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ご主人さまはドS部長~会社にナイショで溺愛されてます~

大村瑛理香

第一章 始まり (2)

 別段、大声を張り上げているわけでもないのに、二百名ほど集まって立っているフロアの隅々まで彼の声はよく響いた。
 一番後ろに立って聞いている私の耳にもその声はよく届く。低く落ち着きながら、けして単調な口調というわけでもない。話の中身が辛辣な業績評価の話でなければ、できたら一時間くらいはうっとり聞いていたいような良く響くテノールだった。
 前の方に詰めかけた女性社員達が、陶然と聴き入っているのは、もちろん声だけのせいではない。少し長めの前髪を後ろに撫で付けた黒髪。街中ですれ違ったら思わず振り返ってしまうような整った精悍な顔立ち。百八十cmはゆうにある身長と堂々とした風格は何者も抗えないような歳以上の貫禄を感じさせた。
 このカイホク食品は、外食産業や小売りスーパーへの食品卸や、輸入食品も扱っており、国内では最大規模の大手商社の類に入る。コネもない、内気で極々凡人の私が、こんな有名企業に入れただけで、人生の幸運を使い果たしたんじゃないかと思っている。
 一般事務職として入社して一年と三ヶ月。割合のんびりした経理にいた私は、今年に入り、社の花形である営業二課に配属された。営業はこの社の花形部署だけあって、去年までいた課とはまったく違い忙しく、日々仕事に慣れるのに精一杯。
 そんな冴えない自分が、他の綺麗で自信に溢れた女子と一緒に、社内の憧れの君に熱い視線……なんて余裕もなかった。
 思い返せば、恐怖の篠山部長との出会いは就職面接だった。
 あのライオンのような瞳と声で、志望動機だ資格だ将来への考えだとかを、これでもかというほど突っ込んで聞かれて。その迫力と目力に縮み上がり、しどろもどろで終わった面接──絶対落ちたと思っていたのに、なぜか受かった時は本当に驚いた。
 入ってみれば、周囲はみんな有名大学出身の優秀な人ばかりで、間違って採用されたんじゃないの? とずっと疑問に思ったくらい。
「安野さんは他の女の子達みたいに、最前列争奪戦に入らないの?」
 同僚の伊井創也(いいそうや)が、後ろに立っていた私を見つけて声を掛けてきた。
「あ、うん、いいの! いいの!」
 なるべく、静かに目立たないように。そっと後ろに下がっていたい私は、プルプルと首を横に振った。
「部長……ちょっと私は……」
 素敵だけど怖いと言ったら笑われるだろうか。
「あー結構、睨みきかせてくるよな。嫌いなんだ?」
 伊井くんはニヤッと笑って顔を近付けてきた。
「あ……ううん、そうじゃなく…」
「いいって、いいって、嫌いな奴はいるよ」
(嫌いっていうのとはまったく違うんだけど……まあ、いいか)
 伊井くんの勝手な早とちりに抵抗できずに私は黙った。
 彼は、若手の中では上司の覚えもめでたく、見た目も振る舞いもちょっとヤンチャだけれど、ウチの課の中で優秀な人材……と言われている人だった。人受けが良い図々しさも持っていて、顔も広い。そのせいか地味OLな私にも良く声を掛けてくれるんだけど、「女の子大好き」と公言しているだけあって、ちょっと距離が近い時が多くて困る。話せば悪い人じゃないけど……パーソナルスペースの違いだな、と思う。
「じゃあさ、俺の後ろに隠れたら?」
「え?」
 突然の伊井くんの申し出に私はキョトンとした。
「ほら、こーすれば部長から見えないじゃん」
 そう言って、彼は私の前に立った。
 確かに伊井くんは背が高いから、ちびっこな私はすっぽり隠れる。本当に部長から隠れたいわけじゃないんだけど。まあ、いいか……私は伊井くんの強引な申し出に苦笑いしながらお礼を言った。
「ありがとう」
(悪い人ってわけじゃないんだよね)
 私は、ありがたく伊井くんの影に隠れて、小声で聞いた。
「伊井くんこそ、前に行かないの?」
 部長に顔を覚えて貰おうっていうのは女子社員だけじゃない。出世欲に燃える若手男性社員も、だったから。
「んー、まあ俺はやる気と能力は仕事で見せるっていうか」
 彼の意外な一面に私は少し驚いた。もっと軽く生きているように思っていたけれど、噂より本当はずっと真面目なのかもしれない。
(勝手なイメージ持ったらいけないよね)
 部長にだってそうかもしれない。伊井くんの後ろに隠れている事で若干気が大きくなった私は、少しだけ前を覗いた。
(あのイケメンで、少しだけでも笑顔を見せてくれたらもっと親しみが持てるのに──)
 私は今朝の部長を思い出していた。
(そういえば──毎日ありがとうって。私が毎日掃除しているのを部長は知っていたって事?)
 そんな事をチラッと思った瞬間、部長が私を見た気がした。
(えっ……)
 ドキッとして慌てて、再び伊井くんの背中に隠れる。
(朝礼中に考え事していたのがバレた?)
 部長と視線が合った、かもしれない。それだけでビクビクしてしまう気弱な自分が情けない。
(気のせいかな? ううん、確かにこっちを睨んでいたよね)
 伊井くんの幅の広い背中に隠れつつ、部長の話が終わる時を待つ。
(あ〜ドキドキした。まさか朝から、部長とぶつかったり、朝礼で目が合うなんて)
 心臓に悪い、一週間の始まりだった。

「今日も疲れたぁ……」
 一時間ほど残業して、社を出た私はふぅぅと大きなため息をついた。世の中はプレミアムフライデーだけど、私は帰って寝るだけだった。
「やっと一週間が終わったな」
 部署が変わってこの三ヶ月、あっという間だったというか、怒涛の日々だったというべきか。優秀でも有能でもない入社二年目の私は、人一倍頑張らないと、と気が張る毎日だった。
 最近は営業二課の仕事のペースや人間関係にも少しだけ慣れたけど、私がしゃかりきに頑張っても優秀な人は更にその上を軽くいく。追いつかない悔しさを毎日抱えてはまた頑張ろうと思う事の繰り返しだった。こんな毎日に、時折(私、会社の役に立っているのかな?)と不安に陥る事もままあった。
 二年目の新人が何を言っているのか──。仕事に慣れる事が今は大切だとわかっている。でも、毎日の仕事は営業職の人達が外回りで得た仕事の書類の作成やデスクワーク、下調べなどのサポート業務……大事な仕事だとわかっているが、巨大な企業のいち歯車として働いていると、一つ一つの達成感を感じにくいのも確かだった。
「この仕事、向いているのかなぁ……」
 ため息をつきながら、電車の時間を確認する為、カバンからスマホを取り出した。
「あれ? 不在着信?」
 着信履歴を見ると学生時代にやっていた家事代行サービスのバイト先からだった。懐かしさに、私は、すぐにリダイヤルを押した。
「あ、もしもし店長ですか?」
「あー、優梨ちゃん! 久しぶり!」
「すみません、年末の鍋会に呼んでいただいて以来すっかりご無沙汰しちゃって。お元気ですか?」
「うん、うちはみんな元気だよ。ごめんね、電話。仕事中だったかな? どう? 仕事は」

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