黒竜女王の婚活
1 黒竜王の婚礼(3)
アンジュの教育係は、ほとんど目の見えない老女だった。
父ソヌマン王も、そのまた先代の王――アンジュの祖父――も、彼女が家庭教師を務めたという。何歳なのか見当もつかない、立ち枯れた樹の幹のようにしわくちゃな老婆で、アンジュを受け持つ頃にはだいぶ呆けが進んでおり、同じ話を何度も繰り返した。
ことに大アグリカ州の地理や歴史の授業では必ずアザスストラ黒宗国の血塗られた三百年の戦史を訥々と語った。
「……竜王家の来歴は判然としておりませぬ。歴史に最初に名が現れるのは三百六年前、聖暦九九三年の冬。北原の遊牧民を束ね、ゴダイアスの都に攻め入って討ち滅ぼし、城と玉座を奪いました。爾来、西方に連なる三国を平定して肥え太り、クヌムリの山々を越えて東国を征し海を手に入れ――」
老女の語り口には悔しさと憎しみがにじんでいた。
「――アザスストラの兵たちは強健にして豪胆、粗野にして残忍。しかしアザスストラが三百年もの間一度たりとも敗北を喫したことがない理由は、それだけではござりませぬ。かの国の王が使役するは、竜王の名に偽らず、天を覆い尽くすほどに巨大な黒竜……」
このお伽噺も、何度聞かされただろう。
「翼は嵐を巻き起こし、吐息は火の山の噴流のごとく地を焼き払い城壁を溶かし尽くし万の兵を呑み込み殲滅せしめる。その暴虐なる力にだれが抗えましょうや。忌まわしき魔物の恐怖を頼んで打ち建てられた黒宗国は今や大アグリカの全土に根を張り、国々と民草を脅かしているのでございます」
「……婆様は、その黒竜を見たことがあるのですか?」
その日のアンジュはふとそう訊いてみることにした。
竜などと、子供を脅かすためのつくりごとにきまっている。黒竜王という呼び名も箔をつけるための大仰な称号というだけのものだろうに。
「以前一度見たことがございます。儂の住む村も竜に焼かれ……」
「どれくらい前のことなんですか」
「……さて。たしか儂が五つか六つの頃で、まだかくしゃくとしておった祖父が儂を背負って川まで逃げ延びたものでござります」
それはへたをすれば百年くらい前の話では、とアンジュは思った。前の日の授業の内容さえ憶えていない老女の昔語りなど、鵜呑みにするわけにはいかなかった。
その老女に限らず、アザスストラの軍事力の恐ろしさを語る者は、きまって黒竜に言及した。しかし実際に見たことがあるという者をアンジュは他に知らない。ここ百年、アザスストラと全面的な戦ができるほどの力を持つ国がもはや存在しないため、黒竜が出征するまでもなく戦局が決してしまうのだ、と皆が言う。
「六年前、隣国ウァスタヤが黒宗国軍に攻め込まれた折も、多くの者が北の空に広がる翼のような形の黒い影を目にし、慈悲深き庇護者ヘロベ王もこれを恐れて戦わずして黒竜王に下ったと……」
老女は重苦しい声で語る。
「その噂は私も聞いています」
たぶん、大軍が攻め寄せてくるという事態に集団で恐慌を起こし、幻覚を見たのだろう。
ウァスタヤはここグラシュリンガを囲むように肥沃な国土を保有していた国である。グラシュリンガ王家とは長らく友好関係にあり、豊かではあるが軍事的に弱い小国であるグラシュリンガを庇護してきた。
それも六年前までの話だ。
今やアザスストラはウァスタヤを支配下に置き、いつでもグラシュリンガに侵攻できる。
同じように侵略におびえる辺境の小国いくつかが同盟を結んで対抗しようとしていると聞くが、巨竜を前にして鼠が何匹身を寄せ合おうがなんの意味もない。
できることは、ひとつだけ。
黒竜王を殺すのだ。
アンジュに仕える側近は、マイシェラという女官ひとりきりだった。
十二歳のときに王宮に奉公に出されてすぐに王女付きの侍女に任じられたというから、今はもう三十手前であるはずだったが、顔立ちは若々しくあどけなく、どうかするとアンジュよりも若く見えることすらある。日々の激務の疲れなどまったく感じさせない清爽な女だった。
「アンジュさまのお世話をすべて任されるというのは、光栄なことです」
マイシェラはいつも笑ってそう言う。
王族の一員でありながら侍女がたった一人しかあてがわれなかったのは、秘密の漏洩を防ぐためだった。アンジュが実は男であるという事実は、知る人間が少ないに越したことがない。王や重臣たちはそう判断し、マイシェラひとりにアンジュの身の回りの雑務をすべて負わせたのである。
だから輿入れの支度もマイシェラがほとんどひとりで行った。
「素晴らしい品ばかりですね。織物も、房飾りも、器も……」
支度品をまとめて置くための小部屋で、マイシェラはため息をついてつぶやく。室内は種々の布や宝飾品や衣装箱で埋め尽くされている。運ぶのに何台もの牛車が必要だろう。
大アグリカ州の最南端に位置するグラシュリンガは、南洋を隔てた大陸との交易で栄える商業国だ。輿入れに持参する品々も貴重な舶来品が多い。
「お輿入れをお世話するのなんてはじめてです。竜王家の婚儀ともなればそれはそれは華やかなものでしょうね。なにか私どもの方で不備はないか、心配で心配で」
「どうせ一晩で無駄になるのだから、こんなに高価なものを律儀にそろえなくてもよかったのに……」とアンジュはぼやく。
「そういうわけには……まいりませんでしょう」
マイシェラは眉を寄せて言った。
初夜に黒竜王と二人きりになり、その喉笛に刃を突き立てる瞬間まで、騙し通さねばならないのだ。輿入れの支度品も、本式のものを用意して、本物の花嫁を装わなければいけない。それはアンジュにもよくわかっている。
「……アンジュさまのお務めなどなく、ほんとうのご婚礼でしたら、どんなにか素晴らしいことだったでしょうね……」
「……なにを言っている。私は男だから」
アンジュは唇を尖らせる。
「任務じゃないのならそもそも輿入れなんてしない」
「あっ」
マイシェラは口に手をあて、恥ずかしそうに笑う。
「そうでした。今も忘れそうになります。アンジュさまがあまりにお美しいから」
こちらも恥ずかしくなり、アンジュは目をそらした。支度品の一つ一つについて説明するマイシェラの声を、聞くともなしに聞く。
あと十日で輿入れだ。そう思うと、なにか熱いものが胸の奥からにじみ出てくる。
十六年間ずっとそばに仕えていたマイシェラは、アンジュにとってはほとんど肉親に等しい存在だった。十日に一度ほど顔を合わせるだけの父母よりもよほど家族だという気がした。
満月の夜にアンジュが高熱を出すたび、マイシェラは夜を徹して看病してくれた。
剣の稽古の後もいつも身体を痛めないようにと清水で冷やしてくれた。
医官が指定する厳しい食材制限の中でも、なんとか精がつくようにと献立を考えてくれたのもマイシェラだ。
「……今までありがとう、マイシェラ」
自然と言葉が唇からこぼれ出た。
明日、アンジュはアザスストラへと出立する。そして二度と戻ってはこない。これがマイシェラとの今生の別れだ。
「元気で。次はもっと楽なお役目に就けるように祈っているよ」
けれどマイシェラは不思議そうに首を傾げる。
「なぜ今日ここでお別れのようなことをおっしゃるのですか、アンジュさま」
「え……? いや、お別れだろう。私は明日の朝、発つのだから」
「私もともに参ります。お聞き及びではないのですか」
アンジュは目を見張った。
「なぜ? 聞いていない。マイシェラもついてくる? ばか、そんなことをしたら」
アンジュは暗殺者なのである。敵国の宮中で王を殺すのだ。その後、逃げ切れるはずもない。そしてアンジュに付き従ってきたグラシュリンガの者たちも残らず捕らえられ、処刑されるだろう。
「存じております」とマイシェラ。
「だめだ、マイシェラは残れ! ついてくるなんて認めない! なんの理由があって――」
アンジュの言葉を遮るように背後から男の声がした。
「あちらでも殿下の身の回りの世話をする者が必要だからです」
振り向くと、恰幅のよい初老の男が小部屋の入り口に立っている。
重臣の筆頭、宰相マバロだった。
「女官を連れていかないとなると、アザスストラの者をつけられてしまうのですぞ。そうなれば、婚儀前の沐浴や着付け、化粧などの際に殿下が男子だと露見してしまいます。こちらの者を付き添わせねばならない。となればマイシェラより他におらぬでしょう」
「――でもっ、私はなにも聞いていなかったぞ!」
「おそらくこうやって反対なさるだろうと思い、出立前まで殿下にはとくにお伝えしていなかったのです。おゆるしください」
まるで申し訳ないと思っていない様子で宰相マバロは頭を垂れた。アンジュは歯を軋らせた。
しかし、マバロの言うことは正論だ。
マバロがマイシェラに向かって、退出するようにと目配せした。
マイシェラは深々と身を折って一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉じるのを確認したマバロはアンジュへと向き直って再び口を開いた。
「して、殿下。アザスストラに忍ばせた密偵にぎりぎりまで王宮の内情を探らせましたが、黒竜王がどのような男なのか、年の頃はどれほどか、体格は優れているのか、どのような生活を送っているのか――まったく情報がつかめませんでした。面目次第もござりませぬ」
沈んだ表情で報告を続ける。
「竜王家はなにかにつけて秘密主義であり、黒竜王自身はほとんど人前に出ないのです。六年前までは出征で戦場に甲冑姿を見せておりましたが、今は平時でそれもありませぬ。百年以上生きている魔人であり身体がもはや朽ちかけているのだ――という噂もございますが、お伽噺のたぐいでござりましょう。どうやらここ最近、黒竜王は代替わりしたとの情報が有力です。ゆえに新しい妃を募っているのだと。であれば今の黒竜王はかなり年若く経験も浅いのではないかと思われます。大々的な即位の儀が執り行われなかったのが疑問ではありますが……」
アンジュは、宰相の言葉を断片的にしか聞いていなかった。
「とはいえ黒竜王が数々の魔術に長けた強大な戦力であることには変わりありませぬ。とくに黒竜を操るすべは王ただひとりにのみ受け継がれる秘術との噂。黒竜王こそ、アザスストラという巨竜の頭なのです。頭を潰せばアザスストラは大混乱に陥りましょう。代替わりした直後なのであれば再びの交代で継承問題がもめる可能性もある。その間、黒宗国軍の勢力は大きくそがれます。となれば今は竜の爪の下で支配されている属国の者らも奮起いたしましょう。アザスストラを打倒するための大きなのろしが上げられるのです! これは万の民を救うためなのです、殿下のお命は決して無駄には……」
万の民のことなど、アンジュは考えていなかった。
心を占めていたのはマイシェラのことだけだった。
万の民が救われようが、マイシェラが死ぬのではなんの意味もない。
死ぬのは自分だけでいい。
どうやってマイシェラを逃がせばいい。どうやって……。
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