サウスベリィの下で
3.(1)
3.
「やっぱり、いまも書いてるわね」
裏庭の向こう側から姉さんが言った。僕は原稿用紙から顔を上げる。
「ふむ……。『もまた……から逃れられない……』――」
「勝手に読まないでくれよ」
僕は白紙を被せて文面を隠す。
「大丈夫。遠すぎて読めないから。お久しぶり」
「久しぶり。ここがよく判ったね? わざわざ来てくれるなんて」
「それは、どこが買ってくれる原稿?」
人の挨拶をまるで無視して原稿を指さす彼女に、僕は苦笑する。
「買い手なんてついていないよ」
「ふうん? それなのに熱心ね?」
文字を読むには離れすぎた場所で答える姉さん。その優しさには、無量の残酷が詰まっている。
「いくらで売れる見込み?」
「売る相手もいないのに、数字なんか出るわけないじゃないか」
「それもそうか」
僕が答えると姉さんは愉快そうに笑い、それからどこか、空のほうに目を移した。
「私ね、あなたが本当に、ぜんぶに見切りをつけちゃったのかと思ったの。少し心配になって」
「見切り、ねえ……」
テラスの向こうの彼女には聞こえない声で、僕は呟く。
「だけど違ったみたい。やっぱりあなたは書いていたわ。何か賞を受けたからって、自分の価値を法外に高く見積もるような子じゃないものね?」
「ぜんぜん違うよ、ひどいな」
こんどは、聞こえるように答える。
「何かに失望して見限って、放り捨てる場面があっても、それをするのは僕のほうじゃない。姉さんは知っているだろうけどもね」
僕は思わせぶりを言ってやる。
「で。当の本人はいまになって、正直な生活に落ち着くができました」
「正直な生活って? いまのこれが?」
「完全に満足はいかないけれども、それも含めてさ。思った以上に身軽で、不満もあまりないよ」
「ふうん? それでも昔と同じことをするのね? 買い手もないのに、誰のために書くの?」
(白々しいことを訊くなあ……)
そう思っては、僕は。
「確実に言えるのは、ここにはペンと紙の他に何もないってこと。とにかく、書き始めたばかりでそんな話したくない」
「たいへんね、独りで生きるのって」
姉さんはまったく無防備にテラスに近づく。
「昔はそんなこと考えられなかったのに。それにそんな言い方。学校で誰かに教えられたの? それとも独立して身についた?」
「僕も幾らか、世の中の見たくない部分を見たんだ。考え方も言うことも、どうとも変わるさ」
「嘘よね?」
彼女は言った。
「でも、口実の付け方は本当に学んだみたい。“世の中”――。そうね。子供の夢を捻じ曲げる破壊者は、いつも“世界”――“現実”だから」
「歪んでなんかいない。僕はただ、この世に形を合わせただけさ」
ゆっくりと椅子から立って、僕は静かに答える。ほんの少しでも顔の引きつりを見抜かれたら、姉さんは騙されない。
「それだって立派な技術さ。禽獣に成り下がったとも思わない。良いことだよ。いまの僕は、ここで1日じゅう座って仕事できる身の上だ」
「書きたくもない雑誌記事なんかも?」
「どうだっていい。僕はそういうものも書けるって証明さ。ここで生活するのに少し多いくらい報酬は受け取っている」
あまり自慢にもならないが、それは引け目を覚える謂れもない数字だ。
「姉さんも、僕が書くものを読んでくれてたんだったら、判って欲しかったな」
「ちゃんと判ったわよ」
希臘ふうのサンダルに包まれた姉さんの足が段にかかる。ギッ……と、古い樫材が軋む。
「いくら文体を変えても名前を消しても、私にはすぐに判るわ。あなたが表に出て、無駄に苦しむようになるよりずっと前から、私はあなたの文章を読んできたんだもの」
「無駄……かな?」
僕は苦笑し、それから思い当たる節あって尋ね返す。
「あれ? だけど、それじゃあ、やっぱり姉さんは僕のノートを覗いてたんだね?」
「あら……? あらら、バレちゃった?」
「何となく気がついていたけれどさ。でも、改めて恥ずかしくなったりするかな……」
顔を赤らめて笑う僕を、彼女は微笑ましく見つめる。
「ねぇえ?」
姉さんはとても密度の高い口調でソッと僕に尋ねかける。
「あなた――? いまでも私を殺したいと思っている?」
「!?」
それは……。
それは、これまでの「月群カノン」著作ではまったく取り扱われていない、匂わせすらしなかった、ひとつの命題だ。ただ、表に曝け出されてもいないが、いまだ僕の古いノートのそこここに、消しゴムや黒い塗潰しの惨禍から免れたままでもある。
おそらく――。
いまも同じだろう。それは僕にとって最も重要な命題だ。それだけに、他の誰とも共有したくない。僕ひとりだけに、永遠にも似た模索を要求するパズル。
「――姉さんはひとりで、いきなり僕の所からいなくなったね?」
「ええ、そうね。あら……? それも怒っていたの?」
「哀しかった。すごく泣いた……。ずっとずっと、泣いてたよ。相手が姉さんだから打ち明けるけど」
僕は正直に告白して。
「ねえ? あれは、もしかして僕から逃げたの? 本当に僕に殺されると思ったから――?」
「ふふふっ、へんな質問」
困るように笑い、彼女は。
「少しは可笑しなことも言われるとは思っていたけれども、私の知りたかったことを反対に質問されるなんて」
「えっ?」
「こんな場合は私が先に答えるべき? 私の答を聞けば、あなたは自分の答を変えちゃうでしょう?」
「そうかも知れない――」
僕は横目で地面を見ながら言い返す。
「――けど、姉さんのほうがいくらでも答を変えられるよ。僕と同じ質問なら。それはズルいと思う」
「あら、私と同じ高さで話せるのね?」
意外そうな顔で姉さんはテラスに上ってくる。
「少し成長して、男らしい自分を誇示したくなった? 普通の、汗臭い大人みたいに?」
「男性賛美は好みじゃない。姉さんだってそうじゃないか」
「嫌いよ。そんな言い方しないで」
「判ったよ、ごめん」
理不尽にも僕はばつの悪さを覚える。
「でも、ずっと会ってなかったんだ、子供の時のままの関係はないだろう? 姉さんとは、やっぱり普通に話したいさ。訊きたいんだ。あの頃に僕のノートを……?」
「あの頃が嫌だった? 私といっしょに、屋敷で暮らしていた頃が?」
「いや――」
僕には、答えられない。答えられるわけがない。
ただ、姉さんのサンダルの踵が、コツコツと床を鳴らす。
*