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溺愛ハラスメント

栢野すばる

プロローグ (1)



   プロローグ



 神崎かんざき麻子あさこは、仕事で疲れ果てた身体からだを、自室のベッドに横たえていた。

 麻子は、若干二十五歳で貧乏な玩具おもちゃ販売会社の社長を務めている。


 重い心臓病の母に代わって会社を引き継いだのだが、母の病は良くならず、会社の業績もどんどん悪くなる一方だ。

 今日も今日とて、色々なことに困っていた。

 取引先の横暴担当者のセクハラに、山積みの仕事。

 いずれも、大学卒業と同時に、右も左も分からないまま社長業をおしつけられた麻子の手にあまる。

 最近は母の体調が良くなくて、麻子の心労もピークに達していた。

 ――あれも、これも、全部今週中にやらなきゃな。

 やることリストを頭に思い浮かべ、ため息を吐く。

 昔から、気が小さいくせに、色々なことにやたらと気付いてしまう性質だった。

 父が早くに亡くなり、母が苦労していたせいで、空気を読む性格になってしまったのだろう。

 それに麻子は、『おとなしそうに見えるし、いい体をしている。それに目つきがエロくて俺を誘っていると思った』という理不尽極まりない理由で、これまでの人生において痴漢や変質者、ストーカーに追われまくってきた。だから、警戒心が人一倍強い。

 セクハラにいつつお金に苦労する人生なんて、我ながら最悪だと思う。

 だが、そういう星の下に生まれついてしまったようだ。

 ぱっとしない服装で無駄に育った胸を隠し、化粧も最低限にし、ひたすら地味に徹しているけれど、常に索敵さくてきモードMAXで生きているので、毎日疲れている。

 更に言うなら、どんなに地味にしていても、頻繁ひんぱんに気持ち悪い男に追い回されるのだ。

 もはやどうしていいのか分からない。

 ――あっ、そうだ……来月の商談会のための事前資料も作らなきゃ……。

 起きて仕事をしようと思うのに、今日はもう動く気力もない。

 こんな夜は、何故か楽しかった昔のことばかりが思い浮かぶ。

 例えば、人生の中で唯一輝いていた学生時代の思い出、とか……。

 ――元気かな、ゆう一郎いちろう……。

 麻子の思い出の中には、元恋人の姿がある。

 彼の名前は、諫早いさはや雄一郎。

 同い年で、高校に入ってすぐに知り合い、やたらと話しかけられるようになった。

 そしてしばらくった後、『神崎さんは通学中に変な男に会うのが嫌なんでしょ? じゃあ、俺が電車で送り迎えしてあげる』という申し出を受けた。

 あれが実質的な、麻子と雄一郎のなれそめだ。

 イケメンで周囲からの人望も厚い雄一郎が、何故必死に地味子に擬態して、痴漢やストーカーから遠ざかろうとしていた麻子にちょっかいを出してきたのかは、よく分からない。

 一つ分かったのは『雄一郎の趣味が変わっている』ということだけだ。

 だが雄一郎は、『ちょっと人とは違う』部分があるとはいえ、本当に一途いちずで、麻子には誠実な男だった。

 本当に自分で言い出した通り、毎日一緒に登下校してくれたのだ。

 普通の高校生男子はそこまでしない。やってくれたとしても最初の一週間くらいで飽きると思っていたのに。

 だが、雄一郎は違った。『俺は麻子が痴漢に遭うのは嫌だから』と、三年間、休まずに麻子を送り迎えしてくれたのだ。

『毎日律儀に駅まで迎えに来てくれなくていいのに』

 申し訳なくてそう告げた麻子に、雄一郎は言った。

『お前が痴漢に遭うよりいい』

『無理しなくていいよ。雄一郎だって、勉強とか忙しいんだし』

 そう答えつつも、麻子も本当は嬉しかった。

 毎朝駅に行くと、王子様のような美少年が微笑ほほえみかけてくれる。朝っぱらから麻子に手を出してくる痴漢は、全部雄一郎が捕まえて、駅員に突き出してくれた。

 だから、死ぬほど嫌いだった電車通学も大丈夫になった。

 ただの女子高生に、あそこまで尽くしてくれる男の子は他にいないと思う。三年間、文字通り毎日、麻子のそばで騎士のように守ってくれたのだから。

 送り迎えしてやると言われたときは『本気かな?』と思ったけれど、雄一郎の一途で嘘のない言動に、いつしか麻子の心も打ち解けた。

 学生時代、二人で登下校するときはいつも手を繋いで歩いた。幸せな時間だった。

 道を歩きながら他愛ない会話を交わし、公園で二人でジュースを飲んだり、お金があるときは、ファーストフードの店でおやつを食べたり……。

 特別なことは何もしない、平凡な高校生同士の交際だった。

 けれど、そんな風に雄一郎と一緒に過ごした記憶は、全部麻子の宝物だ。

 雄一郎といるだけで幸せで、毎日が甘い幸福に輝いて見えた。

 だから、雄一郎に釣り合うように、麻子も自分の中身を必死で磨いた。

 ずば抜けて優秀な雄一郎の側にいたくて、死に物狂いで勉強し、彼と同じ難関国立の、東都とうと大学にも合格できた。

 けれど、大学に入ってしばらく経つと、少し未来や現実が見え始めた。

 ――多分、大学を卒業したら、雄一郎と別れないといけないんだろうなって、分かっちゃったし……。

 麻子は傍らに置いた携帯を手にする。保存された写真を削除しようとし、今日も途中で手を止めた。

 映っているのは、大学を出てすぐの頃の麻子と雄一郎だ。

 二人で行った公園で、並んで撮った最後の写真。麻子は地味だが、雄一郎は別世界の王子様のように美しい。

 ――ホントに……黙っていればいい男。鳥肌立ちそう。

 麻子はため息を吐く。

 写真の中の雄一郎は、麻子と同じ二十三歳だ。

 光の加減で栗色に輝く髪に、滑らかな肌。切れ長の目は優美で自信に満ちている。

 出会った頃から背が高かった彼は、大学を卒業する頃には見違えるようなたくましい美青年に成長していた。


 ――何だかんだで、雄一郎以上にいい男って見たことない。

 麻子は天井を見上げたままため息を吐いた。

 あんなに純粋に麻子のためを思って行動してくれたのは雄一郎だけだ。

 高校三年間、本当に欠かさず電車で送り迎えしてくれた彼に対して、『男の子と付き合うのはまだ早い』と渋い顔だった母ですら、最後は泣いて感謝したほどなのだから。

 だが、二人の気持ちがどうであれ、雄一郎との恋に引導が渡される日が来た。

 学生の頃は『子供同士の恋愛ごっこ』で許された関係が、社会に出て名前が変わったからだ。『身分違いの恋』と。

 雄一郎は、地元一の名門『諫早家』の長男だった。

 諫早家は、日本でも指折りの商社『東尋とうじん貿易ぼうえき』を核とする、一大グループのオーナー一族だ。

 一方の麻子の家は、潰れかけの玩具販売会社である。

 父は早くに亡くなり、病弱な母がいったん社長業を継いだものの、その地位を大学を出たばかりの麻子に譲り、入退院を繰り返している。

 母は、麻子に『会社のことを気にせず、好きな人と幸せになって』と言ってくれるが、麻子は一応跡継ぎだ。

 古株である高齢の従業員を見捨てて、一人だけどこかに逃げることはできなかった。

 それにそもそも、雄一郎の実家が、麻子など認めてくれなかった。

 雄一郎は親を説得すると息巻いていたが、やめてもらった。

 父ののこした会社は守らねばならないし、無理やり結婚しても、その先は誰からも祝福されないいばらの道だ。

 何をどうしたところで、名家の御曹司おんぞうしである雄一郎との交際は、終わりにせねばならない状況だったのだ。

 ――私って、結構未練がましいな……。私と居たら雄一郎が『本気で何をするか分からない』でしょ。だから、アレで良かったのよ。東尋貿易の御曹司に危ない真似をさせるなんて。

 ほろ苦い想いで麻子は口の端を吊り上げた。明日は朝イチから会議だ。

 果たして来年まで、麻子が父から継いだ小さな玩具販売会社は存在しているのだろうか。

 ――うっ、胃が痛い。

 麻子はベッドから跳ね起き、いつもの胃薬を流し込む。

 恋もない、趣味もない、お金もない。責任と仕事だけは山積みだ。

 本当に何の展望もなくて、気分が晴れる日が全くない。

 せめて病弱な母だけは、屋根のある場所で守らなければ。

 ――私の人生、よく分からない苦労が多すぎかも。

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