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溺愛社長とウエディング

水島忍

第一章 仕組まれた結婚 (2)

 でも、一生懸命、仕事をしているわ。

 少しでもおじ様のためになるなら、なんでもするつもりよ。

 長い髪はうなじのところでひとつに結んでいる。母がこの髪をれいだと褒めてくれたから長いままにしていたが、もういい加減、短く切って、大人の女らしい髪形をしたほうがいいだろう。

 手早く簡単な化粧をすると、黒いバッグを持って、一階に下りていく。

 ダイニングルームのほうで話し声がするので、挨拶をするために顔を出した。

 一枚板の大きなテーブルには幹夫とその妻のよしがいた。幹夫は五十代後半だが、髪が薄くかつぷくもいい。そのせいか年齢より少し老けて見えるようだ。対照的に、嘉子は年齢を感じさせない美貌を保っていた。

「おはようございます、おじ様……おば様」

 二人に声をかけると、幹夫はにっこり笑った。

「おはよう。もう出かけるのか?」

「はい、行って参ります」

 明るい調子で挨拶したのだが、嘉子のほうは冷ややかな顔でうなずいただけだった。詩帆は彼女に嫌われているのだが、それも仕方ない。誰だって、余計な居候など受け入れたくないに違いない。家政婦として働いてみたところで、彼女の気持ちが和らぐわけではないだろう。

 玄関へ向かうと、ちょうど堀田家の長男であるだいが下りてきた。大樹は二十九歳で、幹夫とは別の会社で働いている。といっても、雑用係のようなことをしている詩帆とは違って、彼はこの若さで課長なのだそうだ。きっと仕事ができるのだろう。

 でも、そのわりにいつもゆっくり出勤しているんだけど……そういう会社なのかしら。

「おはようございます、大樹さん」

 詩帆は笑顔で挨拶した。

「ああ、おはよう。もう出勤するんだ?」

 彼はガウン姿で、大きなあくびをしている。スーツを着れば格好よく見えるのに、ひげっていない今はただ怠惰な雰囲気を醸し出していた。

 どちらにしても、わたしとは違う世界の人だわ。

 大樹のほうでも詩帆のことは、どうでもいい人間だと見なしているところがあった。彼も嘉子と同じように、居候の詩帆にいい感情は抱いてないに違いない。

 大樹がぶらぶらとダイニングルームへと入っていくのを見送って、詩帆ははっと我に返った。こんなことをしている場合ではない。玄関脇の小部屋がシューズ・クロークになっていて、そこの片隅から自分のくたびれた黒いパンプスを取り出して履いた。

 こういうところは、ちゃっかり家族と同じ場所を使わせてもらっているのだから、自分の立場は中途半端だ。いっそ勝手口から出入りしたほうが、気が楽かもしれない。

 詩帆は玄関を出ると、小走りで駆けていく。

 バスに乗り、それから電車に乗り換える。早くしないと、それこそ遅刻してしまいそうだ。けれども、詩帆の朝はいつもそうだった。

 友人はみんな『楽しみなんかないじゃないの。まるで奴隷みたいよ』と言うけれど……。

 わたしはこれで幸せよ。

 大好きなおじ様に恩返しができるんだもの。

 詩帆はそう思いながら、バス停へと急いだ。



 会社に着くと、詩帆は更衣室で制服に着替えた。

 襟にリボンがついた白いブラウス、チェックのベスト、そして膝丈の黒いタイトスカートで、清楚せいそだけどなかなか可愛かわいいものだ。ロッカーの裏に取りつけた小さな鏡で身だしなみをチェックしていると、更衣室の扉が開いて誰かが入ってきた。ちらりと見ると、同期の高山翔子たかやましようこだった。

「おはよう!」

 笑顔で声をかけると、彼女はゴージャスな巻き髪を揺らしながら近づいてきて、挨拶を返す。

「おはよう。詩帆があたしより早く来てるなんてめずらしいよね」

「たまたまバスが早く駅について、早い電車に乗れたの」

 詩帆はいつもギリギリに会社に着いて、先輩達からいつも睨まれているのだ。それでなくても、社長の家に居候しているということがばれて以来、たいして使えないのに社長のコネで入社したと聞こえよがしに言われている。

 でも、実際、コネなんじゃないかと自分でも思うわ。

 社長の家に居候しているということは秘密にしておきたかったのだが、詩帆が配属された総務部の部長がすでに幹夫から聞いていて、そのことをみんなの前で言ってしまったのだ。もっとも、腫れ物に触るような扱いではなく、嫌われているからこそ用事をたくさん言いつけられるので、かえってよかったかもしれないと思う。

 だって、わたしはおじ様の会社のためにたくさん仕事がしたいんだもの。

「詩帆はさあ、大変だよねえ」

 翔子は着替えながら話しかけてくる。

「え、何が?」

「朝早くから起きて、家政婦みたいなことしてるんでしょ? あたしならもう一人暮らしを始めてると思うけど」

 確かに、そうするべきかとも考えた。いつまでも居候するより、離れて暮らすほうがよほど堀田家の家族のためになるのではないかと。

 少なくとも、幹夫以外はみんな詩帆を煙たがっている。ただ、詩帆が恩義を感じているのは幹夫だし、幹夫は詩帆を追い出したいとは思っていないようだ。それどころか、とても可愛がってくれているのがなんとなく判る。

 だから、多少、居心地が悪かろうと、彼の家族がなんと思おうと、家政婦の真似事をやめたくなかった。

 もちろん、友人達は大変だろうと心配してくれているけれど……。

 そして、翔子もその一人だ。

「わたしは恩返しのためにしていることなんだから……いいのよ」

「恩返しねえ。そういう律儀なところが詩帆のいいところかなあ」

 翔子は着替え終わると、髪をひとつにまとめる。そうすると、派手な巻き髪もおとなしく見えるから不思議だ。

「さあ、仕事を始めなくちゃね」

 詩帆は翔子と二人で更衣室を出た。



 詩帆の仕事は多岐に亘る。という言い方をすれば格好かつこういいが、庶務課所属なので、主に雑用だ。

 用事を言いつけられればなんでもやる。会議室の手配をしたり、お茶を出したり、資料を作成したり、コピーを取ったり、それを揃えてまとめて配布したり、備品を発注して、一旦、総務に配送されてきたものをあちこちに社内に配り歩くことまでする。

 たまに、急を要しない入力仕事も与えられるが、入力している合間に雑用をしているのか、雑用している合間に入力しているのか、よく判らなくなってくる。どのみち、とても忙しくて、ビルの上から下まで走り回っていることが多かった。

 しかし、詩帆は忙しいほうが好きだった。いかにも仕事をしているという気がする。大した仕事ではないかもしれないが、少しでも幹夫に貢献できているというところがうれしかった。

 それに、コネ入社だと白い目で見ていた社員のみんなも、徐々に詩帆が頑張っていることを認めてくれるようになってきたような気がする。

 明るく挨拶したら、同じような笑顔を返してくれる人も増えてきたもの!

 半年前は無視されることも多かったから、かなりの進歩だ。

 昼休みに社員食堂でランチを摂っているときに、翔子にひそひそ声で話しかけられた。

「あたし、今日、噂話を聞いたんだけど……」

「どんな? また誰かと誰かが付き合っているとか、そういうこと?」

「あなたの『おじ様』、娘を結婚させたがっているそうよ。それも政略結婚」

 詩帆は眉をひそめた。

「政略結婚って……この時代に?」

「今の時代にだってあると思う……たぶん。知らないけど」

 まさかあの優しい幹夫がそんなことを考えているとは思えない。しかし、最近、よく佐紀に付き合っている男性がいるかどうか尋ねたり、結婚する気はあるのかどうかを確かめたがっていた。

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