降り出してもおかしくないほど、空気が湿気を帯びていた。長い階段を上ってきたせいか、額には汗がにじんでいる。
中庭の真ん中で足を止めると、永沢南はぐるりと周囲を見回した。窓から無数の目がこちらを見下ろしている。校内に侵入した異物を値踏みするような視線だった。
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