話題のラノベや投稿小説を無料で読むならノベルバ

元帥皇帝のお気に入り~没落令嬢は囲われ溺愛に翻弄されてます~

如月

第一章 (2)

「かしこまりました。では参りますが、お嬢様はどちらへ? 一時間ほどしたら、ドングラー殿がやってきます」
 ローズリーヌは、眉をひそめて、不格好な眼鏡をくいっと持ち上げた。
 ドングラーはいつも、実に正確にそのシーズンの最終日を把握していて、一日も遅れずに借金の取り立てにやってくる。
「裏庭にベカスを探しに行こうと思って」
「そういえば、今日はずっと見ておりませんね」
「それでお母様が心配しているの。……(うまや)の裏の生け垣の壊れたところから外へ出てしまったかもしれないわ」
「でしたら、お嬢様はお部屋でお待ちを。下男に捜させましょう」
「みんな忙しいし、ベカスはわたしが呼ばないということを聞かないのよ。すぐ戻るから、ドングラーさんがいらしたら、応接の間で待っていただいて。それから、お母様にはドングラーさんが来ることは絶対に言わないで」
 そう言って、ローズリーヌは執事を追い抜いて階下へと足を速めた。
「ですが、ドングラー殿はなぜ今回に限って、残額全て返せと言うのでしょうか」
 老いた執事の疲れた声に、不安の色が混じっているのを聞きとがめ、彼女は振り向いた。
「たぶん……、皇帝陛下が身罷られたからじゃないかしら。治世が変われば法も変わる。それを心配しているのよ」
「しかし……今月中に三千ルブランなどとうてい無理です」
「ちゃんとお願いすれば待ってくれるわよ。今まで一度だって返済を遅らせたことなどないんだから――ほら、お母様が待っているからもう行って」
 こうして、彼女は執事を()き立てて外に出ると、中庭を横切り、裏庭へ向かった。
 邸の内外に、豪華に飾られた馬車が並んで、紳士淑女たちが帰途につく時を待っている。明朝には全て出払って、前庭は、戦場跡みたいに踏み荒らされるだろう。
 犬を探すというのはいい口実だ。ローズリーヌは今、ひとりになりたかった。
 彼女は家を守るための重大な決意をしており、それには相当の覚悟が必要だった。
 気持ちが揺らがないよう、腹を据えるために、夏の残照を浴びながら人気のない場所でひっそりと物思いにふけりたい気分なのだ。
 ()れた草地を踏みしめながら、彼女は呟いた。
「大丈夫、家のためなら、耐えられる」
 自分に言い聞かせるようにそう言ったものの、まだむくむくと頭をもたげてくる不安を踏みつぶすように、さらに力強く足を踏み出す。
「ちょっと我慢するだけよ――みんなが安心して暮らせるなら、それでいい」
 ドングラーの紹介で、とある資産家が子息の家庭教師を探しており、その任を引き受けるならば、無利子で三千ルブラン貸してくれるというのだ。
 条件として、時々、そのご主人の話し相手をすること――それが、何を意味しているか、ドングラーのねっとりした口調で明らかだったが、ローズリーヌが動揺の色を見せず、明るく振る舞っていれば、母をもだまし通せると思う。
 なにより、あの申し出を断って家を手放したら、使用人たちはどこへ行くの?
 お父様の思い出の残るこの家を失ったら、お母様はどうなるの?
「そうよ。お母様がこれ以上衰弱してしまうよりは、断然マシなのよ」
 こうして、何度も自分に言い聞かせているうちに、ようやく心の揺れは収まった。
 ひとつだけ、物思うとすれば――。
「一度くらい、素敵な恋をしてみたかった……かも」
 それから、ローズリーヌは軽く首を振って、邪念を払った。
「このわたしにそんな機会が訪れるわけないでしょ?」
 そして、乙女らしい雰囲気を損なう眼鏡に手をやってから、辛子(からし)色の、リボンもレースもついていないドレスをパタパタと叩いた。
 ローズリーヌがこんな質素ななりをしているのは、金に困っているからというだけではない。彼女は美しい淑女たちをたくさん見過ぎて目が肥えてしまい、中途半端に着飾ってもどうにもならないのだと諦観してしまったのだ。
 もし自分と同じ風貌、年頃の娘を連れたお金持ちが、よい縁談を、と言ってきたらすごく悩んだに違いない。彼女の見知った殿方の多くは、暗い書庫で本ばかり読んでいて目を悪くした女など、煙たいだろうし、華やかさをひとかけらも持たない彼女を社交界で連れて歩きたいとも思わないだろう。
 こうして彼女はすっきりと、小さな夢を払いのけた。
 ――よし。もう大丈夫。
「……ベカス!」
 彼女は愛犬の名を呼び、耳を澄ませた。しばらく待ったが、犬の声も足音も聞こえない。
 生け垣から森に出てしまったのだろう。
 社交シーズン中、忙しかったために修繕しないままにしていた小さな隙間を、ベカスが何度も出入りしているうちに、今では人が()って通れるほどになってしまった。
 夜の間にひと雨きたようで、生け垣も草も少し濡れている。森はサンドラ家の所有地ではあるが、野犬や毒蛇など、さまざまな危険が潜んでいる。
 俊敏な犬だから大丈夫だとは思うが、十二歳を超える老犬だ。
 古い厩の裏にある木戸を開けて外に出ると、足元の茂みがカサカサと音を立てて、トカゲが走っていった。
「ベカス! どこなの?」
 もう一度、彼女が叫ぶと、今度は頭上でけたたましい鳥の鳴き声と羽ばたく音がした。
 愛犬の気配は感じられず、彼女がさらに歩いていくと、ところどころ水たまりができて泥濘(ぬかる)んでいる。もっと奥に行くと沼があり、雨上がりはとくにシギが集まって格好の猟場となる。
 ベカスは見つからなかったが、コナラの木の下に一頭の馬がいた。
 ちょうどその辺りにはウマゴヤシが(しげ)り、馬を休めるにはいい日陰となっているが、その主はどこだろう。
 彼女は馬を脅かさないように静かに近づいた。
 明らかにサンドラ家のものではない馬だ。
 綱で縛られることもなく、ぽつんと残されていたのは立派な体躯(たいく)を持った黒い馬で、鼻づらから額にかけで白斑があった。(くら)もつけたままで、頭絡は緋色(ひいろ)のフェルトに金刺繍が施され、見事な赤と金の房がついている。手入れもよく毛艶も見事な健康そうな馬が、ローズリーヌのことなど気にも留めない様子でウマゴヤシを食べていた。
 彼女は注意深く観察してみた。(あぶみ)は木製の箱型で、黄金に鍍金(ときん)された透かし彫りで装飾されている。
 よく見ると、頭絡の刺繍はエンブレムのようであり、十字架と船の模様だ。
 ――お客様の忘れ物……?
 ローズリーヌは記憶を手繰ってみたが、こんな紋章を持つ客はいなかったと思う。
「立派な馬。ねえ、あなた、どこから来たの?」
 答えるはずもないが、ローズリーヌは馬に話しかけてみた。
「ご主人様はどこ? すぐに戻ってくる? それとも――」
 ()()ぎに襲われたとか、どこかで具合を悪くしているとか、そんな想像が頭を過ぎり、馬の主を見届けたくなった。
 金貸しがもうすぐやってくるというのに。
 だが、ローズリーヌは目の前の謎解きに熱中してしまった。
「……十字架と船は、ええと、そう――カルグの白い家に描かれているんじゃなかったかしら? 鞍が立派過ぎるけど、もしかしたらあなたのご主人は牧童(ガーデイアン)さんかし……っ!」

「元帥皇帝のお気に入り~没落令嬢は囲われ溺愛に翻弄されてます~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます