黒川さんに悪役は似合わない
第一章 黒川さんは生徒会長になりたい (3)
キスされる──?
一瞬、俺の下半身がキュンとなったが、もちろんそんな都合のいい妄想は叶うわけもなく。
「今の、見てたわよ?」
謎の立候補女子はそう、俺の耳元で囁いた。
「えっ?」
見てたって、何を?
まさか俺がエロい目で女子を見てたのがバレたのか?
一気に血の気が引いた瞬間──。
「私のためにヒールになってくれない?」
彼女はとても自然な微笑みを浮かべながら、そう言った。
この言葉が、俺の真面目な高校生活のターニングポイントになるとは、このときはまだ思いもしなかった。
「行きましょ」
謎の女子はそう言うと、俺の手を取った。
「え、ちょっと待ってください! なんですか?」
さっきから俺の身に何が起きてるんだ? 急展開すぎるじゃないか!
この人に何を見られたんだ? それに……。
「ヒ、ヒールってなんですか?」
「ヒールって言ったらヒールでしょ。ほら、行くわよ!」
質問ははぐらかされ、そのまま手を引っ張られ、校舎の中へと連れていかれる。
「ちょちょ、せめてお名前だけでも?」
混乱しすぎて武士に助けられた町娘のようなセリフを吐いちゃったよ!
「黒川よ。黒川明衣子」
そう名乗った彼女はずんずん廊下を進む。
「ちょっと、黒川さん! どこへ行くんですか?」
「行けば分かるわ」
「それ、それ何ですか? 腕の立候補者って?」
「立候補している者よ」
「そのままじゃないすか!」
謎は深まるばかりで、何が何だか分からない。
「さっきのヒールってなんすか? ハイヒール……は履いてないですよね? 癒やしの魔法的な?」
「ちょっと、静かにしてなさい! ヒールっていえば、悪役のことでしょ!」
「あ、悪役?」
黒川さんは小声でそう答え、特別棟の階段を上り始めた。
「悪役って? どういうことですか? どこ行くんですか?」
急に怖くなって、矢継ぎ早に質問をするが、黒川さんはもう何も答えてくれなかった。
悪役って、悪者のことか? 何言ってんだ、この人?
混乱が収まらぬまま、四階の突き当たりの教室にたどり着く。
「こ、ここが目的地ですか?」
すると黒川さんも振り返り、黒目がちな目でこっちをまっすぐ見つめてくる。
黒い髪に透き通るような白い肌。派手さはないが清楚なその佇まい。
やっぱり美人だ。……胸は小さいけど。
こんな人と手をつないでいたんだと思うと、急に緊張してきたぞ。
「あの……、黒川さん? さっきの悪役って……」
もじもじしながらも、もう一度尋ねてみると。
「あなたは私のために悪役になるのよ」
謎の美女黒川明衣子は髪を耳にかけながら、なんでもないようにそう断言した。
「はぁ?」
頭の中で理解が追いつかず、それ以上の言葉が出ない。
俺が悪役になるって? はぁ?
「入って」
黒川さんが教室の扉を開け、入るよう促してくる。
頭上のプレートには地学教室と書かれており、俺は従うしかなかった。
その教室に入った瞬間、鼻につくほこりの匂い。
教室内は机もまばらで不揃いに並んでいる。教壇には木箱が積み重なっており、後ろの壁に貼られている鉱石のポスターも剥がれかけていて、廃墟に来たような、嫌な肌寒さすら感じる。
カーテンもすべて閉まっていて、生活感がないというか、普段はあまり使われていない教室だということは、すぐに分かった。
──カチャン。
背後で扉の鍵が閉まる音がして、一気に不安になる。
振り返ると、黒川さんは俺のことを値踏みするように上から下まで見つめていた。
「な、なんなんですか? ちょっと、説明してくださいよ」
いきなりこんなところに連れてこられるし、さっきからこの黒川さんはヒールとか悪役とか意味不明な言葉を繰り返すばかりで、まともに質問にも答えてくれないし、わけが分からない。
「あなたの名前とクラスは?」
「え? 蝶野、倫太郎……一年四組、ですけど」
いきなり名前を問われて、真面目に名乗ってしまった。
「そう……、完璧ね」
黒川さんはふふんと得心したかのように軽く笑みをこぼす。
「いや、完璧じゃなくて、説明してください。悪役ってなんですか? なんで俺が悪役になるんですか? なんのために?」
「私は来年の生徒会長選挙に立候補したの」
え? 俺の質問ガン無視ですか?
ていうか来年の生徒会選挙にもう立候補してるとか、鬼が笑うレベルで早くね?
「あの、黒川さんが生徒会長に立候補してることはよく分かったんですけど……」
「待って。まだ話は終わっていないわよ。最後まで聞きなさい」
え、まだあるんすか? ていうか、俺の質問……。
「生徒会長としてこの神久山高校を正しい道に導けるのは私しかいないと思うんだけど、立候補者は私以外にもうひとり、白鷺華名という女がいるのよ」
こんな早くに立候補してる人、黒川さんだけじゃなかったの? この学校はせっかちな人が多いのか?
「……ちょっと、聞いてるの?」
眉間に皺を寄せるように、冷ややかな視線を浴びせてくる。
口を挟むと黙らされ、黙ってるとこうだよ。まったく、自分勝手な人だ。
「き、聞いてますよ。もうひとり白鷺という立候補者がいて、選挙活動をしてるんでしょ?」
完全にペースを握られてしまった俺は、聞きたいことを我慢して、とりあえず黒川さんに合わせることにした。そうしないと怒られるから仕方ないよな。
「あなたのために説明してあげてるんだから、リアクションくらいとったらどうなの?」
「はい、ありがとうございます……」
腕を組んだ黒川さんは完全上から目線で、見下してくる。
なんで俺のほうがこんなに気を使わなきゃいけないんだよ。
「その白鷺華名って女がね、ほんと、何も考えていないような、ファッション感覚で立候補するような目立ちたがり屋の残念な女なんだけど、支持率だけは高いのよ……」
さっきまで意気揚々と話していた黒川さんの声が、ここにきて尻すぼみにフェードアウトしていく。
そこで空気を読みつつ、恐る恐る尋ねる。
「その白鷺っていう人のほうが支持率が高いんですか? 黒川さんより?」
「……そうよ。残念だけど、ちょっと負けていると言えるわね」
「どれくらいですか」
「九対一くらいかしら」
「黒川さんが一ですか?」
「……そうね」
思っていた以上にボロ負けである。コールド負けを覚悟して四回裏から甲子園の土集め出すレベル。
「黒川さんって嫌われてるんですか? そんなに差が開くなんて、そうとしか考えられな……」
そう言った瞬間、黒川さんに鬼神のような目で睨まれた。
「あなた、もうちょっと言い方があるでしょ?」
「す、すいません」
マジこえー。ほんの少しだけ反省しました。
「それは白鷺華名が卑怯な手で支持率を上げているのが原因なのよ! まったく、正々堂々戦えば負ける相手じゃないのよ、あんな女! ただ胸がでかいだけの無能女よ!」