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異世界で愛され姫になったら現実が変わりはじめました。

兎山もなか

1.落武者黒江の陰々滅々な一日 (3)

 階段を上っていく落ち着いた足音を名残惜しい気持ちで聞きながら、思う。ほんとはこんなに優しい人だということを、私しか知らない。社員から恐れられる和久部長と、疎まれる私。嫌われ者同士な私たちは、たまたまこの非常階段の踊り場でよく顔を合わせるようになった。

 彼は私に好意をもたれていることに気付いていない。それは当然で、私は一度も、ほんの少しも自分の気持ちを言葉にしたことがなかった。

 結構好きなんですけど。言ってしまえば、大好きなんですけど。彼はこの気持ちを知りようがない。私も、この先伝える気はない。──ただ思う。


 優しくて損ばかりしているあの人の毎日が、少しでも幸せなものでありますように。


 みたらし団子が入っていたプラスチックパックをコンビニの袋に入れて、給湯室のごみ箱に捨てた。私はオフィスに戻って、和久さんのコートを彼のデスクに置く。ボードを見ると『外出』になっていた。……コート、必要だったんじゃ。

 軽く辺りを見回しても、誰も私のことを気にしていなかった。コートを借りたくらいで浮いた噂は立ちそうにもない。そのことにほっとしたし、一方で少し残念な気もするし。自分の意外と乙女な思考に寒い気持ちになりながら、席に戻る。

 私が所属している部署は、外出やら打ち合わせやらで人が出払っていた。残っていたのは先輩の三澤さんだけ。私が自分のデスクに戻ってきた瞬間、離れた席で彼女がニヤッとした気がした。嫌な予感。なんだろう……と思ってデスクの上を見ると、パソコンの画面がブラックアウトしていた。マウスを触ってみる。動かない。電源が切れている。私、パソコン消して出たっけ?

(……あぁっ!)

 資料! 作ってる途中だったのに……!

 昼食に立つ寸前まで作っていた提案書のことを思い出す。出社してから二時間ちょっとを費やして作成した資料を私は……保存した覚えが、ない。絶望的な気持ちでパソコンを再起動する。デスクトップもフォルダも確認したけれど、提案書は跡形もなく消えてなくなっていた。

 三澤さんの、たった今私がいることに気付いたようなわざとらしい声が響く。

「あー黒江さん、いたんだ? パソコン、消し忘れだと思ったから電源落としちゃった~」

「え……」

「ごめんね?」

「……」

 今度席を離れるときには絶対に保存しよう。悪いのは100パーセント三澤さんだけど、嫌がらせされることを知っていて放置していた私もかつだった。……とりあえず。

 痛くも痒くもない顔でまっすぐ彼女を見た。

「わざわざありがとうございます」

 舌打ちするのが聞こえてきて、それでやっと私は少し溜飲を下ろす。

 きっとこんな態度を取るから、いつまで経っても嫌がらせは終わらないんだ。わかっているのに、私は四年もこの状況を変えられずにいる。自分でも厄介に思うほど負けず嫌いだ。

 二時間ちょっとで作れたはずの資料は、やり直しだと思った途端に気が重くてなかなか作業が進まなかった。また一から資料を見て、数字を拾っていかなければならない。

 そうしてやり直しには結局三時間ちょっとかかってしまって、その後はレギュラー業務。溜めてしまっていた請求作業に、素材メーカーへの支払い処理。意外と事務作業の多い営業の中で、私は他の社員よりも帰りが遅くなりがちだった。周りにわざと足を引っ張られて、というのもあるが、それだけじゃない。最近特に仕事が思うように進まない。例えばアパレル会社との少し複雑な契約書ひとつにしても、法務部長のところへ行けば「経理部長に聞け」と言われ、経理部長のところへ行けば「そんなもの法務に確認しろ」と言われてたらい回しにされたりする。


 ──今日は本当に、本当に散々だった。

 夜の十時。フロアの照明が一斉に消え、私は自分のデスクを立った。十時になると自動で消えてしまう照明は、わざわざ廊下に出て、少し離れた場所にあるパネルを操作して手動で点けなければならない。そしてこの作業は、いつの間にか私の仕事になっている。

(……疲れた)

 先ほど今日中の処理が必要だったメールを送り終えたから、これで帰れる。今日はもう、録り溜めたドラマを消化するのは我慢して、さっさと眠ってしまおう……。

 照明を点けて執務スペースに戻ると、オフィスは静まり返っていた。自分を除いて誰もいなくなっている。そんな中、パソコンのファンが回る音がして。気配を辿ると、そこは部長席だった。

(……和久さん、まだ残ってるんだ)

 ディスプレイにはスクリーンセーバーが流れている。椅子には昼間に自分が掛けたスプリングコートとスーツのジャケットが掛かっていた。さっきコートを返しにきたときにはジャケットはなかったから、外出から戻ってきたらしい。ここにいないということは、別の部署の人と打ち合わせでもしているんだろう。

 何気なく、掛けてあったジャケットに触れる。手に取る。そこで、〝あれ、こんなことしていいんだっけ?〟と一瞬思った自分を、無理やり黙らせる。

 私はそのジャケットを抱きしめていた。

「……」

 非常階段で肩に掛けてもらったスプリングコートよりも、もっと彼に近い内側。顔を埋めて、さっきよりも強く清潔な香りを感じ取る。ぎゅっと強く抱きしめる。

 しわになってしまう。化粧がついてしまう。でも止められなかった。


(……好き)


 大好き。ためらいがちに微笑まれると死んでしまいそうになる。あの声で名前を呼ばれると、頭のてっぺんから足の爪先までが反応する。体が全焼するかと思うほど熱くなる。──あなたをゆううつにさせるものなんて、この世から全部消えてしまえばいい。そう思うくらいに好きだった。


 自分でも驚くほどの激情を、私は隠し持っている。

 伝える勇気もないくせに。


 そのときガタッと物音がして。

 反射的に私は、ジャケットを自分の体から離した。振り返ると部屋の入り口に和久さんが立っていた。驚きでただ目を丸くしている。

「……あ……」

「……えっと。……黒江?」

 ──見られた。

「お疲れ様です」

 私はそっと、ジャケットをれいに彼の椅子に掛け直す。

「……お疲れ。あの、黒江……今のは」

「私、もう帰るところなんです。和久部長、最後出るときは、セキュリティーロックお願いしますね」

「あぁうん、わかった。……いや。そうじゃなくて」

 和久さんは目に見えて動揺していた。動揺しつつも、今しがたの私の奇行について問い質そうとしていた。なかなか勇気ありますね……。でも、そうはさせない。

「お疲れ様でした」

 キリッ、と有無を言わせぬ気迫をまとって挨拶をする。一瞬彼が押された隙に、さっとオフィスを後にした。一歩部屋を出たら────猛ダッシュだ。

「……みっ」

 もう絶対にここまでは追ってこられない。……そう確信した途端に。

「みっ……み、みみっ…………見られたああぁっっっ!!!」

 私は絶叫した。

 家に帰るまで私は無駄に走った。何かしてエネルギーを発散しなければ、悶絶してうっかり死にたい気持ちになってしまう。事実私がしでかしたのは、切腹ものの大失態だった。


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