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異世界で愛され姫になったら現実が変わりはじめました。

兎山もなか

1.落武者黒江の陰々滅々な一日 (2)


 午前中の仕事の遅れを取り戻すため、私は無心で手を動かした。昼食を後回しにして提案書を作る。総務部にいる同期のいしには、〝今日は立て込んでるから先にお昼食べてて〟とメッセージを入れておいた。


 新人のあのときにお世話になった株式会社AYUZAWAユニフォームのあゆざわ社長は、今もうちの会社と取引を続けてくれている。〝ヘマをして大口契約をなくしてはいけないから〟と、私はメイン担当からははずされてしまい、今は補佐として日々の資料作成や提案準備を手伝っている。提案のときは先輩の隣で黙って控えているだけだけど、質問するとき社長が私の目を見てくれるから、それで少し気が晴れていた。社長だけは、私がやった仕事だときちんとわかってくれている。

 資料の完成まであと少し。だけど、一時過ぎ頃になると段々空腹が気になって作業に集中できなくなってきた。昼食を抜くのはやっぱりよくない。私はバッグの中から財布だけを取り出し、席を立つ。

 午後からの作業のことを考えても、あまりここで時間はかけたくない。一瞬、会社の近くにある定食屋を思い浮かべたが、あそこもまだこの時間は混んでいるだろう。コンビニかぁ……と妥協しながら、エレベーターホールへ向かう。


「黒江がさ」


 不意に、自分の名前が聞こえてきた。誰かに話しかけられたのかと思って辺りを見回したけれど、そうじゃなかった。声はエレベーターホールまでの廊下の途中、喫煙スペースから聞こえている。

「聞いた? 今朝痴漢にあったって」

「え? 黒江に痴漢……? ……えぇーっ、触るかなぁ」

 同じ課の、同期の男二人の声だった。

 またか……と眉をひそめて、私はその場に足を止めてしまう。廊下に人がいないのをいいことに、すっと息を潜めて立ち聞きしてしまう。やめておけばいいのに。

「ああいう気の強そうなのがいいって男もいるんじゃねぇ?」

「いやぁ、ないない。どうせ顔が見えてなかったんだろ。だって、可愛げゼロだぞ。三澤さんに嫌がらせされても能面みてぇに眉ひとつ動かさねぇの」

「さすが武士」

「泣くくらいすれば、まだ味方もいそうなのになー」


 泣くわけがないでしょう。


 心の中でだけ反論して、エレベーターホールに足を進めた。

 泣くわけがない。私が泣けば胸がスカッとする人はいるんだろう。でもどうして、そんな人のために、涙を流さなければいけないのか。泣くのは完全に負けたときだけ。絶対に屈しちゃいけないと思う。

 普通に仕事をしていても、みんなが陰で自分のことを笑っている気がするときがある。絶対に泣かないけど、まったく平気なわけでもない。自分の心はそんなに強くできていないと自覚している。今朝の痴漢だって、どうにか声を絞り出せただけで本当は怖くてたまらなかった。その後の事情聴取も、触られた事実を自分の口で説明させられるのは恥ずかしくて、情けなくて。出社する頃にはすっかり疲弊しきっていたのに、そこに先輩の小言。同期の陰口。いろいろ重なってもう、今日はボロボロだ。

 こういうときは一旦心を休めたほうがいい。私はオフィスビルの中にあるコンビニに寄った後、自分のデスクには戻らずに、重たい扉の奥にある非常階段を目指した。

 あの人がいればいいな……と、ほんの少し期待で胸の中を甘くしながら。


 非常階段は建物の外にある。勢いよく下りれば、ガン、ガン、と足音が反響する赤茶色の階段。ビル風が吹き荒ぶせいで寒いということもあり、社員はほとんど寄り付かない。私は黒のカーディガンをしっかり着込み、外に出てゆっくり階段を下りていく。

 一階分移動したところで、いつもの踊り場に後ろ姿が見えた。視界にベージュのコートの端を捉えただけで、私の心は浮足立つ。その人は柵に寄りかかって、オフィス街の景色に向けて煙を吐き出している。声をかけるよりも先に彼が振り返った。

「黒江か」

 その人──私が所属するファッションアパレル部の隣、ブランドマーケティング部の営業部長、れんは、吸っていた煙草を口から離して私の名前を呼んだ。和久さんはいつからここにいるのか、社内だというのにスプリングコートをしっかり着込んで一服していた。

「邪魔でしょうか」

 彼がいればいいなと思ってここに来たくせに、私は一応殊勝なことを言ってみる。彼が自分を邪険にしないとわかった上で。

 少し長めの、表情を読みづらくしている前髪。無機質なメタルフレームの眼鏡にシャープな顔立ち。顔が整っているから冷たく見えてしまうってこともあるんだな、と私はこの人で初めて知った。本当はまったく冷たくなんかない。

「いや、別に邪魔じゃない」

「では失礼しますね」

 そんないつも通りのやり取りで、私は彼の背中を見つめながら階段に腰かける。先ほどコンビニで買ったみたらし団子を取り出す。

「きみは、またそんな……好きだな、みたらし」

「和久さんの煙草好きほどではないですよ」

「別に好きなわけじゃない」

「落ち着くんでしたっけ? こんな寒いところで吸わないで、喫煙所で吸えばいいのに」

「この話前にもしなかったか?」

 彼はムッとした顔で。フーッ、と長く煙を吐き出してから、ぽそりとこぼす。

「……俺が喫煙所で吸ったら、他の奴の気が休まらないだろう」

 ブランドマーケティング部のトップは、最年少の営業部長。三十三歳という異例の早さで昇進した和久さんは、相手の年齢や性別を問わず雷を落とす。仕事で彼の逆鱗に触れれば左遷され、女性社員は泣きじゃくって嗚咽が止まらなくなるまで叱りつけられるという。まだ部長になって間もないというのに、辞めさせた社員の数は両手を超える。ついたあだ名は〝王様〟。

 私の〝落武者〟に比べれば格好良いあだ名だと思うが、そういう問題でもない。元からめちゃくちゃ愛想がいいわけではなかったけれど、彼が人に厳しくなったのは部長職に就いてからのことだ。

 彼は知っている。最年少で部長になってしまった自分が、ご機嫌伺いをしながら部下に仕事を頼んでも、誰もついてきてくれないということを。容赦なく人を切れるイメージこそが、いざというとき部下を守れる力になることを。与えられた役職をまっとうするために、彼は嫌われ役を演じている。

 私は口の中のみたらし団子を飲み込んでから返事をした。

「なるほど。部長なりの、部下へのお気遣いですね」

「黒江、馬鹿にしてる?」

「いいえ、尊敬してますよ」

 煙草を吸い終えた和久さんは吸殻を携帯灰皿に落とした。もう仕事に戻るらしい。

「きみこそ、もっと暖かいところで食べればいいのに」

「昼食くらい嫌味言われずに落ち着いて食べたいじゃないですか」

「苦労するなお互い……。っていうか、それが昼飯?」

「えぇ。これを食べ終わったら戻ります」

「あぁそう……」

 うなずくと彼は、着ていたスプリングコートを脱ぎ始めた。

「……え? あ、いや、いいです。貸していただかなくて」

「さっきからガタガタ震えてるくせに。着てていいから、早く戻れよ」

 そう言って、コートを私の肩に掛けてくれる。ふわっと、優しくて清潔な香りが立ち込める。

「忘れ物とかなんとか、後で適当に理由つけて席に置いといて」

「……ありがとうございます」

 ずるいなぁ。

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