黒竜女王の婚活
1 黒竜王の婚礼(2)
この件を師匠キサナに話すと、笑い転げられた。
「助かったね、おひいさま。でもあたしとしては、股ぐらのものまで取るとおひいさまがどれだけ綺麗になるのか見てみたかったよ」
「おひいさまと呼ぶのはやめてください、先生。私は男です」
アンジュはため息交じりに言う。
「男だからこうして先生の稽古にもなんとかついていけるし、この任務にも就けるんです」
「わかっているよ、おひいさま」
ちっともわかっていない、とアンジュはむくれた。
キサナはアンジュの剣術の師である。女に化けるのだから女に師事するのがいいだろう、との判断で遥か東方から招聘された達人だ。
年の頃はよくわからない。二十代といわれても五十代といわれてもそんなものかと納得してしまいそうな風貌をしている。その妖艶かつ危険な物腰は豹を思わせる。そして太刀筋は猛禽の爪のごとしだった。
「それじゃあおひいさま、今日の稽古を始めようか」
そう言ってキサナは剣を取り上げる。
アンジュもうなずき、細身の剣を鞘から抜いた。
この二年にわたる稽古で、二人はずっと真剣を使ってきた。にもかかわらず、キサナもアンジュも稽古中一筋たりとも傷を負ったことがない。
「あたしを殺すつもりで! まだ甘い! さあ!」
毎回のようにそう言われ、アンジュもほんとうに殺すつもりで打ち込んでいるのに、キサナにはかすりもしないのである。
日が暮れるまで休み無しで打ち合った。アンジュの着る寝室用の薄衣は汗でぐっしょりと重たくなっていた。なぜそんなものを着て剣の稽古をしているのかといえば、この服装で斬り合うことが想定されているためだ。
稽古が終わり、水差しの水を残らず飲み干したアンジュは、汗ひとつかいていないキサナを見て荒い吐息まじりにつぶやく。
「……二年間、ほとんど毎日稽古をつけていただきましたけれど……先生にはついに一太刀も入れられないままになりそうですね……」
師の教えに報いることができていないようで、アンジュは悔しかった。
キサナは肩をすくめて笑う。
「おひいさまはまだ十六だろう。身体だってできていない。嘆くことはないよ、その体格にしちゃあ大したものになっている」
「……もし、私がもっと身体を鍛えられていれば……先生とも少しは渡り合える剣士になれていたでしょうか」
過去形でしか問えないのが哀しかった。
自分の細腕を見下ろす。女らしい体つきが変わらないように、なるべく筋肉をつけないように、と食事を抑えられてきたのだ。
女と思わせたまま輿入れできるように。
女と思わせたまま――殺せるように。
「……見くびられたもんだね。あたしと渡り合う?」
キサナは鼻で笑った。
「何十年修行しようが、あたしに並べるなんて思われたくないね。……と言いたいところだけれど」
ふとキサナの顔に寂しげな表情が差し、アンジュは驚いて師の口元のあたりを見つめた。
「本音を言わせてもらえば、おひいさまとはもっとちがう形で逢いたかったよ。面倒な事情など一切なしに、剣の道を志す一人の男アンジュに、ね。そうしたら身体も技も遠慮なく鍛えに鍛え抜いて、ひとかどの剣士にしてやれただろうさ。その才が、たった一晩の使い捨てだなんてね。もったいない」
アンジュは目を伏せた。
ひいらぎの垣で囲まれた王宮の中庭に、夕風が冬の気配を運び入れる。
「いけない。柄にもなく湿っぽくなってしまったね」
キサナは笑った。
「俸給はたっぷりもらっているんだ。金払いも滞りないし、これ以上望むことなんてないよ」
それじゃあ、とキサナは立ち上がり、控えていた女官を呼んだ。練習用の剣を預け、中庭を出ていく。
アンジュは寂寞とした想いを抱えて師の後ろ姿を見送った。
任務のために習い始めた剣術ではあるが、アンジュは上達していくことに喜びを感じるようになっていたし、なにごとにつけても遠慮のないキサナとの対話は――言葉によるものも、剣によるものも――暮らしの中の数少ない楽しみだった。
しかし、それももうすぐ終わる。
たった一晩の使い捨て。
黒竜王を殺すために、アンジュのこれまでの十六年間があったのだから。
十六年前、グラシュリンガ王家に双子が生まれた。
顔かたちも髪の色もすべて瓜二つの双子は、古来より凶兆だとされていた。冥府にいる自分の影を地上にまで一緒に連れてきてしまったのだ、そのままであれば子はすぐに死ぬ、と。
先に胎内より出てきた嬰児はシナンジュと名付けられ、待望の王子として祝福を受け、グラシュリンガの国じゅうが喜びに沸いた。
後から分娩されたもう一人の誕生は、ひた隠しにされた。
そして十四ヶ月の後、シナンジュ王子に妹が生まれた、という偽りの報せがまたも国じゅうを沸かせた。
双子の片割れはアンジュという女の名を与えられ、王女として育てられた。シナンジュとアンジュが誕生日も性別も同じくする兄弟だという事実は王宮内のほんの一握りの者たちだけが知る秘密となった。
アンジュに与えられる食物は注意深く選別された。果物と乳と蜜が主で、肉の類いは清い水に棲む魚がほんの少量出されるだけだった。
身体から男の気をなるべく減らさねばならない、と医官や神官は言った。身体が男に近づけば、冥府の影であることを魂が思い出してしまう。死に近づくことになる。
幼い頃からアンジュは病気がちで、満月の晩が巡ってくるたびに高熱を出して寝込み、生死の境をさまよった。どれほど慎重に女として育てても、その身は冥府に引きずられる呪いを受けているため、満月が巡ってくるたびにその身はさいなまれ、おそらく二百度目の満月で死に至るだろう――と神官たちは沈痛そうな顔で告げた。
王宮の奥からほとんど出ることを許されない暮らしの中で、アンジュは自分の呪わしい生まれを嘆いた。
しかし、アンジュの身体を女らしく留めるために、王宮に仕える者たちはみな身を粉にしていた。珍しい食物や薬を集め、調理に細心の注意を払い、選り抜かれた素材だけで金属の針を使わずに服を縫い上げてくれた。それを思えば不満など言えるはずもなかった。
むしろ、なんの役にも立たずなにも残せず成人前に死んでしまう自分のために、大勢の労力が費やされているのだと思うと申し訳なさに胸が痛んだ。
グラシュリンガ王家には周辺国から求婚がひっきりなしに届くようになった。アンジュが人前に出ることは一度もなかったが、王太子シナンジュの美貌は全土に知れ渡っており、その一つ歳下の妹であればさぞかし――とだれもが考えたのだろう。
当然ながら、父のソヌマン王は求婚をすべて断った。アンジュは女ではないのだ。受けられるわけがない。
ほんとうに女ならよかったのに、とアンジュは何度も思った。
自分が女であれば、たとえ二百度目の満月に死ぬとしても、その前にどこかの国に輿入れして関係を結び、弱小国であるグラシュリンガの立場を少しでも盛り立てる助けになれただろう。偽りの王女ではそれもできない。ただ飼われ、養われ、病んで死んでいくだけだ。
転機が訪れたのは十三歳のときだった。
アザスストラ黒宗国から使節が遣わされたのである。
黒竜王が、貴国の王女アンジュを妃にと望んでいる――と。
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