話題のラノベや投稿小説を無料で読むならノベルバ

極甘同居~クールな御曹司に独占されました~

白石さよ

第一章 / 悪夢は庶民の蕎麦屋から (1)




第一章


悪夢は庶民の蕎麦屋から


「うーん……」

 サラリーマンの街、新橋の駅から徒歩数分。

 決してお洒落とは言えない庶民的な蕎麦屋のカウンターで、私は悩んでいた。

 目の前にはほとんど空になったハイボールのグラスと、きつね蕎麦の半券。

 もう一杯ハイボールが飲みたい。いや、それだったら単品で海老天を追加──。

「ちょっとゆず、聞いてるの?」

 月末が近く、かなり寂しい財布の中身と相談していると、左隣から大学時代からの親友であるたまが顔を突き出してきた。

「聞いてる、聞いてる。社長の息子の話でしょ?」

「の、政略結婚よ」

「そうそう、政略結婚。聞いてるよ」

 隣を向いてさも興味ありげに目を開いて相槌を打つと、有香は頬杖をついて、またうっとりと夢見る表情に戻った。

「憧れるわよね……。政略結婚って響き」

 有香の声を聞きながらお品書きを眺める。

 先ほど済ませたオーダーでは、どうしても飲みたかったハイボールのために、安価なきつね蕎麦にした。

 でも右隣の客が食べ始めた海老天蕎麦を見ていると、我慢できなくなってきたのだ。顔は見えないけれど隣は若い男性客のようで、シャツの袖口からは高級そうな腕時計が覗いている。こんな大衆的な蕎麦屋ではあまり見かけないタイプだ。

「秘書室の子が言ってたけど、紳士で凛々しくて、正真正銘の王子なんだって」

 うちの社の〝王子〟より、私は隣の海老天の方が気になって仕方がない。

 でもあまり物欲しげに見る訳にもいかず、お品書きを凝視して我慢しているうちに、視界の端のそれはサクサクと軽快な音を立てて、あっというまに尻尾だけになってしまった。

 やっぱり諦めよう……。

 溜息をついて、お品書きを割り箸立てと壁の隙間に元通りに差し込んだ。

 お品書きといっても、お洒落なレストランではありえない、ラミネート加工のペラペラしたやつだ。政略結婚をするようなセレブは、こんなものは見たこともないだろう。

「いいの? 海老天でしょ?」

 有香が気づいて王子の話を中断した。

「うん、いいの。また今度にする」

「単品でも二百円じゃない」

「その二百円の油断が響くのよ」

 自分に言い聞かせるように、いかめしい調子で有香に説明した。

 お給料日は来週の月曜日。それまで三千円で持ちこたえなければいけないのだから。

「一人暮らしに憧れるけど、柚希を見てると二の足踏むわ」

「安月給だから仕方ないよね。早く主任に昇格したいな。お給料増えるし」

 溶けた氷で少しかさの増えた薄いハイボールを一口飲んで、目の前を運ばれていく他の誰かのかき揚げ蕎麦を見送った。

 有香は大学のサークルで一緒になって以来の友人だ。初めて東京に出てきて右往左往していた地方出身の私に、彼女から声をかけてくれたのが始まりだ。

 学部も違うし、在学中はサークルの集まりで会うくらいだったけれど、偶然就職先が一緒だったことでいっそう仲良くなった。文系採用の有香は品川の本社ビル勤務で、理系採用で技術職の私は郊外の事業所に配属され、来月で入社満五年を迎える。

 私が残業の多い職場なのでしょっちゅう会っている訳ではないけれど、たまに私が品川本社に所用がある時は、仕事後に落ち合って蕎麦を食べに行く。二人揃って蕎麦好きだからという理由だけでなく、きっと有香は私の懐事情に配慮してくれているのだと思う。

 そうこうしているうちに二人の蕎麦が運ばれてきた。有香は春菊のかき揚げ蕎麦だ。

「私のかき揚げ、半分食べる?」

「いいよ。きつねも好きだし」

 供された蕎麦に「いただきます」と丁寧に両手を合わせ、お出汁の香りを吸い込む。

「この香り、最高よね」

 途端に海老天への未練は忘れ、すっかり幸せな気分になった。

「で、話を政略結婚に戻すけどさ。お相手はしょうテックの社長令嬢らしいよ」

 その企業名は以前に何かのニュースで聞いたなと考えながら蕎麦をすする。

「いいよね。社長の娘に生まれただけで、あんなイケメンと結婚できるんだもん」

「へえ、うちの社長の息子、イケメンなの? 社長はアレなのに」

 現社長はお世辞にもルックスがいいとは言えない。父親に似なくてよかったねという毒舌は、食べるのに忙しくて省略した。

「そうよ、超イケメン! すごい人気なのに知らないの?」

「だって事業所だから本社とは別世界だし」

「じゃあ今度、本社ビルに来る時はうちの部に寄ってよ。一緒に経営企画室を覗きに行く? たかなし室長、すごく格好いいんだから」

「室長って言ったけど、社長の息子って、もうそんなオジサンなの?」

「違うわよ、三十歳! その若さで経営企画室長なのよ。すごくない?」

「ふーん……」

 どんなにその御曹司が素晴らしいか聞かされても、私は今一つ有香みたいに盛り上がれない。

「何よ柚希、文句言いたげね」

 歯切れの悪い私の反応に、有香が突っかかってくる。

 私はイケメンという生き物に懐疑的だ。しかも御曹司ともなれば、ちやほやされることが当たり前だと思っている、ろくでもない人間を連想してしまう。

「イケメンって大抵ナルシストだと思う。たぶん一日のうち三十分は鏡を見てるんじゃない? 外見のスペックで女を格付けする人多いし」

「もう、柚希ったら」

 有香が呆れたように声を上げた。

「もしかしてまだ先輩のこと、引きずってるの?」

「まさか。大昔の話じゃない」

 即座に否定し、何でもないことのように笑ってみせたけれど、有香の言葉は私の痛い所を突いていた。私をイケメン嫌いにさせ臆病にした、何年も昔の古い傷だ。

 とっくの昔に消し去ったその彼への恋心は、痛みの代わりにまるでシミのようにしつこい後遺症を私に残した。

 過去への嫌悪感のせいか、それともお酒に強くもないのに空っぽの胃でハイボールを飲んだせいなのか、私の口はいつもより辛辣になってしまったのかもしれない。

「若くして室長って言ったって、社長の息子でしょ? 実力かどうかはわからないわよ」

 その時、右側から「お勘定お願いします」と声が聞こえ、同時になぜか隣で有香がはっと息を飲むのがわかった。

 男性の声は低く、それでいてベルベットのようになめらかだ。色香を感じさせる声というのだろうか。つい顔が見たくなる。

 イケメンが嫌いだと口では言いながら興味をそそられてしまう、口先だけの自分が情けない。私はもう分不相応な夢なんか見ないと決めている。隣のイケメン声は頭から追いやり、持論に戻った。

「今の時代に世襲制ってどうなんだろうね。地道に努力して、何年もかかってやっと係長になる社員たちの士気に拘わると思う」

 最近になるまで、うちの社が世襲制だとは知らなかった。

 先代は男子に恵まれず、社長が見込んだエリートに娘を嫁入りさせ後継者としたため、社長の苗字が変わったせいだ。実際には創業者の血筋が保たれ、一族の院政が会社の経営判断を左右しているという。

「極甘同居~クールな御曹司に独占されました~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます