海辺のカフェで謎解きを ~マーフィーの幸せの法則~
一章 一度認めた例外は、次からは当然の権利となる (3)
だけど、わざわざ傘を褒める意味ってなんだろう?
「これ見て」
兄貴は、店の傘立てを指さして言う。二本、ビニール傘の置き忘れがある。
「俺もよく、傘を電車の中とか歯医者とか、置き忘れてしまうんだよ。特に、今日みたいな天気のときは」
女性に説明しているが、視線は僕の方に来ていた。こめかみをトントントンと叩きながら。僕は、考える。兄貴が伝えようとしていることを。
今日の天気予報は、雨のち曇り。朝から傘を持って出かけるのは当然だ。さらに言うと、今日みたいな天気の日に傘を置き忘れてしまうことは兄貴に限ったことではない。
いったい、何を伝えようとしているんだ?
「もし、ビニール傘じゃなくて、素敵な傘なら俺も忘れないんだろうけどな」
トントントン。トントントン。
だんだん、速さが増す。そして、鋭い視線を寄こしてくる。
これは、兄貴から僕へのアシストで、何か答えを導き出さないといけないとき、ヒントだけを僕に伝えてくるのだ。
さあ、解いてみろと言わんばかりに僕を煽る。わかっているならさっさと答えればいいものを、わざわざ僕にパスを渡して試すような視線を向けてくる。
兄貴は、それを楽しんでいるのだ。最終的には、兄貴が全部を解決して終わってしまうことがほとんどだけど。
十も歳が離れていると、互角に戦うことも遊ぶこともできなかった。内気で友達が少なかった僕の一番の友達は歳の離れた兄貴だった。
僕は、兄貴から与えられるヒントを頼りに、謎を解く遊びに没頭した。テスト勉強や受験で忙しい兄貴は、一緒に遊ぶことができないため、ノートの切れ端に暗号を書いて宝探しをさせたり、謎解きをさせたりした。情報を集めたり、現場へ行ったり、実際に動くのは僕の役目で、兄貴はずっと勉強机に向かったまま、小出しにヒントを与えてくるのだ。
「日本の傘の消費量は年間一億二千万本から一億三千万本だ。これは、世界でもトップクラスではないかと言われている。年間降水日数は世界で十三位であるにもかかわらず、どうしてこんなに日本人は傘が好きなんだろうねぇ?」
「別に、傘が好きだから傘をたくさん買ってるわけじゃないと思うよ。むしろ、無駄に傘ばかり買ってしまうことを後悔してる人の方が多いんじゃないかな。コンビニで買うとき、もったいないなって毎回思うもん」
「ちなみに、JR東日本では、傘の忘れ物の保管期間を二〇一九年度より、三ヶ月から一ヶ月に短縮することにしたらしい。よっぽど、傘の忘れ物が多いんだろうな」
兄貴は、爽やかに蘊蓄を並べる。
いったい、なんの話をしていたかわからなくなる。
中学生の話はどこへ行ったんだ。
こめかみのトントントンがだんだん速くなる。こうやって、いつも焦らせるのだ。
兄貴曰く、僕を成長させるための作戦らしい。だけど、出てくるのは、うーんと唸る情けない声ばかり。焦れば焦るほど、何も浮かばない。
しばらく考えた後、傘から連想して空を見上げた。
「あ、虹だ! すげぇ」
僕が感動の声を上げると、兄貴が「それじゃねーよ」と脇を突いてきた。
女性は、海の方を見つめてふーっと息を吐くと薄く微笑んだ。憂いを帯びた目で、何かを懐かしむような表情。まるで、この場所を探していたかのような。
「続けてください。私、どうして猫ちゃんがあんな目にあっていたのか知りたいです」
女性が僕ではなく、完全に兄貴の方を見て言ったことに、軽い嫉妬を覚えた。絶対に、この謎を解いてみせる。負けず嫌いの僕は、急にスイッチが入った。
「ええと、あれだよな。ここまで出てるんだけど。なんだったっけなー。ほら、ええと、止まない雨はないって言いますよねー」
時間稼ぎのために、あーだこーだと適当なことを呟いてみる。
「傘だよ、傘。朝降ってて帰り降ってなかったら、忘れがちだよなって言ってんの」
兄貴が女性の方をチラッと見た。僕に言っているようで、女性に何かを言わせようとしている。
「えっと、これは大切な傘で……」
そう答えた後、女性は一瞬顔を強張らせた。傘に視線を落とし、握った手がわずかに震えた。
「失礼だけど、その傘は高価なものなのかな?」兄貴が訊く。
「どうだろう。でも、とても大切なものなんです」
大切、という言葉を強調して、もう一度言った。誰かにプレゼントされたものなのだろう。
「大切なものはプライスレス」
兄貴が、得意げな顔で僕を見てくる。そろそろわかっただろう? という顔で。
「え、何? もうちょいヒントないの?」
僕が首を傾げると、兄貴は「あっ」と声を出してにやりと笑った。イタズラを閃いた子供のような表情だ。
何やらポケットから取り出すと「じゃーん」と手品のように見せてきた。
親指と人差し指につままれたそれを見て、僕は思わず「うわーっ」と叫んでしまった。
兄貴がにやりとしながら、カラフルな糸で編み込まれたミサンガを見せてくる。
「な、なんで? どこにあったんだよ」
「ふっふっふ。内緒だ。これで、おまえの掃除がいつも甘いことが判明したな」
このミサンガは、僕が捜していたものだ。どうして兄貴が持っているんだ。
二ヶ月前、付き合っていたカノジョとこの店を訪れた。家が小さなカフェをやっていると話したら、行ってみたいと言うので連れてきたのだ。
付き合ってまだ二週間くらいのころだった。
初めてカノジョを紹介するということで、兄貴も舞い上がっていた。マカロニグラタンとチキンとアボカドのサラダが載った可愛らしいプレートが、その日の日替わりランチだった。
兄貴曰く、デートのときは、グラタンが一番いいらしい。ナイフやフォークを駆使して食べる料理は、お互い緊張して会話も食事も進まないという。葉物サラダではなく、敢えてチキンとアボカドにしたのも、フォーク一本で食べやすいという兄貴の配慮からだ。僕たちのために、ランチメニューを考えてくれたのが嬉しかった。
大満足で帰る道すがら、僕とカノジョは大ゲンカをしてしまった。僕の手首に、カノジョからプレゼントされた手作りミサンガがなくなっていたのが原因だ。
大学の友人たちは、今どき手作りミサンガなんてダサいとか言うけど、僕は嬉しくて大事につけていた。もらってから、一週間も経っていなかった。
その後、どんなに捜してもミサンガは見つからず、結局カノジョとはそのことが原因で別れてしまった。カノジョに振られたことよりも、自分のふがいなさに落胆した。まるで、自分のミスで試合に負けてしまったかのような悔しさが残った。
「俺のGショックは見つからないのに、だ」
言いながら、兄貴は僕のポケットに、ミサンガをねじ込んだ。
僕は、今さらこれが戻ってきてもカノジョは戻ってこないけど、と心の中で突っ込んだ。
「ああ。ありますよね、そういうこと。捜し物をしてると、別の捜してないものが見つかっちゃうってこと」
女性が少し嬉しそうな声を上げる。何かに気付いたのだろうか。兄貴の方を見て、笑みを浮かべている。
「そうそう。あるよね」
兄貴が女性の方に、両方の人差し指をぴゅっと突き出してナイスのポーズを取る。
そのポーズは、本来なら僕に向けられるものなのに、とわけのわからない感情で胸がくしゅっと萎んだ。
いったい、なんの話だったっけ? と頭が混乱してくる。