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オトナな副社長と秘密の恋

立花実咲

◆3 ハートは奪われた (1)

◆3 ハートは奪われた


 市ヶ谷副社長の視線が私を通り過ぎ、閉じられたドアの方へ行く。

「かわいい人だね。早く会いたくて仕方ないんだろう」

 なんのことを言っているのだろう、と空気を読めていない私に、市ヶ谷副社長は教えてくれた。

「聞かなかった? 彼女、黒河美羽さんは、社長の奥さんなんだよ。間もなく、産休に入る準備をしてるところなんだ。あと二ヵ月かな」

「そうなんですか」

 黒河、という名字だし、言われてみればおなかがふっくらしていたような気もする。

 緊張して自分のことで精いっぱいだったから、そこまで目がいかなかった。

「秘書は、そういうところも見ていないとね。補佐的な役割をするだけじゃなく、機敏にならないと」

「はい。申し訳ありません。とっても緊張していて……」

 弾かれたように私は、背筋をピンと伸ばす。すると市ヶ谷副社長は笑った。

「ああ、君を叱りたくて言ったわけじゃないから、そう委縮しないで。すぐにそうなれということじゃないよ。社長秘書の彼女も、最初はなにも分からなかった。社長のそばにいて変わっていったんだよ。君にも、僕のことを知ることから、始めてもらえるとうれしい」

「分かりました。あ、あの、お聞きしてもよろしいでしょうか。なぜ、新人の私を?」

「君のモチベーションが上がるという理由なら、教えてあげてもいいけど。別の理由を欲しがるなら、言わない」

 試すように市ヶ谷副社長は言って、私に近づく。彼が一歩近づくたびに、私の視線はゆっくりと上になって、立派な喉仏が見えるくらいまで近くなる。すると、はじめて出逢ったときに感じたあの香りがした。

「君がプライマリーのランジェリーに賭ける熱意は、人事部長から聞いていた。次のコレクションに向けた商品開発プロジェクトでは、僕が引率することになってる。研究熱心な君からいろいろ意見をもらえたらうれしいと思ってね」

 端正な顔立ちには、年齢を重ねた分の渋さと、永遠に少年と呼べるようなやんちゃさが同居しているようだ。間近で見つめられて、息が止まりそうになる。

 思わず首根っこをひゅっとすぼめると、

「一番は、子猫みたいな君がタイプだからかな」

 そう言って皺を刻んだ極上のほほ笑みは、どう考えても反則だ。タイプだなんて言われて、たちまち私は頬が熱くなるのを感じた。

「元気なパワーをもらえそうな気がする」

 市ヶ谷副社長がそう言い直すと、ますます私は自分の顔が真っ赤になるのが分かった。

 イヤだ。私、なにを勘違いしているんだろう。なんとかその場つなぎの言葉を探して、ドキドキを押し隠す。

「どこか、調子の悪いところがあるんですか?」

「んー、あるとすれば、最近、低血圧なんだ。朝食がまともに食べられなくて、参ってる。だから――手を出して」

「え?」

 触れ合った指と指、まるで電流が走るみたいだった。冷たいなにかがひんやりと手のひらに落ちてきて、彼は私の手をぎゅっと握った。

 私の手の中になにか冷たいものが置いてある。

 これは……鍵? 手のひらの中で形を確かめていると、

「住所は――」

 ひそひそと私の耳のそばを通り過ぎていく、甘ったるい声に、ドキッとした。

 その瞬間、私の全身に今まで感じたことのない感覚がゾクゾクと走った。

 握りしめた手のひらが、緊張で開かない。

「これは君と僕のヒミツだよ」

「……あの」

 待って、とんでもないことになっていないだろうか。まさか、誘われている? 彼に限ってそんなことするはずがない。そう思うのは、私の恋するフィルターのせい? どうしよう。あの、から先が続かない。

 戸惑っている私を見て、市ヶ谷副社長はふっと口角を引き上げた。

「朝、起こしにきてほしい、君に。できたら一緒に食事をとってもらえると、助かるんだけど、ダメかな?」

「私が? いいんですか? でも、そういうのは仕事上どうなのでしょうか」

 脳内の情報処理がうまく働いてくれない。というか、もう故障してしまったようなパニック状態だ。

「ああ、落ち着いて。もしかして、ヘンなことを考えちゃったかな? 大丈夫。ごめん、心配しないで。前の秘書にもよく頼んでいたんだ。誰かがいるっていうことで意識改革できるんじゃないかって。一緒に朝食をとりながら仕事の話でもすれば、目が覚めていく。この年になってひとりでいるっていうのも考えものだね」

 と彼は自嘲ぎみに笑った。

 市ヶ谷副社長がヒミツだよ、なんて言うから、私はてっきり……勘違いしてしまったらしい。

 もしかして、私は、からかわれたのだろうか。

「冗談も通じるようになってくれると、ありがたいかな」

「……ごめんなさい」

「いいけど。初々しくて」

 私の顔はきっと真っ赤に染まっているだろう。さっき市ヶ谷副社長の声を感じた耳まで熱い。

 オトナの冗談が通じるほど、私はまだ成熟しきっていない。

 市ヶ谷副社長の色っぽい眼差しに捕まってしまうと、勝手にドキドキするんだから、どうしようもない。

「明日からよろしく。じゃあ、そういうことで君は秘書課へ戻って。僕はこれから会議だ。ジュネーブから戻ってきた社長にも挨拶をしないとね」

 市ヶ谷副社長は至ってスマートだった。私の動揺を分けてあげたいくらい。

 私は返事ひとつ返せていただろうか。これから仕事を始めなくてはならないというのに、甘い綿菓子をほっぺたいっぱいになるまで頬張ったような、そんなふわふわとした気分で、私は副社長室を出ることになってしまった。


 秘書室に戻ると、一番奥のデスクで、美羽さんが私を待っていてくれた。五人が向かい合って座れるようになっている広々としたデスクを眺めると、今、半分くらいが空いている。これから会議なので忙しいみたいだ。

 さっき市ヶ谷副社長に言われたことを思い出して美羽さんのおなかをよく見てみると、たしかにふっくらとしている。全体的に華奢なスタイルだからかあまり目立たないみたいだ。

「なんだかすごく話が長かったみたいだけど、大丈夫?」

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