寄生彼女サナ
第一章 シェルタリング・オーディナリー・デイズ (2)
桜は泣くように叫びながらどてどてと部屋を出て行った。
「……なぜだ……」
朝から理不尽な罵倒をされたことが、少しだけ解せなかった。
* * *
服を着替え終わって階下に降りると、桜が悠然と椅子に座って足をぶらつかせていた。
「あれ……起こしに来たわりにのんびりしてるじゃん」
「んー、意外と、時間よゆーだったみたい」
そして、食卓に着く。広いテーブルに桜と二人向かい合って座る。僕の手元には、桜が朝からわざわざ作ってくれた目玉焼きと、温かいご飯、味噌汁、牛乳。ちなみにもう一人の家族である僕の親父は、仕事の関係で昨日から海外、しかも南米の奥地まで出張に行っているために不在だった。
理系の研究者である親父は、生物学ではそれなりに高名な教授で、今までに学会でも革新的な論文や研究報告を度々著しているらしい。ま、そのありがちな副作用というか、弊害というか。有り体に言えば、うちの父という人間は、明らかに家族より仕事を大切にする人種だった。だから母にも逃げられ、こうして幼い頃から時々、桜や父の同僚の女性研究者が僕の妹や姉や母代わりになってくれていたのだった。
そして、今ここにある日常。こうしてのんびり桜と朝の食事をしたり、たわいもない会話をしたりして登校の準備をする日常は、状況だけ見ればなかなかに典雅な朝と言えた。
「いただきます」
「めしあがれー」
その度に、もう少し食卓の上が片付いてさえいればなあ、と思う。仕事とプライベートの境目など顧みない親父のこと、平素からこの食卓にはビーカー、フラスコなど食器以外の研究器具が無造作に置かれるという有様なのだ。
(公私混同なんてもんじゃないな……)
そう頭の中で愚痴る。研究者系親父を持った者の憂鬱。
まあ、慣れは何より恐ろしいというか、いつの間にか僕も桜もそんな諸々の研究用器具と目玉焼きなどの朝食が混在するカオスな食卓に慣れてしまって、最低限のスペースさえあればいい、という気持ちになってしまっているのだが。
「ねえお兄ちゃん、目玉焼き、美味しくできてるかな?」
「ん」
「……」
「ん?」
「もっと感想が欲しいな……」
桜がもじもじ、と自分の目玉焼きの黄身を突っつきながら聞いてくる。
「まあ、僕が普通に食べてるってことは美味しいんだと思ってくれれば」
「でも……うん……少しだけ張り合いがないと思っちゃうのもわたしなのさ……。例えば! このお味噌汁! このだしの取られ方をどう想像するかねお兄ちゃん!」
学校では料理部に所属している桜は、やたらと料理に気合いを入れる傾向がある。
「ええと、んー……か、かつお……だし?」
「そうだけど! インスタントとは違うんだよインスタントとは! 朝から親の仇のように煮出して! カツオを! 中島に誘われてももう野球に行けない身体にしてやったんだぜ!」
「それカツオ違い……。ん、でもそう言われれば、確かに味の深みが違うね。頑張ったね、桜」
「えへん!」
そうやって誇らしげに、控えめな胸を張る桜。
「いや、でも凄いよ。これだけ上手に料理が作れるのはさ」
すると、桜が恐る恐るといった風にこちらに視線を向けて問い掛けてくる。
「お……お兄ちゃんが望むなら、毎日ここで作ってあげてもいいよ?」
「うん、毎日この味噌汁が飲める人は幸せ者だろうね」
「むほ──────っ! 嫁候補きた───っ!」
その瞬間、桜が椅子を蹴って立ち上がった。
桜は、フライパンに向かって何か祈っている。
「テフロンの神様どうもありがとう!」
「誰、テフロンの神様って……」
「テフロンの神様、正式名称で言うとポリテトラフルオロエチレンの神様だよ!」
「なにその無駄に該博な知識!」
料理部効果か。料理部恐るべし。
「いや……でもやっぱり毎日はいいや。めんどくさそうだし、桜に悪いし」
「ぬかよろこび────っ!?」
「ははは」
桜の表情がくるくる変わるのを見ているのは飽きないものであった。愉快な妹がいるというのは楽しいものだ。これで、兄に欲情する変な癖さえなければな。
「ふー……それにしても今日はゆっくりにも程があるねー。まるで時間がさっきから進んでないみたいだよー」
上がったテンションを落ち着かせるように桜が話を切り替えた。だが、その視線の先にある時計は──
「え、桜、あの時計見てたの? あの昨日から止まってるポンコツ時計を?」
「ふえ?」
「桜、ちょっとテレビ点けてみて」
「うん」
桜がリモコンに手を伸ばしおもむろにスイッチを入れると、朝のニュース番組が画面に映し出される。
「え?」
お決まりの朝のニュース番組。ヘッドラインと同時に左上に出ている時刻の数字は、【7:48】を指し示していた。いつも僕らが一緒に登校している友人との待ち合わせ時刻は八時。その場所までは、どんなに急いでも十分かかる。
遅 刻 確 定
そんな文字列が、格闘ゲームの勝利宣告のように脳裏の中央にスクロールしてくる。
「ギャ───────ッ!」
桜が、恐怖漫画のようにウメズナイズドされた顔面の陰影を深くしながら悲鳴を上げた。
「ち、ち、ち、ち、遅刻っ!」
「ああー、しょうがないね、今日は遅刻かな。ま、初めてのことじゃないし、丈児も先に行っててくれるでしょう」
「わたしというものがありながら──!! 駄目──っ! お兄ちゃんご飯早く食べてーっ!」
「まだ、これだけ残ってるし、無理……」
「あと二秒で食べて────ッ!」
「もふぁ!」
突然口の中に、食卓に載っていた大量の物体が押し込まれ、雑多な味覚がれかえる。
「もぐぁっ! もががぁっ!」
「嚙んで! 食べて! 飲み込んでぇっ! はい! はい! はいはい!」
必死に咀嚼しようとする度に自然に涙が出てくるので、目で訴えて桜に抗議する。
「はい、水っ!」
「もが……」
喉まで出かかった抗議は、水道水の嚥下によって、そのまま押し戻された。
「……ぷはあっ! てか、何今の! なんか魚臭かったよ! 魚なんて今日のメニューにあったっけ!?」
「なんかお刺身ぽいの、そこにあった!」
見ると、そこには空になったシャーレが鎮座していた。
「それどう考えてもお刺身じゃない───────! 研究サンプル! 研究サンプル! しかも生食だったって! いや、ちょっと待って、精密検査させてください!」
「過去を振り返ってる暇はないのだっ! さあお兄ちゃん行くよっ!」
「うわっ!」
そして、そのまま頭から一気にショルダーバッグを掛けられ、お縄にかけられた囚人を護送するが如き体裁で、僕は引きずられながら家から摘み出された。てか摘み出されるって! ここ一応僕ん家!
「いってきまーす!」
「い、い、いってきます……」
人物不在の家に向かって、誰に言うでもなく、僕らはそう口にする。
それにしても、さっき食べた魚っぽいもの。本当に、大丈夫だったんだろうか……? 実際何が転がってるか解らない家なわけだし……。
「うう……」
そんなことを考えると、心なしか僕の腹部が、不安を反映するかのように熱く蠕動し始めた。
* * *
僕らは、桜に無理矢理引っ張られるように駆け足で通学路を進み、友人との待ち合わせ場所のカーブミラーの所に辿り着いた。道路の向かい側には、擦れたガードレールが赤茶色の錆を剝き出しにしている。