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愛を教えて+α 【完全版】

御堂志生

第一部 (3)

 液晶画面は通話中から待受け画面に変わった。

 万里子も渋江の声はよく知っている。家族ぐるみの付き合いで、今夜も父と一緒に、渋江の還暦祝いのパーティに呼ばれていた。それだけではない。東西銀行は千早物産のメインバンクだ。その渋江から二度も『頼む』と言われては、無下に断ることなどできない。

 携帯電話を返すと、彼は流れるような動作で助手席のドアを開けてくれた。しかし、万里子はそれをあえて拒否し、自ら後部座席のドアを開ける。万里子は仕方なく、初対面の卓巳の車に同乗したのだった。


☆ ★ ☆


 車が到着したのは千代田区にある一流ホテル。当然のように、万里子は警戒する。

「申し訳ありませんが──どれほど重大なお話かは存じませんが、こういった場所のお部屋に同行する訳にはいきません。帰らせていただきます」

 車から降りるなり万里子はきびすを返した。

 そんな彼女の腕を、卓巳はいきなり掴む。

「ここまでついてきながら?」

 それはまるで万里子をあざ笑うかのような声。万里子は慌ててその手を振り払い、卓巳を見上げてにらんだ。

「頭取が、若いあなたに敬称を付けておられました。ただの弁護士さんではないのだと思い、頭取の顔を立てようと思っただけです。そんなふうに言われるのは心外です!」

「それは失礼」

 そのひと言で、卓巳から発する嘲りを帯びた気配は鳴りを潜める。

「ご案内するのは客室ではありません。最上階のレストランに個室を予約してあります。──どうぞ」

 言いながら卓巳は指先でベルボーイに指示を出した。すると、支配人自らが飛んでくる。ふたりはあっという間にエレベーターまで誘導された。卓巳は万里子からノーと言う時間を奪う。エレベーターの中に息苦しいほどの沈黙が広がった。

 最上階に到着し、扉が開いた瞬間、なんと十人を超える従業員が整列し、一斉に「いらっしゃいませ」と頭を下げた。

 そのレストランは万里子も利用したことがある。案内係や入り口付近に立つフロア係に言われるならともかく、シェフらしき男性まで勢揃いして迎えるなどありえない事態だ。

「あなたは……何者なんですか?」

「おかしなことを。先ほど名刺を渡したはずですが」

 卓巳は整った顔に全く表情を浮かべず、万里子を振り返った。あれは間違いなく渋江の声だった。この男性は社会的には地位の高い人物なのだろう。それでも、信用してついてくるべきではなかったのかもしれない。

 万里子はそんなふうに、思い始めていた。


 そこはサロンと呼ばれる個室だった。窓からは迎賓館や明治神宮などが見渡せ、眺望は素晴らしいものだ。親しい人と、ゆったりとした食事の時間を楽しむなら、最高の場所といえる。

 テーブルを挟んだ向かい側に、弁護士を名乗る不遜な態度の男性がいなければ。そして、目の前に置かれた書類が、千早物産の窮状を告げるものでさえなければ……。

 千早物産のここ数年の売上高や純資産のグラフ、貸借対照表や損益計算書など。その中のいくつかの数字は実際のものとは違っていた。だが、経理に関して素人の万里子に気づけるはずがない。

「あの……これは」

「これは渋江頭取から預かったものです。あなたにはご理解いただけないかもしれませんが。正直に申し上げて、お父上の会社は倒産の危機にあるということです」

 万里子は並べられた書類に戸惑いを隠せずにいた。メインバンクである東西銀行に資金繰りを頼んでも不自然ではない。だが、万里子の父は簡単に事業拡張や新規投資の計画を立てる人間ではなかったはずだ。第一、いくら弁護士とはいえ、渋江が赤の他人にこういった重要書類を見せたりしないだろう。

 万里子の中で、卓巳に対する疑問が膨らんだ。

「私は父からそんな話は聞いておりません」

「お嬢さんには話し難かったのでしょう」

「いいえ! 父は社員のことや、会社の安定を第一に考える人です。人材や設備に投資しても、目先の利益のために、ハイリスクな新規事業に投資したりはしません」

 万里子は事業計画書にざっと目を通すと、それを卓巳のほうに押しやった。

 卓巳はわずかに眉をひそめ、万里子の怒りに満ちた視線を受け止めた。そのまま無言で立ち上がり、窓際まで歩み寄る。

「お話がそれだけなら、私はこれで失礼いたします」

「二ヶ月前、うつグループ副社長との縁談を断っていますね」

 帰ろうとして立ち上がった万里子の動きが止まる。

「それが何か?」

「副社長は三十五歳で再婚。あなたにとって条件は悪いが、千早物産にはすこぶるよい条件だったと聞いています」

 縁談があったのは事実だ。だが、条件がなんであれ万里子に受けるつもりなどない。それにあの縁談は『相手が悪い。万里子には早過ぎる』と、父のほうが率先して断ってくれた。

「そういったお話があっただけです。父も反対しておりました。それが今回のお話とどんな関係が……」

「お父上の人柄をご存じでしょう? どれほどの窮地に立たされようと、娘を売るようなことはなさらないはずだ。違いますか?」

 万里子の返事に卓巳の声が被さった。

 その言葉に、ここにきて初めて、万里子の心が揺れる。

「百年に一度の不況と言われる昨今──優良企業と呼ばれる会社がどれほど倒産しているか、お嬢さんはわかっておられるのだろうか?」

 万里子に芽生えた不安の火種を、卓巳は見事に煽り立てる。そのまま出て行くことができなくなり、再びストンと椅子に腰を下ろしてしまう。

「今日のパーティ、渋江家で行われる頭取の還暦祝いですが。実はあなたと、あちらの息子さんとの見合いだと言うことはご存じですか?」

「それは……はい。聞いております。しかし、形だけだと父は申しておりました」

 万里子は即答した。

 渋江には娘がふたり、息子がひとりいる。娘ふたりはすでに結婚しており、合計三人の孫がいたはずだ。ひとり息子のひろは現在二十六歳。国立大学を卒業して、今は東西銀行の地方支店に勤めている。その弘樹が、先日の万里子の縁談を聞き、慌てて名乗りを上げたのだと言う。

『ふたりともまだ若い。結婚は数年先ということで、気が合うようなら婚約してはどうだろう?』

 そう渋江から打診されたのだ。

 この話には、万里子の父も闇雲に反対とは言わなかった。

 だが、万里子は断った。娘を溺愛する父が、嫌がる彼女に結婚を無理強いする訳がない。万里子の父が正式に断った結果、形だけでも見合いをして、後日、〝渋江家側から〟断られる予定になった。それで渋江や後継者である弘樹の面目が立つなら、と見合いを承諾した。

「残念ながら、今夜の見合いは形だけではありません。あなたが結婚を承諾しなければ、あなたのお父上の会社はたちまち危うくなる」

「そんなっ! 頭取はそんな方ではありません。ご子息の弘樹さんも……子供のころから存じております。藤原さんと言われましたね。あなたのほうが誤解しておられます」

 むきになって否定する万里子を、卓巳は作り物とわかる笑顔でやんわりと受け流した。

「いいえ、誤解しているのはあなたです。見合いの相手は弘樹くんではない」

 卓巳はひと呼吸置くと、とんでもない台詞を一気に言い放った。

「相手はこの私です。私があなたを指名しました。あなたには私の妻になってもらいます。断った場合、千早物産は明日にも倒産、自宅も差し押さえられ、あなたとお父上は住む家もなくなるでしょう」

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