溺愛ハラスメント
プロローグ (2)
麻子は、部屋に置かれた古い鏡を覗き込む。まっすぐな長い黒髪に、黒目がちの大きな目。大好きだった父によく似た顔だ。クールだの喜怒哀楽が薄いだの言われるけれど……苦労しすぎたせいだ。心の中では色々思うところがある。
――ねえお父さん、私、お父さんの会社を何とか守りたいの。だから力を貸してね。従業員の人たち、あの歳じゃ再就職も厳しいから……何とか皆が定年になるまでは。
胸に手を置き、麻子は目を瞑って、天国の父に語りかけた。もちろん返事はない。
麻子はもう一度携帯を手に取り、雄一郎の画像を眺めた。
何故か今日は、やたらと雄一郎のことを思い出す。
――貴方が御曹司じゃなきゃ良かったのに。第一、どうして御曹司様が名門私立じゃなくて公立高校に入学したの? うちの高校になんか来るから……出会っちゃったのよ。
社会に出て『神崎玩具販売』の社長を任されたころから、雄一郎の『恋人』である麻子への風当たりが、とても強くなった。
新卒のひよこ社長である麻子のもとに、様々な投書がされるようになったのだ。
『雄一郎さんに付きまとう邪魔な女がいると聞いたんですが、別れてください』と書かれた差出人のない手紙。
それに、夜道で麻子を待ち伏せし、『君は諫早家の財産狙いの女なんだろう? 高校時代からつきまとっていたと興信所の人間に聞いた。今も別れたがっている雄一郎さんに泣いて縋って、別れないよう迫っているそうだな? 恥ずかしくないのか』と詰め寄ってきた、知らない中年男性もいた。おそらく彼は、雄一郎の親戚に雇われた何でも屋かなにかだろう。
彼を取り巻く人々から幾度もぶつけられた不快な言葉を思い出し、麻子は手の甲で目を覆った。
――到底信じられないでしょうけど、私じゃないのよ、付きまとった方は……!
複雑な思いだ。
麻子が泣いて縋って雄一郎に付きまとっていたと思われるなんて。事実は違うのに。
だが、周囲から見たら、そう思われるのも無理はない。
名家の御曹司である美青年が、大人しくて真面目なだけの貧乏女と付き合い続ける理由なんて特にないはずだからだ。
――ほんと、私が悪者、御曹司様のストーカーみたいな扱いだったもんね。
思い出すだけで気が滅入る。雄一郎の親戚だかとりまきだか……よく分からない人たちが何度も家に来て、わきまえろ、別れろと脅されて。
更には、会社を継いで二ヶ月目くらいの、仕事に慣れなくて忙しい麻子の前に『雄一郎の婚約者候補』まで現れたのだ。
彼女の名前は、鮎原瑞穂。
この辺では名の知れた旧家のお嬢様で、実家はいくつかのホテルやレストラン、量販店などを経営している。
鮎原家は、東尋貿易とも取引があるらしい。
彼女は、立て続く嫌がらせや、待ち構えている謎の人間たちに疲れ切っていた麻子に、高飛車にこう言い捨てた。
『私は雄一郎さんの婚約者になりたいんです。だけど、貴女がいる限り、あの人はお見合いすらしてくれないの。だから、貴女に身を引いてほしい。言うことを聞いてくれれば、私の実家でお宅の商品を扱ってあげてもいいです』
当時の麻子の会社は、今よりもっと困窮していた。
だから、会社のために、その提案に乗らざるを得なかった……。
どのみち、雄一郎は一緒にはなれない相手だ。これを機に会社を建て直すしかない。あのときは、そうとしか考えられなかった。
だから雄一郎に告げたのだ。
『家の事情で貴方に迷惑を掛けたくないから、もう別れたい』と。
その言葉に、雄一郎は形の良い眉をひそめて、苦しげにこう答えた。
『別れない」
薄々『うん』と言ってくれないことは察していた。
雄一郎は麻子のことを諦めないのだ。
何があっても絶対に引かない。麻子に食らいついて離れない。
雄一郎は、精悍で上品な美貌の裏に、激しい執着心を秘めている。
あの執着心がなければ『自分の彼女を、テストの前も雨の日も雪の日も、三年間欠かさず送り迎えする』など不可能だ。
雄一郎の長所は、彼の持つ特異性と表裏一体の関係にあるものだった。
『人は見かけによらない』とは雄一郎のためにあるような言葉だと、麻子は常々思ってきた。
「本当に迷惑掛けたくないから。申し訳ないと思いながら付き合うのも、心労が半端ないの……私、もう、家のことでいっぱいいっぱいで、ごめんなさい」
これは長期戦になるな、と思いながら、麻子はか細い声で言った。
「俺は、誰に何を言われても、全く迷惑じゃない。有象無象の意見に耳を貸そうと思ったことはない。麻子も知っての通りだ」
「だから、そうじゃなくて! 本当に迷惑が掛かっちゃうの……貴方、頭いいんだから分かるでしょう? うちの会社、本当にお金なくて、ごめん……なさい……」
「理解は出来るし、状況も把握している。だが受け入れない。別れない」
五時間にわたる『別れる』『別れない』の応酬の末、貧血で座り込んだ麻子を介抱しながら雄一郎は言った。
「じゃあ、俺も少しだけ妥協する。時間は掛かるが、諸々全てをどうにか出来る現金を作って帰ってくる。だから麻子は、他の男と会話以上のことをせず、俺を信じて待っていてくれ。例外として男性医師の診察は許す」
突然斜め上の答えを返され、麻子は目を点にして「あ、うん、いや、そうじゃなくて別れようね……」と答えたような気がする。
解決なんてできないのに。
お互い生まれ変わって、別の人間にでもならない限りは。
東尋貿易の後継者と、いつどこで潰れるか分からない零細企業の社長もどき。二人の道が重なり合う日はもう来ないのだ。
「じゃあ、元気でね、さよなら」
「さよならじゃない。俺は麻子のところに帰ってくる」
雄一郎の歪んだ顔が、今でも目に焼き付いている。
彼を深く傷つけたあの時が、人生で一番胸が痛かった。
だけど、平気な顔が出来た。本当に心が痛いときは、笑顔になるのだなと思った。
「会いに来たって、会わないから。貴方からの、電話も取らない……から……」
雄一郎とは、あの日から逢っていない。彼からの連絡もなかった。
多分あの後、雄一郎も目が覚めたのだろう。
恋愛と結婚は別物だ、と理解したに違いない。
麻子はその日から『雄一郎様の婚約者』である瑞穂に命綱を握られて、馬車馬のように働き続けている。
――中途半端な別れ方をしたから良くなかったんだろうな。今も、あの人に未練があるのはそのせいだ。
力強い笑い声も透き通るような微笑みも、映画俳優も顔負けの美貌も、大きな温かい手も、麻子を優しく組み敷いた逞しい身体も、全部忘れられない。
麻子にとっては、彼だけが、思っていることを全部言える相手だった。
相性が良かったのだろう、とても。あれ以上一緒にいたら危なかった。そうでなくても、心身共にべったりくっつき合って、離れられなくなっていたから。
――忘れたい。忘れよう。私はもう、忘れた……!
初恋なんて早く忘れてしまいたいと思いつつ、麻子はぼんやりと目を閉じた。
雄一郎が目の前に現れて『本当に迎えに来たぞ』と言ってくれる。
そんな妄想を何度したことだろう。
だがそれは、あり得ないことだ。雄一郎とは、もう三年も会っていない。その間に携帯電話を替え、メールアドレスも変更して、連絡は取れない状態になった。
彼が麻子の前に現れることなんて、きっとない。
でも、それでいいのだ。
麻子の側にいたら、雄一郎は何をしでかすか分からないから。
――会いたいなんて……思わないわ。お互いのためにその方がいい。
奇跡は起きないと知っている。
だから麻子は、ぼんやりと写真を眺め、過去の恋を反芻しているだけだ。
――あんなに人を傷つけたのは、人生で一度きりだなぁ……。
別れを告げたときの雄一郎の目が、やはりどうしても忘れられない。
いい加減、初恋の元カレなんてすっきり忘れたいと思いながら、麻子は掌で目を覆った。何故自分は涙を流しているのだろうと思いながら。
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