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恋の手習い始めます 初心な堅物書道家は奥手な彼女を溺愛する

西條六花

プロローグ (2)

「……っ」

 そのときリビングのドアが開き、弟のかなが顔を出す。彼は晴香の顔を見て言った。

「晴香、帰ってきてたんだ。ちょっといい?」

「あっ、うん」

 どうにか表情を取り繕い、晴香は二人に「ごゆっくり」と告げて、リビングを出る。

 階段を上がって二階の奏多の部屋に入った途端、一気に気持ちが緩んだ。泣きそうに顔を歪める姉を見つめて、奏多が言う。

「そういう顔をするってことは、やっぱあいつが婚約するって話、知らなかったんだ?」

「し、知らないよ……。今まで誠ちゃんから、他の女の人の話なんか聞いたことなかったし。今日だって、ただ『話したいことがあるから、実家まで来て』って言われただけだもん。婚約なんて、寝耳に水だよ」

 弟の奏多は現在二十歳で、大学三年生だ。

 姉弟仲は良く、これまでも晴香は水嶋のことをときおり相談していた。彼が顔をしかめて言った。

「前から言ってたけどさ、俺は水嶋あいつのこと、胡散臭いと思ってたよ。あの笑顔、どう見ても裏がありそうっていうか、嘘っぽさが漂ってんだろ」

「そんな言い方、やめてよ……」

 晴香は昔から水嶋と仲が良かったが、彼と七歳の年齢差がある奏多はさほどではなかった。水嶋は弟のように構いたがっていたものの、奏多のほうがあまり懐かなかったからだ。

(まあ、この子が一方的に、誠ちゃんにライバル心を抱いていたからなんだけど……)

 クールな性格で顔立ちが整っている奏多は、女の子にかなりもてる。しかし彼は、見た目に反して重度のシスコンだ。姉である晴香にとにかく過保護で、あれこれと世話を焼いてくる。

 だからというべきか、奏多は昔から水嶋に対抗心を抱いていて、彼への評価は辛辣だった。今回の件は晴香と同様に知らなかったらしいが、「それ見たことか」という顔をしている。

 奏多が口を開いた。

「ひとつ確認したいんだけど、あいつ、晴香に対してどういう態度だったの? 二人で会ってるとき」

「どういうって……優しかったよ。例えば車のディーラーの傍を通ったとき、『将来家族が増えるなら、こういうファミリーカーに買い替えるべきかもな』って話したり、誕生日に『今はこのくらいのものしか買えないけど』って言いながら指輪を買ってくれたり。あ、頭をポンとか髪をクシャクシャとかも、頻繁にあった」

 一緒にいるときの水嶋はいつもそうして将来を匂わせる言動があり、晴香は完全に彼とつきあっているつもりになっていた。

 しかしそれを聞いた奏多が、切り込むように言う。

「でもキスしたり、ヤったりとかはしてないんだろ?」

「そ、それは……」

 ──確かに、していない。

 晴香には触れてほしい気持ちが多分にあったが、水嶋は性的な意味ではこちらに一切手を出してこなかった。

 すると奏多が、確信を得た顔でつぶやく。

「やっぱりな。晴香、水嶋あいつのキープだったんだよ」

「キープ?」

「ああ。あいつはきっと、自分に好意を向けてくれるお前を逃したくなくて、気持ちを繋ぎ止めるために思わせぶりな態度を取ってたんだと思う。二人きりで会ったりしたのは事実でも、いざというとき『そんなつもりじゃなかった』って言い逃れできるように、あえて手は出さなかったんじゃないかな」

 弟の言葉に虚を衝かれた晴香は、ぎゅっと拳を握りしめる。

 今までの水嶋の態度が嘘だとは、思いたくない。だが彼がこちらをキープと位置づけし、手を出してこなかったことは逃げるための〝保険〟なのだと思えば、すべて説明がつく気がする。

(でも……)

 ──諦めの悪い恋心が、奏多の言葉を否定したがっている。

 先ほど見た光景は何かの間違いなのだと、どうにかして思いたがっている。

 すると晴香の顔を見た奏多が、舌打ちして言った。

「しっかりしろよ。『間違いだ』って思いたい気持ちもわかるけどさ、あいつは他の女とつきあってる事実を、晴香に一言も話してなかったわけだろ? 要は二股をかけられてたんだって、いい加減気づけ」

「……っ」

 晴香の目から、涙がポロリと零れ落ちる。話をするにつれ、彼の言う現実がじわじわと心に浸透しつつあった。

(馬鹿みたい、わたし。……子どもの頃の約束を真に受けるなんて)

 元々互いの母親同士の仲が良く、世間話の中で「将来、私たちの子どもが結婚できたらいいわねー」と言っていたのがきっかけだったが、今思えばひどく滑稽だ。

 高校や大学で晴香は異性に何度か告白されていたが、そのたびに「自分には水嶋がいるから」と考えて断っていた。彼がどんなつもりでこちらをキープしていたのかはわからないものの、本来しなくてもいい配慮をして他の異性とつきあう機会を無駄にしていたことになる。

 グスッと鼻を啜る晴香に、奏多が無言でティッシュの箱を差し出してきた。彼はこちらを見ず、ぶっきらぼうに慰めてくる。

「あんまり落ち込むなよ。かえってよかったじゃん、下手にあいつとヤったりしてたら、泥沼だったわけだし」

「……うん」

 彼の言うとおりだったが、失恋したのは確かで、胸が痛んだ。

 しかし心には長年に亘って弄ばれた怒りと反骨精神のようなものが、じわじわと湧き起こっている。晴香は勢いよく鼻をかんだあと、ポツリとつぶやいた。

「──わたし、婚活しようかな」

「へっ?」

「誠ちゃんのこと、きれいさっぱり忘れたい。そのためには、他にいい人を探すのが一番かなって思う」

 水嶋との結婚が幻想に終わった今、自分は他の人間に目を向けるべきだ。誰にでも自慢できるような交際相手を見つけ、彼を見返してやりたい──そんな気持ちが渦巻いて、仕方なかった。

 するとそれを聞いた奏多が、微妙な表情になって答える。

「まあ、いつまでもじめじめ落ち込んでるより、そういうほうが前向きでいいんだろうけど。でも、変なのに引っかからないように気をつけろよ? ただでさえ晴香はぼーっとしてるんだから」

「うん、わかってる」

 とりあえず今は階下に戻り、水嶋と婚約者に「おめでとう」と言う。

 失恋したばかりの心の傷は深いが、みっともなく追い縋るような真似はしたくない。そんな晴香の発言に、奏多が顔をしかめた。

「なあ、俺があいつの婚約者の前で、一言言ってやろうか? 『こいつは今までさんざん思わせぶりな態度を取って、姉ちゃんを弄んでたんです』って」

「ううん、いい。そんなことしたって、惨めになるだけだし」

「でも」

「本当に。もし奏多がそんな発言をしたら、うちのお母さんや水嶋さん家も巻き込んで、大騒ぎになっちゃうでしょ」

 ご近所づきあいが密な分、一度口火を切ったら話が大きくなりやすい。だからこそ水嶋も、安易に晴香に手を出さなかったのだろう。

(誠ちゃんの思惑に今までまったく気づかなかったなんて、わたし、相当鈍感だなあ。……きっとそれだけ盲目的に信じてたってことなんだろうな)

 長年の信頼を根底から覆された痛みは、まだ生々しい。だがそれは、小さな違和感から目をそらし続けた自分にも責任がある。

 晴香はゆっくりと深呼吸する。そしてドアを開け、水嶋への未練をはっきりと断ち切るべく、階下へと向かった。

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