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サウスベリィの下で

原田宇陀児

5._6.

5.

「ふっ……」

 ドキドキしながら目を開けると、そこにいるのは、やっぱり姉さんだった。

 空気の香りが異様に甘い。そんな、風に靡く彼女の長い黒髪は、まるで終幕のように僕たちふたりを覆い隠そうとしている。

 姉さんのほうは静かに呼吸を始めていたが、僕はまったく、それどころじゃない。顔が熱い。とりわけ唇のぬめりが何より熱かった。

「――あなたに」

 赤い、姉さんの真っ赤な唇が開く。息苦しいほどに、罪深いまでに甘いのは、その赤色だ。

「弟に私の初めてのキス、奪われちゃった……」

 心臓が高鳴るのに強がり、彼女は僕にそんなことを言った。

「か、家族同士でも……! 仲が良かったら……キスするのも普通だって、姉さんが……!」

「外国でならそうかもね」


 その彼女の戯言の意味に気づくまで、ずいぶん永くかかった。それまで僕は、自分のやったこと――やらされたことの本当の重大さを理解できなかったのだ。

 ずっと騙されてきた。少女時代の姉さんの仕掛けた計略に。


「嫌い? 私とキスするの?」

「…………!!」

 僕は必死に、激しく首を横に振る。

 いまだ赤く甘い流れに溺れる僕には、それは意地悪すぎる問いだった。姉さんの望まない応答なんて、できるわけがないのに。

「嫌いじゃ、ないの?」

 こくん、こくん!

 声の出ない僕は頷くのに必死だ。どうしてこんなにも必死だったのか、自分でも判らない時期があった。のちに、姉さんが消失したときになって、その反応は愚かしいものではなかったと得心した。

「普通の男の子って――?」

 目を開けるだけで精一杯の僕に、姉さんはわざと顔を近づけて、あの少女特有の、甘い、甘い吐息を浴びせた。

「自分のお姉さんを好きになっちゃいけないのよ。あなた、もしかして、気が狂っているのかもね」


 正確な言葉は忘れた。ただ、そんな意味のことを言われた衝撃だけが胸に生々しい。

 たしかにひどい衝撃を受けた。だが、僕はそこで決して、姉さんを「嫌いだ」と言えなかった。それも、なぜかは判らない。

 そしていまでも言えないままだろう。


 ほどなく僕は姉さんに犯された。

 回を重ねる毎に常識を見失ってゆく僕たち姉弟の遊戯が、ごく一般的な道徳の領域――その線引きから逸脱した。無論、正常でも健康的でもないが、この上なく自然な成り行きでもあったと思う。

 僕は、姉さんのことが好きだ。愛している。それは当時もいまも変わらない。愛している。姉さんもまた、実弟の僕を愛していた。

 ただ、僕の恋心が淡く曖昧だったのに対して、彼女のそれはあまりにも激しく、熾烈だった。

 少年とはいえ、思春期を迎えようとしていた頃だ。僕も、それが“あってはいけない感情”だと感じてはいた。だから僕は、姉さんの長くて黒い艶のある髪を見ている時間が、何より幸せだった。

 しかし、ある日とつぜん平衡は崩れた。

 僕の前に、ひとりの少女が現れた。



6.

 生家で暮らしていた頃、僕は、家人以外とはまともに話のできない子供だった。当然、女の子どころか男友達のひとりもいなかった。必要を感じもしなかった。(これは現在でも変わらないかも知れないが)

 出会いの機会はじつに些細なこと、僕の家の郵便受けに1通、隣の屋敷への封書が紛れこんでいたのだ。

 その、隣の屋敷というのは、永く住人のない空家だったところについ過日、1家族が移り住んできたばかりだった。だから、郵便配達人がそれを忘れて、あるいは知らずに、その封書の宛先を僕の屋敷の住所番号の誤記と考えたのだろう。

 それを最初に見つけたのが、僕だった。僕は家の者に届けさせようとしたが、姉さんがそうさせてくれなかった。

 姉さんは意地悪だった。

 いちばん初めに見つけたのは僕なのだから、届けに行くのも当然、僕の役目だと彼女は言った。姉さんは僕の性格をよく判っている。だからこそ、僕を見ず知らずの他人の屋敷に出向かせたがった。いち面識もない隣人を呼び出し、満足に挨拶も交わせないまま封書を手渡して、真っ赤になって戻ってくる僕を見たかったのだろう。

 ともあれ僕は、たった1通の封書に、常ならない勇気と決意で臨むはめになった。


 隣家の門前で呼鈴を鳴らした。

「はあい?」

 建物のほうから返事が聞こえた。それは、まだ幼い少女の声だった。

「どなた様ですか?」

「あ、あのっ、僕はっ……」

 自分が何者で、どんな要件で訪ねたのかを必死に告げようとしながら、僕は、門の表札からこの屋敷の新しい主が草薙家だと知った。

「何かご用ですか?」

 奥から現れたのは、僕より年下と思える女の子だった。彼女は微笑んで、首をかしげる。

「こ、これが……。僕の……家に……」

「お手紙ですか? 間違って配達されたみたいですね」

「そうみたいで……す」

 僕は必死に告げて、少女に封書を手渡す。

「すみません。わざわざ、ありがとうございます。あっ、待ってください。ただいま屋敷の者を呼んで参りますから」

「えっ? いいえ!」

 自分でも驚くほどハッキリした声で、僕は首を横に振った。それを見て少女はクスッと笑った。

「お隣の方でしょう? 遠慮なさらなくて結構ですよ。もちろん、そちら様のお屋敷には、改めて主人がご挨拶に出向かれると思いますが」

「えっ? ええ……?」

 その時のそれは、いったい何だったのだろう? 少女の微笑みのせいだったのだろうか?

 僕は彼女に言われたまま素直に、屋敷から主人が現れるのを待った。黙って自分の屋敷に逃げ帰ることも考えつかずに。

 そして現れた草薙氏は、人の好い白髪白髭の老紳士だった。


 ところが僕は主人の老夫妻と意外にも和やかに会話ができた。

 その交流も楽しかったが、僕はこの日、とても大切な出会いをした。初めに門まで出てきてくれた女の子――彼女のことを、僕は知ったのだ。

 少女は、かえでさん――といった。

 彼女は草薙氏の孫でもなければ、子供でも親類でもない。草薙家の使用人だ。しかし実質的には、富の代わりに子供に恵まれなかった夫妻の“娘”だった。法律か何かの問題で正式に養子に迎えられないのか。何にしろ老夫妻は、かえでさんをとても慈しんでいた。

「そうだ」

 もっともっと彼女のことを知りたいと思っていたところに、草薙氏は言った。

「嫌でなかったら、どうか、かえでと友達になってくれないかな?」

 そのとき僕はいままでに感じたことのない喜び、気分の高揚を覚えた。そしてその日のうちに、僕とかえでさんは“友達”になった。


 門外の世界を怖がっていた自分が、自分で恥ずかしかった。

 もちろん、俄かに元気に外へ飛び出すようになれたわけじゃない。僕が屋敷の門を越えられたのはその外に、かえでさんが姿を見せたときだけだ。

 彼女が来るのは、毎日、決まって午後のいちばん退屈な時間だ。

 かえでさんと歩く街は、僕は、怖くなかった。いや。怖くはあった。しかし、それに勝る冒険心が僕の中に生まれるのだ。

 不思議だ。

 これまでの畏怖が巨大だっただけに、ふたりで駆け抜ける街はまさに新世界だった。

 広く雅びる市街の人ごみの中、かえでさんはいつも僕の手をギュッと握りしめた。

 その時まで――生涯でその時代だけとなるだろう――誰かに頼られた経験のない僕は、いつしかそこに、“友情”以上のものを見た。当時はそれと明確には判らなかったが。

 郷愁にかられるとき、僕は、あの小さな手にこめられた小さな力――その想いが、心に甦らないときはない。


 そんなことなどがあってのち、ほどなく僕は、姉さんに犯された。

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