【急募】オオカミ社長の週末花嫁~子作りするとは聞いてません!!~

麻生ミカリ

第一章 恋が始まるその前に (2)


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 JR田町駅から徒歩十七分。
 来実の勤めるマガミフーズの本社ビルは、鏡面加工の外壁に朝陽が反射してひどく(まぶ)しい。毎朝、このビルを見上げるたびに「今日も仕事に来たなあ」と目を細める。
 マイペースな来実ではあるが、職場ではそれなりに頼りにされるチーフの立場だ。目を細めたあとは、きゅっと心を引き締めてビルのエントランスを入っていく。
 四十七階建てのビルの四十階の南フロアが、来実の配属されている秘書室のオフィスだ。
「おはようございます、冷泉さん」
 最初に声をかけてきたのは、昨春に入社した新人、水野美也子(みずのみやこ)。大学を卒業したばかりの美也子は、黒く艶やかな髪を肩に垂らし、にこっと微笑む。笑顔のかわいい後輩である。
「おはよう、水野さん」
 八年前、来実が入社したころは専門学校や短大卒の女性社員が何名かいたけれど、今年の新卒は全員が大卒ないし、大学院卒だ。優秀な後輩たちに気後れするところがないとは言わないが、そもそも何かを競う仕事でもない。
 秘書室チーフになって二年。
 自分が、お(つぼね)と呼ばれる立場だという自覚もある。
 ──問題は、寿退社なんて夢のまた夢ってことだなあ。
 美容室で勧められるまま、アッシュオリーブ色に染めたふんわりやわらかなボブカットに手をやって、毛先を指にくるりと絡める。
 美也子のようなストレートヘアに憧れたこともあったが、横着が勝ってつい楽な長さに切ってしまう。女子力というものが、自分には欠落しているらしい。
 そもそも、東京で暮らしている女性の皆が皆、オシャレなカフェでランチをし、人気のショップで買い物をし、休日ともなればヨガスタジオに通い、その後はネイルサロンで甘皮のケアをしているわけではない。
 むしろ、来実はそのどれもこれも未体験である。
 平日は朝から晩まで重役の年配男性のスケジュール管理に明け暮れ、買い物は大半が激安スーパーの特売日、昼食は社員食堂か近隣の定食屋で、月末はおかずの少ないおにぎり弁当を作ってくる。休日は部屋の掃除をして、何度も読み返した文庫を読むか、たまにレンタルショップへ行って旧作のDVDを借りる程度の生活だ。
 ネイルサロンもヨガスタジオも、テレビや雑誌でしか見たことがない。
 自席に荷物を置いて、ふう、と息をつく。
 朝からコマネズミのようによく動く美也子に目をやると、彼女の細い指先は薄い桜色に小さなパールをいくつかあしらったネイルアートが施されていた。
 あれが、女子力というものか。
 不意に机の上の電話が鳴る。まだ始業時間前だというのに、どうしたことか、来実は内線ランプを確認してから受話器を取った。
「はい、秘書室でございます」
 すると、電話の向こうで一拍分の呼吸が聞こえる。
『おはよう、真神(まがみ)です。加賀智(かがち)さんはもう出社していますか』
 少しかすれがちな、低くてしっかりした大人の男の声。
 声の主は、真神志狼(しろう)
 マガミフーズの御曹司であり、若き社長であり、女性社員たちの憧れの(まと)であるそのひとからの内線に、来実は自然と姿勢を正した。
「おはようございます、社長。加賀智室長は、今朝はまだのようです」
 普段、来実は専務の秘書として働いている。ただし、専務の片山(かたやま)は年明けからこちら、怪我で休職していた。年始早々、息子夫婦とスキーに出かけ、リフトから落ちて尾てい骨を折ったのだ。
 そのため、専務不在の間は必要に応じて手の足りないところのサポートをしてきた。
『──失礼、きみは冷泉さん?』
 精悍な外見と裏腹に紳士的な若社長から名を呼ばれ、一瞬心臓が跳び上がりそうになった。無理もない。来実は、志狼と仕事で関わったことなど一度もなかったのだ。
「はい、冷泉です」
 何か気の利いた返事でもできればいいのだが、社内の人間相手に「いつもお世話になっております」もおかしいし、かといっておどけて対応したら秘書室の品位を疑われる。
『そうか、ちょうどよかった。就業前に申し訳ないんだが、今から社長室まで来てもらえないか?』
 ──社長、直々の呼び出し!?
 何かあったのかと、思わず来実は目を(みは)った。息を呑んだのが伝わったらしく、電話越しに志狼が低い声で笑った。
『悪い話じゃないから心配いらない。それとも、朝は忙しいかい?』
「い、いえ、すぐに伺います」
 相手に見えないことも忘れて、その場で頭を下げると、受話器を置いてすぐに来実は立ち上がる。
「冷泉さん、どうかしたんですか?」
 心配そうに、常務秘書を務めて二年目の雪原陽月(ゆきはらひづき)がこちらを(うかが)っていた。
「いえ、社長に呼ばれただけ。何もないので心配しなくてだいじょうぶよ」
 マガミフーズに入社して秘書室に配属されたのは八年前。仕事中の口調は優雅に、と新人担当だった先輩から教え込まれていた。その先輩も、すでに寿退社している。それでも、もとが不器用な来実は、教えられたことをきちんと実践し続けている。
 結果、冷泉という名字の印象も相まってか、
『秘書室チーフの冷泉さんは、冷静沈着で大人の女性』
 という、まったく来実とはかけ離れたイメージを生んだらしい。
「そうだったんですね。いつも落ち着いている冷泉さんが困っているように見えたので、勝手に心配してしまいました」
 後輩の言葉に、薄く微笑んで返事と代える。
 仕事をするうえで、別段困ることもないため、訂正して歩くことはないのだが、本来の自分とあまりに別人なイメージに、時折面映(おもは)ゆい気持ちになった。
「雪原さん、加賀智室長がいらしたら社長室にいますと伝えてもらえるかしら」
「わかりました」
「行ってきます」
 一礼して、来実は秘書室を出た。
 エレベーターホールへ向かいながら、どうして自分が冷静沈着だなんて勘違いされているのだろう、とため息が()れる。
 ──大人の女性って言われても、今まで恋愛すらしたことがないのになあ……
 仕事上、落ち着いて控えめであることが望ましいと言われたから、そのとおりにやってきた。もしこれが、「秘書とは元気いっぱいであるべき」という教えだったなら、来実の印象はまったく違うものになっていたのだろうか。
 お人好しで不器用で真面目。
 友人からは、よくそんなふうに言われる来実だが、だからこそ努力を惜しむことはしなかった。幸いにして、不器用ではあるけれど学習能力は人並みに備わっている。学んだことを、着実に積み重ねることは不可能ではなかったのだ。
 だから、家事や仕事のようにある程度手順の決まったことはテキパキこなすことができる。一度覚えるまでに時間はかかるが、身に着けたあとは次第に手際が良くなっていく。
 多くの女性がオシャレや恋愛に夢中になっていた学生時代を、来実は家事とアルバイトに明け暮れて育った。ひとえに家庭事情のせいである。
 けれど、底抜けにお人好しのため、ほかの子たちと比べて自分は自由な時間が足りなすぎるとは考えずに、「家事もバイトも、だんだんいろんなことができるようになっていくのは楽しいなあ」なんて思っている。それが素の冷泉来実である。
 エレベーターホールを挟んで北側は、役員フロアだ。

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