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サウスベリィの下で

原田宇陀児

3.(2)

 重々しく煤けた建物には、およそ似つかわしくないテラスだ。

 温かみはあるものの、気品がまるで感じられない。開放的すぎるのだ。大海原から引退した老水夫――そんな趣きだ。この裏庭に向いたテラス部分だけは前の住人が造ったらしい。趣味は悪くないが、全景を眺める感性は疑わしい。

 だけど僕は、いつもここで作業をする。なぜなら――。

「もう、サウスベリィが実る頃なのね」

 テラスの上で姉さんが言った。例の、狭い裏庭に立つ1本の樹を眺めて。

「香りだけじゃなくて、ここからだと、樹ぜんたいが見られるのね」

 そう――。

 僕が、こんな薄暗い街のどん底の、不気味な建物での定住を決めた理由は、人前から姿を消したかったからだけじゃない。

 このテラスだ。この裏庭だ。そこに立つ1本のサウスベリィの樹なのだ。

「久しぶりに食べたくなったな」

「えっ」

「ジャム」

 姉さんは僕を椅子に圧して座らせ、斜め上から顔を覗きこむ。

「サウスベリィのジャム。サウスベリィソースよ」


『サウスベリィ』。

 初夏に慎ましやかな花弁を散らせ、この季節に愛らしい実を結ぶ落葉樹だ。

 その果実の色彩や風味から“ベリィ”との名で呼ばれるものの、ストロベリィやラズベリィ等のバラの仲間ではない。そこそこ丈のある樹木なのだ。正しい名称も何とかとあったはずだが――。

 しかし誰もがこの果実を“サウスベリィ”と呼ぶ。

 サウスベリィの果実は強い酸味と独特の甘さを持ち、その花の香りを淡く内部に残す。“サウス”と冠しているからには南方の樹木なのかも知れないが、詳しくは判らない。

 何より特徴的なのは、艶やかで悩ましい赤色だ。

 完全に成熟してなお盛りを過ぎることのないままの女性の性器の奥に隠れた、あの独特の赤。

 僕の生家にも、庭園の隅にその樹は立っていた。現在も、あるいは立ったままかも知れない。少年時代、枝からじかにもぎ取り、厚い皮に包まれた果実を齧った記憶もある。真っ赤な果実を蜂蜜で甘く煮詰めてジャムを作ったり、家人の見ていない隙に暗い穴蔵からくすねた葡萄酒に浸して飲み物にしたりもした。

 そんな木立ちを見止めて居を定めた僕は、自分では思い切ったはずの故郷を求めたのか。

 ともあれ、僕がこの蒙りの中、それもひどく場違いなテラスに出て物語を書くのも、とても正気あってのこととは言えないのだ。

 僕はただ、いつもサウスベリィの樹を見ていたいだけなのだ。


「作ったんでしょう?」

「えっ?」

 僕の頬から匂いを嗅ぎ当てたように、姉さんの顔が、すぐ近くに迫っていた。

「だから、ジャ、ム」

「う、うん」

 僕は頷き、椅子に座り直す。少し離れていないと、姉さんの吐息で言葉がかき消されてしまう。それに、裏庭のサウスベリィを収穫してジャムを作ったのは本当のことだから。

「でも、どうして判ったの?」

 僕は尋ねる。

「毎日の食事もまともに調えない僕が、わざわざ手間をかけてジャムを作るなんて?」

「作るわよ。ううん、作らないと怖くてたまらないはず。夜なんて、独りで寝なきゃいけないんだし。いつかなんて独りが怖くて、ずうっとサウスベリィを探し歩いたのよね? 眠らないままで、幾夜も幾夜も」

「……よく知っているね?」

「そう。私には判るの」

「どこから見ていたの?」

「どこからでも。見なくても、姉さんは、あなたのこと、何でも知っているんだから」

「何でも?」

「何でもよ」

「それなら、僕が姉さんをどう思っているか判るはずだよ」

 しかし姉さんはクスクス笑い、そのまま夜の話を続けた。

「独りきりの夜――それは怖いわよね? 眠りに落ちて、悪い夢に待ち伏せされたとしても、誰も助けてくれないんだもの」

「そんなのは平気さ」

「隣に誰か――私がいなくとも?」

「……………………」

 空の方角から僕を見下ろす彼女の楽しげな表情に、喉の奥で何かが唸る。

「悪い夢なら――」

 僕は姿勢を直す。どうも居づらい感じだ。

「――もう飽きた」

 椅子の脚が樫材の床を滑り、キュッと機械的な音を鳴らす。

「夜空に浮いた寝台から落下する夢、芋虫の群に齧られる夢。長くてヌルヌルした魚に内臓を啜られる夢。毛嫌いしていた人間に先を越される夢。もう、この世にいない友達と小卓に並ぶ夢――」

 そこで僕は、ふたたび姉さんの視線を警戒する。

「まあ、これだけあるんだ。題材には事欠かないね。欲しかったら好きなだけ持っていってよ」

「要らない」

 そんな警戒に気づいてかどうか、彼女は依然、楽しげに笑っている。

「悪夢と非日常と、死んだ友達との再会なんて、創作に情熱を燃やしている子たちの枕元の覚書に溢れているもの。『夢十夜』からずっと夜話はどれも同じ。何も変わらないわ」

「姉さんも夢に飽きた人? それとも夢なんてみたことがない?」

「絵空事」

 しかし姉さんは切り捨てる。あまりに懐かしい口調で。

「夢なんて、みればみただけ頭が壊れてゆくのよ。知らなかった?」

「へえ? そう?」

 この、理屈なしの、しかしどこかしら不気味に歪んだ警告。夜、子供を寝かしつけるのに母親の思いつくまま生まれる怪物の類。

「お茶にしない?」

 そう言って姉さんは、まるで勝手を知って屋内へと入る。振り返ると、まっすぐキッチンに向かう彼女の後ろ姿が見えた。

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