黒竜女王の婚活
1 黒竜王の婚礼(5)
ウァスタヤはすでにアザスストラ黒宗国の支配下にあり、ゼスパの街のそこかしこには黒竜の軍旗がひるがえり、大規模な黒宗国軍の駐屯地が設営されていた。
アンジュたち一行はその駐屯地に迎えられた。
護衛隊長は駐屯軍の司令官に、さきほどの襲撃の件を報告した。ただしもちろん、アンジュがほとんどひとりで賊を殲滅してしまったことは伏せている。
「ウァスタヤには、まだまだ併合に反対し泰平を乱す愚か者どもが潜んでいるようですな」
黒宗国軍の司令官はそう言って渋い顔をした。
「しかし王女殿下に大事がなくてなによりです。このめでたき御行幸をお騒がせしてしまい、ウァスタヤの安全を預かるものとしては汗顔の至り。すぐさま兵を出して反抗勢力を根絶やしにいたす所存。賊を尋問して根城を吐かせたいが、生かして捕らえた者はおらぬのですか」
「はい。そのような余裕はありませんでした」と護衛隊長は嘘をついた。
「しかたありますまい。後は我が軍にお任せくださいますよう。ここから黒の都まで、精鋭の護衛二百名をおつけいたします」
翌朝、三倍に膨れ上がった一行はゼスパを発った。
山間部を抜けてアザスストラの国内に入ってしまうと、空気が急に軽くなったように感じられた。
通過する街ではどこも、町民たちが総出で街路に大量の花びらを撒いて敷き詰め、鉦や笛を鳴らして歓待してくれた。
対照的にアンジュの気持ちはどんどん沈んでいった。
グラシュリンガを出て四日目、一行は黒の都に到着した。
なだらかで緑豊かな丘陵に囲まれた広大な盆地の中央に三日月型のウルクラマ湖が潤沢な清水を湛えている。その三日月の欠けた部分におさまるように建てられたのがアザスストラ黒宗国の王都、黒の都である。
丘を越えて行く手にきらめく湖水を背にした都の影が見えたとき、グラシュリンガの者たちは全員が息を呑んだ。
都全体が一塊の黒曜石から削り出して造られている――とは、もちろん黒の都の美しさを讃える過剰表現に過ぎないが、詩人たちにそう謳わせてしまうほどの絶景がたしかにあった。磨き上げられた黒御影石の城壁、優美な尖塔、黒樫造りの屋根が並ぶ街を幾何学的に区切る真っ白な敷石の街路、そして太陽を模した城門前広場と、その奥、湖に張り出した人工の台地に高くそびえる黒竜王宮の偉容。
「我らが都です、客人がた。ようこそ」
ゼスパの街からずっと行列に付き添っていた黒宗国軍の護衛兵の指揮官が、得意げに言った。彼の言葉には、田舎者であるグラシュリンガ人を馬鹿にする語調が少なからず含まれていたが、黒の都に見入っていた護衛兵や従者たちはだれひとり気づかなかった。
都の民の歓迎ぶりは、ここまで通過してきたどの街よりも盛大なものだった。
どの家の軒先にもアザスストラの黒竜の旗とグラシュリンガの翼ある魚の旗が交互に並べて掲げられ、幅の広い街路の左右にぎっしりと屋台が連なって真っ昼間から燻製肉や林檎酒を振る舞っていた。
王宮に向かう行列にはたっぷりと春の花が浴びせられた。
王宮に入ったアンジュと接見したのは、袖が床に引きずるほど長い重たそうな衣をまとった壮年の男だった。鋼色の髪と顎髭は獅子のたてがみのように堅く雄々しく広がり、顔つきは千年の雨に耐えた巌のようだ。
「黒宗国摂政、ベフラング王太伯殿下」
侍従長が大音声でそう呼ばわった。
王太伯――ということは、黒竜王の伯父ということだろう。
アンジュは四方を厚い簾で囲まれた高座に据えられて接見したため、王太伯の顔を詳しく観察するのは難しかったが、せいぜい五十歳を過ぎたあたりだろう。
となると甥である黒竜王はかなりの若さということになる。
「アンジュどの、まずは遠路はるばるご足労いただきまことに痛み入る。このたびは両国の新たな契りを結ぶ大変めでたき……」
通り一遍の挨拶の後で摂政ベフラングは言った。
「付き添いの方々も、今夜は宮中に泊まっていかれよ。黒の都をごゆるりと観て回られるのもよかろう。明朝、グラシュリンガにお戻りになるのがよいだろう」
粘着質な目つきで、広間に居並ぶグラシュリンガの護衛兵たちをぞろりと見渡す。
王女だけを置いて早く帰れ、と念押ししているのだ。
油断のならない男だ、とアンジュは思った。
それから婚儀までの二日間、アンジュは王宮の東端の塔の一室にほとんど幽閉された状態で過ごすことになった。身を清めるためと称して、種々の香を焚いた部屋から出ることを許されなかったのである。
護衛隊はすでに帰国し、王宮に残るグラシュリンガ人はアンジュとマイシェラだけだった。
あらためて、自分の立場を思い知らされる。
肉親の列席すら認められない婚儀は、両国がまったく対等ではないことを示している。護衛隊をさっさと帰国させたのは、わずか百名とはいえ他国の軍を宮中に長く留め置きたくないということなのだ。
自分は花嫁などではない。
大国の高圧的な要求に小国が唯々諾々と従って差し出した貢ぎ物なのだ。
けれど、アンジュにとっては好都合だった。自分が暗殺を成し遂げたとき、グラシュリンガの者がここに残っていれば殺されてしまうからだ。
あとは――マイシェラだけだ。
婚儀の日がやってきた。
朝早くから都じゅうで祝い火が焚かれ、笛や太鼓や鉦が鳴らされ、人々が歌い踊っているのがアンジュの部屋からでもわかった。夜通し充満していた香で鼻はほとんど麻痺していた。
沐浴も、着付けも、化粧も、すべてマイシェラがひとりでやってくれた。
「おきれいです、アンジュさま」
そう言われてもなにもうれしくなかった。
ほんとうはこの二日間で宮中を見て回ってマイシェラが脱出するための経路を見つけておくつもりだったのだ。それができなかった。
「マイシェラ。この支度が終わったらおまえはグラシュリンガに戻れ」
化粧をしてもらっている最中、他の女官たちに聞かれないように耳打ちする。
「なにをおっしゃいますか。夜のお世話もありますのに。私が急にいなくなったら騒ぎになりますよ」
マイシェラの言う通りだった。他国の女が王宮内でいきなり姿をくらませたら疑いをかけられてすぐにでも捜索隊が差し向けられるだろう。疑いはアンジュにも及び、黒竜王を殺す前に詮議されて男であることが露見してしまうだろう。
「ご心配なさることはなにもありません。アンジュさまは花嫁としてのお務めに集中してくださいませ」
そう言ってマイシェラは微笑んだ。アンジュの胸は突き刺されたように痛んだ。
婚儀の間も、マイシェラのことだけを考えていたため、なにが行われていたのかあまり憶えていない。
場所は氷晶の間という、黒竜王宮の中心部に位置する巨大な広間だった。数百本の白亜の石柱がささえる穹窿の天井は気が遠くなるほど高い。三階建ての砦ひとつがまるごと入りそうなほどの大空間である。鏡面のように磨き上げられた床に数千席の長椅子が並べられ、神官団や臣下や周辺諸国からの賓客がそこを埋めていた。
広間の奥の高台には簾で覆われた二つの座所が設えられ、向かって右がアンジュの席だった。隣に黒竜王が座しているはずだったが、簾で隔てられており朧気な人影しか見えない。
この男を殺し、マイシェラを逃がす。
アンジュの頭はその二つでいっぱいだった。
何刻にもわたって祈りの言葉が誦せられ、途切れることのない祝いの品とその贈り主の名が読み上げられ、神官たちが円を描いて広間の中央部を練り歩きながら、手にした燈台にともる七色の火を掲げる。
やがて純白の衣でそろえた数百の少年たちが神々を讃える歌を厳かに斉唱し始める。
これは婚礼ではなく葬礼なのだ、とアンジュは思う。
今夜、自分は死ぬ。けれど、マイシェラを死なせるわけにはいかない。
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