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溺愛社長とウエディング

水島忍

序 章 / 第一章 仕組まれた結婚 (1)

 遠くで子供のはしゃぐ声と大型犬がえる声が聞こえてくる。

 そして、男性の優しい声が……。

 あれは誰……?

 目を閉じた詩帆しほは男性の姿を思い浮かべた。

 背が高くて、すらりとした細身なのに筋肉質な体形で、脚が長い。彫りが深い整った顔立ちで、眉は男らしく、鼻筋は通っている。口元は引き締まっていて、目はやや鋭くて……。

 でも、笑うと、とても優しそうな顔になるのよ。

 あなたは……誰?

『詩帆……』

 彼の声が聞こえてくる。

 あれはわたしの旦那様よ。

 子供はわたしの子で……。

 芝生の上で元気な子供と大きな犬が転げ回って遊んでいる。

 それを想像すると、涙が出てきた。

 悲しいわけではなくて、とても幸せだから。

 わたしはずっと家族が欲しかった。どんなものより家族が欲しい。両親を亡くし、たった一人になったときからずっと……。

 詩帆は両手を差し出した。

 わたしを一人にしないで。わたしを迎えにきて。

 どうか……。

 はっと目が覚める。

 詩帆は薄暗い部屋で一人きりだった。夢を見ていたのだ。憧れの家族が手に入った夢だ。現実なんかではなかった。

 身体を起こし、ためいきをつく。

 わたしは独りぼっち……。

 いいえ、わたしには家族はいないけれど、友人がいる。独りぼっちじゃないわ。

 長い髪をかき上げ、そっと微笑ほほえむ。

 まだ恋も知らない。だけど、いつかは夫になる人に巡り合うのだ。そして、思い描いたとおりの幸せな家庭を手に入れる。

 それがいつのことなのか、まだわからないけれど……。

 いつかわたしを愛してくれる人が現れる。今はまだ運命の人に出会っていないだけ。けれども、出会ったら、すぐに判るに違いない。

 その人が『そう』なんだって。

 二十二歳の青木詩帆はその境遇と年齢のわりに、恋を夢見る乙女そのものだった。

 堀田家の朝は忙しい。

 少なくとも、居候の詩帆にとってはそうだ。

 Tシャツにジーンズを穿き、エプロンをつけた詩帆は、豪華なキッチンで立ち働いていた。しるはもう作った。グリルでさけを焼きながら、同時に溶き玉子をフライパンに流し、オムレツを作っていた。コーヒーメーカーからはかぐわしいコーヒーの香りが漂ってきている。

 そのうちに室内間で話せるインターホンから、堀田家の娘、の声が聞こえてきた。

「朝食はまだなの? 早くしてよ」

「はい! すぐにお持ちしますから」

 詩帆はトースターに食パンをセットし、オムレツを皿に盛り、ホットプレートで温めておいたウィンナーと温野菜を添える。そして、トーストとロールパンを皿に置き、コーヒーを注いだ。バター、ジャム、それからカトラリーなどをすべてそろえてトレーに載せ、二階の佐紀の部屋へ持っていった。

 佐紀はネグリジェにガウンを着た姿でロココ調のソファに腰かけていて、朝食をテーブルの上に並べようとする詩帆をにらんだ。

「時間どおりに用意してくれないと困るじゃないの。わたしはあなたと違って、お店の責任者なんですからね。立場が重いのよ。遅刻なんかするわけにはいかないんだから」

 佐紀は詩帆より五つ年上の二十七歳でありながら、おしゃれなブティックを経営していた。今はネグリジェ姿でも、本来の彼女の服装はとてもファッショナブルで、まるでモデルのようにも見える。しかし彼女は店のオーナーで、ただのOLで他人の家に居候しながら住み込み家政婦をしている詩帆より、ずっと責任は重いのだ。

「申し訳ありません。今日は和食がいいとおじ様がおっしゃっていたから……」

 佐紀の朝食は絶対に洋食でなければ叱られるのだ。どちらか片方ならともかく、両方作るのは手間がかかる。

「言い訳をしないの。あなたのためを思って、言ってあげているのよ。仕事でミスしたときに、あなた、誰かのせいにするの?」

「……すみませんでした。これから気をつけます」

 詩帆は頭を深く下げて、許してもらった。確かに誰かのせいにするなんて卑怯ひきようなことだ。最初から素直に謝ればよかった。

 大急ぎでキッチンに戻り、和食の朝食の仕上げを始める。もうすぐこの堀田家の主人であるみきが二階の寝室から下りてくる時間だ。

 今から六年前、両親を交通事故で亡くした十六歳の詩帆は、父の友人であった幹夫に引き取られた。

 あの事故は悲惨なものだった。父は居眠り運転で対向車と正面衝突してしまい、助手席にいた母共々、亡くなってしまった。相手のほうも死亡し、賠償金を払わなくてはならなくなったのだが、恐ろしいことに車の保険がちょうど切れていた。

 相続した生命保険金も貯金も賠償に充てることになり、残された金額は二十万ほどで、一人っ子の詩帆はただぼうぜんとしていた。

 祖父母もおらず、親戚から冷たくされ、誰も頼る人がいない。そんなとき手を差し伸べてくれたのが、昔から詩帆が『おじ様』と慕っていた幹夫だった。

 幹夫は大手の食品会社を経営していて、裕福な生活をしている。しかし、一人残され、心細くてたまらないときに、血のつながりもないのに自宅に引き取ってくれたことは感謝してもしきれない。しかも、高校はおろか大学まで学費を出してくれた。

 だから、その恩になんとか報いたいと思い、こうして住み込み家政婦らしきことを少しさせてもらっている。とはいえ、詩帆は大学卒業後、幹夫の会社で働いているので、家政婦としては本当に大したことはやっていない。

 そもそも、ここは『家』というより屋敷と呼ぶふさわしい建物で、詩帆だけでは手が回らないからだ。

 広い敷地に大きな屋敷。プールがあり、車庫には外車が何台も入っている。庭は庭師が手入れしていて、家政婦は時間制で何人も雇われている。もちろん全員がプロフェッショナルで、きちんとしたスキルがある。ときどき、詩帆は彼女達の邪魔をしているのではないかと思うくらいだ。そして、幹夫も仕方なく詩帆に家政婦の真似事まねごとをするのを許しているだけではないかと。

 おじ様はとても優しい方だから……。

 だから、その優しさに甘えないようにしなくてはいけない。学費も少しずつ給料から返している。そして、会社でも少しでも幹夫の役に立てるようにと、微力ながら仕事を頑張っていた。

 慌ただしく食事の用意をしていると、出勤してきた家政婦の矢代がキッチンに入ってくる。彼女はずいぶん前からこの堀田邸で働いていて、詩帆もよく知っていた。彼女は料理がプロ並みに上手で、時間制の他の家政婦とは違って、堀田家のメインの家政婦と言える。他の家政婦も彼女の指示に従うのだ。

「詩帆ちゃん、後はわたしがするから、あなたもすぐにご飯を食べてしまいなさい」

「でも、もう少し……」

「遅刻しちゃうわよ」

 時計を見ると、確かに遅刻しそうな時間だ。矢代の言葉に甘えて、キッチンにあるテーブルにつき、慌ただしく食事をする。

「ごめんなさい。ちゃんとやれなくて……」

「いいのよ」

 矢代は詩帆の手から食べ終えた食器を奪い取り、にっこり笑った。

「早く支度しなさい」

「はい、ありがとうございます」

 詩帆は慌ただしく一階の端にある自分の小さな部屋へ行き、エプロンを外すと、鏡の前で身支度をする。

 白いブラウスに膝丈のふんわりとしたベージュのスカートを穿き、黒いジャケットを羽織った自分はいかにもまだ新入社員といった雰囲気だ。会社では制服に着替えるのだから、出勤のときは何を着てもいいはずだが、まだ冒険もできない。実際、入社してまだ半年にしかならないからだ。

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