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元帥皇帝のお気に入り~没落令嬢は囲われ溺愛に翻弄されてます~

如月

第一章 (3)

 その時、突然、背後で物音がしたと思うと、ローズリーヌの口がふさがれた。叫び声を上げる暇もなかった。勢いで眼鏡が跳ね飛ばされ、泥濘(ぬかるみ)に落ちる音がした。心臓が(つか)まれたような衝撃に耐えて、彼女は全神経を研ぎ澄ました。
 背後から完全に動きを封じられ、顔の下半分をすっぽりと手で覆われた上に、目の前には剣の切っ先が据えられている。
 眼鏡がなくとも、至近距離にぬらりと光る刃物があって、しかも鮮血で汚れているのが見えて、ローズリーヌはもはやここまでかと思った。
「シッ……大声を出すな」
 出そうにも口を塞がれていて出せない。
「騒がないなら、手を離す。だが、短剣はいつでもおまえの喉を裂くことができることを忘れるな。おまえはこの村の者か」
 相手はそう言って手を緩めた。
 ただし、彼女が騒げばいつでもまた屈強な猿轡(さるぐつわ)になるだろう。
 ローズリーヌは無言で大きく(うなず)いた。
「物乞いの仲間か」
「……? いいえ」
「馬具を盗もうとしていただろう」
 思いがけない言葉に、彼女は控えめに反論した。
「ち、違います! 見慣れない馬がいたので近づいただけです」
 ――ここはわたしの家の所有の森なんだから。泥棒がいるとしたら、それはそっちのほうよ!
 と言いたいところだったが、目の前に血のついた短剣が突きつけられている。
 この短剣はいったい何人の人間を殺したのだろう。
 村の誰かが犠牲になったのかもしれない。この男を苛立たせてはいけない。
 逆上させたら終わりだ。
「ふん。よく見たら子どもか。行け! さっきは脅したが、女、子どもは殺さん。たとえ刺客(しかく)であっても」
 男はそう言って、ローズリーヌから手を離した。
 ローズリーヌは解放されると、走って逃げたいのをこらえ、眼鏡が落ちた辺りにうずくまり、地を這うようにして眼鏡を探した。
 すると、頭上から舌打ちする音が聞こえた。
「おまえ……目を病んでいるのか?」
 と言って、男が数歩先に落ちていた眼鏡を拾ってローズリーヌに手渡した。
 その声から殺気だった気配は消えて、いたわりのような、同情のような響きが混じっている。
「ありがとう」
 と言ってから、彼のせいでこうなったので礼など言う必要なかったと思った。
 眼鏡は見事に水たまりに落ちたらしく、泥まみれだ。しかし、これがないと視界がぼんやりして歩くにも少々おぼつかないので、汚れたままの眼鏡をかけた。
 そして彼女は後じさりしながら、男から遠ざかった。
 相手が襲ってくる様子がないとわかると、ローズリーヌはくるりときびすを返し、泥眼鏡で見づらい中、もと来た道を駆ける。
 背を向けていると、男の間近にいた時よりも恐怖心が増した。
 彼女は少し走ってから灌木(かんぼく)の茂みに身を潜め、ポケットからハンカチを取り出して眼鏡を拭った。足音が近づいてくる気配はない。
 男は本当にローズリーヌのことを村の子どもと思って見逃したのだろう。つくづく小柄な体格でよかった。
 あるいは、彼は警戒していただけで、盗賊や追い剥ぎの類ではなかったのかもしれない。乱暴なならず者であれば、年端のいかない子どもでも襲ったりするというから。
 ――じゃあ、あの血は何……?
 早く、邸に戻らなくてはと思うのに、ローズリーヌはふと気になってしまい、汚れの落ちた眼鏡をはめ直し、明瞭になった視界の中、あの男のいた場所へと脚を踏み出した。
 馬はまだその場所にいた。
 少し離れたところに、さっきの男が腰を下ろしていた。膝を曲げ、片方の脚にはブーツを履いていたが、左足は脱いでいた。投げ出されたブーツはゲートルつきで、(かかと)の部分には銀の拍車がついている。
 彼は左足の膝を立ててブリーチズの裾をまくり上げた。遠目に赤い色が見える。
 あの鮮血は彼自身のものかもしれない。
 ――怪我(けが)をしていたの?
 彼に気づかれないように、木の陰から息を殺して凝視してわかったことは、どうやら彼は、足の傷から入った毒を絞り出しているらしい、ということだ。毒蛇に()まれたか、毒矢で射られたか。
 ゲートルに穴や傷が見当たらないので、蛇かもしれない。
 ローズリーヌが見慣れない馬がいると思って近づいた時に、おそらく彼は一刻を争う手当てをしていたのだ。
「あの……」
 ローズリーヌはもう身を隠すのもやめ、彼に近づいた。さきほどの恐怖はすっかりなくなっていた。
「まだいたのか。早く行け」
 と、彼は(うめ)くように言ったが、今はもうこちらに関わっている暇はないらしい。
 傷口を摘まみ、血を絞り出している彼の顔は苦しそうに(ゆが)んでいた。
「蛇に噛まれたんですか?」
「――まあ、そんなところだ」
「吸い出しましょう」
「なんだと?」
 彼は少し身じろいだが、ためらっている暇はなかった。
「村の子どもたちが噛まれた時、いつも手当しているから慣れています」
「ならぬ、それは矢毒の類かもしれない」
「えっ?」
 ローズリーヌは驚いて少しためらったが、すぐに自分のウエストに巻いてあったリボンを外し、彼の膝下を縛った。それから傷口を観察した。蛇の噛み跡ではなく、(くぎ)のような(とが)ったもので浅く(えぐ)られた傷だった。人の手によるものだろう。
「少し腫れていますね」
 それから、彼女は相手の男の目を見つめた。焦点は揺れていないし、受け答えもはっきりしているから、致命傷を与えるほどの猛毒ではないと思う。
「リョウトウヘビか、クサリヘビかも……。どういう状況でこの傷ができたんですか?」
 ローズリーヌの問いかけに、彼は改めてその素性を探るように彼女を見返した。
「物乞いを装った女が足元に擦り寄ってきてお恵みをと言うので衣嚢(かくし)から金を出そうとした時、尖ったものでひと突きされた。おまえは仲間じゃなかったのか」
「違います。それで、その人は?」
「逃げた」
 彼が、女、子どもは殺さない、と言った意味がわかってきた。
 ということは、犯人はまだ近くにいるかもしれないが、ぐずぐずしてはいられない。
 再びローズリーヌは彼の足に視線を戻し、体を(かが)めたが、眼鏡が邪魔になったので、それを外して脇に置く。
 そして彼女は、男の膝と脛を手で支えて、顔を近づけた。
「おい、おま――っ?」
 彼女は吸い取った血を草むらに吐き出し、また吸い取った。
 蛇の毒なら口から摂取してしまっても害はない。そうでない場合は――今、この瞬間にわかる。悶絶(もんぜつ)して死ぬという事実によって。
「すぐにやめろ。口をすすげ」
 相手のひるんだ声が聞こえたが、ローズリーヌは作業を止めない。
 ――舌がしびれることもないし、吐き気もしていない。大丈夫だわ。
 ローズリーヌは続けた。
 自分のせいで手当が中断され、毒の拡散が進んでしまったとすればひどく申し訳ないと思い、彼女は懸命に、血を吸い出しては捨てた。
 出血が止まるまでそれを繰り返し、顔を上げると、彼女は言った。
「これ以上は……温めたほうがいいので、わたしの家に来てください。この辺りはまだ危ないですし、そのほうがちゃんとした手当ができるでしょう」

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